E級への昇格条件
――筆先が、紙を撫でるたびに、心が震える。
F級ダンジョン。
血と苔の匂いが混じった空気の中、俺は膝を折ってしゃがみ込み、スケッチブックに集中していた。
鉛筆の硬さはB。
紙質は粗めのコットン。
完璧だ。
視界の中心にいるのは、紫斑のついたカエル型モンスター《跳毒ガエル》。跳ね回るたびに毒胞子が舞い散るこいつを、絶妙な距離感で観察しながら、筆を滑らせていく。
集中のあまり、つい口元が緩んだ。
「っ……ふぅ、いい……いい動きだな……っ」
絶妙な重心移動。
跳躍の弾みで浮いた腹の筋肉。
視線の先に感じる野性の気配。
これだ。
この一瞬を、逃したくない。
描いているうちに、内側がジワジワと熱を帯びてくる。
心拍が少しずつ上がって、息が浅くなる。
……そう、いつも通りの快感。
これがあるから、写生はやめられない。
まるで世界のすべてが、この一枚に収束していくような、そんな錯覚すら覚えてしまう。
「師匠……写生中の顔、視聴者さんに見られてますからね?」
横で見ていた詩乃が、眉をひそめながら呟いた。
「ん? 顔? よく描けてるでしょ?」
「いや、だからそうじゃなくて……」
彼女はなぜか呆れ口調でそう言いながら、ため息ながらに言葉をとめた。
そういえば、コメント欄も、ここ最近はかなり賑やかになったと思う。
“またなんかヤベェ顔して描いてるなこの人”
“それ見てる詩乃さんの顔www”
“画角、少し下げて。鼻息聞こえてるww”
“もはや写生がR指定に見える”
“でも描写力やべぇな、惹き込まれる”
“集中力おばけ。まじでこの人だけ異次元”
“このチャンネル、怖いのに見てしまう……”
“狂気的すぎて好きになってきた”
“今んとこ絵にしか興奮してないのが逆に怖い”
“詩乃さん逃げてぇぇぇ!!笑”
チャンネルが盛り上がるのは、S級探索者になるためのある種、必須条件と言っても過言ではない。
だから方向性としては、このままでいいはず。
「師匠、今日も配信盛り上がってますよ。当初の方向性とは、かなり違うかもですけど……」
カメラの後ろでは詩乃が、苦笑を浮かべている。
「まぁみんな、楽しんでくれてるし。俺は全然かまわないよ」
「それなら、よかったです」
彼女が小さく溜め息をつくのが聞こえた。
そういえばこのチャンネル、今日で登録者数が《290》を越した。
数日前までは二桁台だったこの数字が、詩乃との出会いや猿神エン=ムカとの遭遇を経て、じわじわと伸び続けている。
“チャンネル登録しました!”
“あの猿神縛ってた人ですよね!? 本物だー!”
