魔王軍幹部、知紋のベルグ
深淵界・イクシード。
ここは悠生たちが住む人間界とは別の世界。
人とは異なる進化を辿った人類、魔王種が住まう異界である。
彼らの世界イクシードと人間界に存在するダンジョン。
これらは特別な条件を満たすことによって干渉し合うことができる。
今回、悠生たちがF級ダンジョンで猿神=エンムカと対峙することになったのもその影響だ。
知域第七工区研究所内部。
灯りの乏しい円形の謁見室。
中心に設置された魔力炉の脈動が、壁面に描かれた瘴紋を淡く照らす。
その奥の玉座に腰をかけているのは、魔王軍幹部、十紋章の一人、知紋のベルグ。
頭部から枝分かれするように生えた三つの魔眼が、常に異なる方向を視ていた。
それは知を観測し、構造を解析し、未来を切除する知紋ベルグの眼。
魔王十紋章の一人にして、《知識による支配》を志向する狂気の研究者である。
そして目の前には、彼の忠実な部下であり、諜報官でもある女魔将が跪いている。
「……報告します。猿神群体《エン=ムカ》を複数体放った人間界ダンジョンF階層が突破されました」
「ほう。予定よりずいぶん早いな。勇者か?」
「いえ。……探索者です」
ベルグの目がわずかに細まった。
「探索者だと? 我ら魔王種の結界にすら感応しない、あの雑多な戦力が?」
「はい。魔力の残留パターンを解析したところ、勇者の持つ神性反応は認められませんでした。間違いなくそうかと」
「……となると、偶然か。たまたまエン=ムカに見つからず、深層のダンジョンコアを破壊し、攻略したと」
「その可能性も検討しましたが、実際に二体ほど討伐されております。しかもF級探索者一人に」
「……それはまことか?」
知を統べる魔王の脳裏に、微かに波紋が走る。
だが、それを表に出すことはない。
リステアは小さく頷いた。
「エン=ムカが六体だぞ? 本来D級以上の連携型探索パーティでも壊滅しかねんレベル。それを、F級が一人でだと?」
「……証拠の映像がございます」
リステアは、悠生の写生室に残っているアーカイブ映像をベルグヘ手渡す。
「この者の名は?」
「九条悠生。写生を行うF級配信者、との記録がございます」
「……写生、とな?」
一瞬だけ、空気が凍る。
「絵を、描いていました。写生中に猿神を撃退し、最後は縛り上げて正面から観察していた模様です」
しばしの沈黙の後――
「我が軍の精鋭が、絵を描く人間に撃破されたと? バカバカしい」
嘲笑しながらも、映像の男の眼差しが、なぜか脳裏から離れなかった。
「重縛。F級が本来習得し得ない中級拘束技。それを六体に同時使用。さらにエン=ムカを倒したあの一撃に関しても、並の探索者とは思えません。もしかすると勇者に匹敵……」
「リステア、中級スキルを使いこなすF級探索者が珍しいのは分かる。だが所詮はその程度」
ベルグは嘲るように口角を上げた。
「探索者とは、決して勇者にはなり得ない存在だ。奴が我らの計画に深く干渉することもないだろう」
「はい。現時点では、脅威には値しないと判断しています」
「今回はたまたまだ。実験データとして、一応保存はしておけ」
必要なのは、効率と再現性。
例外に心を奪われるのは、研究者の堕落だ。
魔力炉の鼓動が、低く、響いた。
「次の段階に移る。我らの目的は、人間界の完全侵略だ。だが、まだ我が直接赴くには、マナコアの密度が足りん。引き続き、人間界ダンジョンから、エネルギーを回収せよ」
「……了解」
リステアが一礼し、影の中に消えていく。
残されたベルグは、薄闇の中で笑みを深くした。