“モンスターと戦わないのに、なんでこんなに惹かれるんだ……”
“もう少しズームおなしゃす、詩乃さん”
今日もたくさんの視聴者さんと楽しく配信ができて嬉しい。
俺は思わず口元がほころぶ。
* * *
そして配信を終え、
俺たちはF級ダンジョン最奥のダンジョンコアを破壊し、出口へ向かっている。
ちなみにこのダンジョンコアというのは、ダンジョンの存在自体を維持するための、いわば心臓的なもの。
大きさ二メートル超のひし形クリスタルで、色合いは赤、青、黄と、ダンジョンによって様々。
大抵はその最奥部に浮かび上がっている。
これを破壊すればダンジョンは存続できなくなり、約一日かけて消滅に至るという法則だ。
探索者としてダンジョンを攻略したと認められるのは、コア破壊。
これが完了するまでだ。
そして俺は、今日で合計三つのF級ダンジョンの攻略を配信に収めた。
つまりE級探索者への昇格条件のうち一つが達成というわけだ。
「今日は……ご機嫌でしたね、師匠」
「まぁそりゃあね〜!」
配信自体が楽しいのもある。
絵を描くのも最高に幸せだし。
だけど今日はそうじゃない。
「チャンネル登録者が300を超えたからですか?」
「うん。これであとは再生時間が1000時間以上だっけ? 昇格の条件」
「……1000時間? そんなの、とっくに達成してますよ?」
詩乃は素っ頓狂な顔で小首を傾げる。
「え……そうなの!?」
「はい。エン=ムカ戦の時点で、再生時間についてはクリアしてました。だからあとはチャンネル登録者数だけだったんです」
「そ、そうだったのか」
なんだかアッサリと昇格条件が揃ってしまって、正直拍子抜けだ。
まぁなんにせよ、これでS級へ一歩近づけた。
「師匠、おめでとうございます!」
詩乃はそう言って、優しく微笑んだ。
「ありがとう」
と、俺も小さく微笑み返した。
「それはそうと、詩乃」
「はい?」
「昇格には試験があるんだっけ? どんな試験なの? 絵を描けば受かるの?」
「……違います。戦闘です」
詩乃が眉をひそめ、ピシッと指を立てる。
「E級探索者の試験は、C級以上の探索者が監督者として立ち会い、実力を見極める形です。指定モンスターの討伐、もしくは模擬戦が主な内容ですね」
「ふむふむ。なるほど」
「まぁ試験の度、試験官が違うので何ともですが、要はE級探索者以上の実力だと、見せつければいいわけです」
と、ある程度の説明を聞いたわけだが、試験を受けるには申請をしなくちゃいけないらしい。
俺はダンジョンから出た後、詩乃とギルドまで足を運び、昇格試験の参加申し込みを行ったのだった。
* * *
申し込み自体はすぐに終わった。
どうやらちょうどタイミングよく、他にもE級昇格希望の探索者が二人ほどいるようだ。
試験の日程もすでに決まっていたので、俺はそこに割り込む形での参加となった。
試験は四日後。
ギルド内の演習場にて行うとのこと。
「試験、楽しみだなぁ」
申し込みを済ませ、ギルドから去った後、俺はふと呟いた。
「……師匠、さすが余裕ですね」
「いや、探索者の写生って初めてだからさ」
「描かないでくださいよ!? 本気で写生なんて始められたら試験官さん、何を評価すればいいか分からないですからね!?」
食い気味にツッコまれた。
「……冗談だよ」
「なんだぁそっか、冗談ですか。さすがの師匠も、そんな常識外れなこと……って、なんで目が泳いでるんですか!? ほんとにしないんですよね?」
「し、しないしない! 非常識だもんね、そんなこと!」
心底安心した様子で軽快に語る詩乃に、俺も同じ口調で返す。
内心は少しへこんでいた。
本気で描こうと思っていたから。
だけどまぁ……ちょっとくらいなら、ね。
試験中に珍しい光景を目にしちゃったら、我慢できる自信がないけど。
それは、さすがに言わないでおこう。
* * *
探索者ギルドにて。
「受付の姉さんよぉ、次のE級昇格試験、オレが担当だって?」
男は受付の女性が座るデスクに両手をついて向かい合い、煙草の代わりに嚙んでいたミントラムネをぷちっと噛み潰す。
「はい。F級昇格候補が三名います。ウチ一人は、例の猿神を撃退したって話の……」
「あの希少種モンスター、猿神エン=ムカが、F級ダンジョンに複数体現れたっていうやつか」
男がスマホで悠生のチャンネルを確認し、目を細める。
「写生、ねえ……フザケてんのか」
だが、映像越しでも感じる異様な集中力に、思わず息を呑んだ自分が腹立たしかった。
「その……動画も見ましたけど、本当に絵を描いてましたね。敵を縛って、観察しながらペン走らせて……」
「戦闘じゃねえのかよ」
「戦闘……もしてました。最終的に猿神、数体撃退してます」
「はぁ……!? ただのF級がどうやって……。まぁいい。どんな奴だろうが関係ない」
男が不敵に口角を上げる。
「このオレ、九重タクト様が試験官になったからには、そう簡単には受からせねぇぞ。楽しみにしておけ、お絵描き野郎!」