最初はスケッチの基本、鉛筆から始めようか!
「やっぱり人を襲う青銅竜。構図的にも、わりといい感じになるなぁ」
背後から届いたのは、どこかのんきで、呑気すぎる声だった。
だけどその声主の彼が、スケッチブック片手に私と青銅竜の間に立った瞬間、私はそれが演技ではないと悟った。
本当に、恐れていないのだ。
「よし、動かないでね。今の表情、ものすごくいいからさ」
そう言ってペンを握った彼の背には、一切の緊張も迷いもなかった。
むしろ、絵を描くことに没頭している。
今まさに目の前にある美を逃すまいとする画家のように。
「ちょ、ちょっと!? 逃げないの!?」
「逃げる? なんで?」
「なんでって……目の前、A級モンスターなんですけど!?」
「大丈夫だよ、ほら糸縛」
次の瞬間。
空中に軽く指を滑らせると、彼の周囲から糸が浮かび上がった。
純白の魔力糸が編まれるように束となり、青銅竜の四肢を捉えて絡みつく。
え……っ!?
糸縛って、探索者なら誰でも最初に覚える、ただの補助拘束スキルだよね?
案の定、次の瞬間――
「グルゥォオオアアア!!」
怒りに満ちた咆哮と共に、青銅竜が拘束を破った。
爆音。
吹き飛ぶ岩屑。
震える脚。
私は思わず目を閉じた。
「やっぱり無理だってば! そんなスキルで青銅竜を止められるわけ――」
「んー次はもうちょっと強度を上げるよ、糸縛!」
彼の声がまた響いた。
直後、再び現れた糸が、今度は地面ごと竜を拘束し、完全に固定した。
まるで時間が止まったかのように、あの巨体がピクリとも動かない。
なにそれ……え、え?
「え、青銅竜……動いてない……? 嘘でしょ? 本当に止まってる……?」
「ちょっと強すぎだ。これじゃ関節が動かない」
糸が微かに震え、わずかにたわみ始めた。
「ちょい、解けかけてるよ!? 早く逃げ――」
「しーっ、ちょっと集中したいの」
「……え、私が悪いの!?」
彼はまるで気にするそぶりもなく、ペンを走らせる。
そして描き始めた。
「……何、これ」
心が置いてけぼりだ。
未だこの空間に、私の感情を休める場がない。
私はふと、スマホに目をやった。
そう、《悠生の写生室》の生配信、第23回「青銅竜・翼部詳細写生会」の様子が、私のスマホには今も流れている。
“この大きさの青銅竜、私初めて見ました”
“通常サイズのものより、鱗の色が濃いですね”
“次こそ、牙! 牙行きましょ!”
“横向きの画角、ちょっと欲しいかもです”
それと、何このコメント。
多分みんな絵描きさんなんだろうけどさ……なんでこの糸縛の異常な拘束力とかに驚かないの!?
糸縛なんて、初級の拘束スキル。
E級モンスターを一定時間縛るのが関の山。
だけどこの人はわずかに魔力の糸をたわませて、関節の遊びまで作っている。
しかもA級モンスターを相手にだ。
「ちょっとだけ横向こうか」
そう言って彼は拳を軽く振る。
だが、竜に触れるか触れないかの距離で衝撃は止まり、青銅竜が自然と横を向いた。
青銅竜自身も何が起こったか、よく分かっていない様子。
そしてまた、彼は描く。
魔物を縛り、動かし、ポーズを取り直させながら、観察し、描く。
それだけのはずなのに。
なぜだろう。
私はこの光景から目を逸らせなかった。
「……どうして絵なんて描いてるの?」
気づけば、私はそう問いかけていた。
彼は、私の問いに対して、横目でニッと笑って答えた。
「どうして、か。そんなの……楽しいからに決まってるじゃんか」
その言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
楽しいから。
私が生態記録士を志した、最初の気持ち。
モンスターの動きに興奮して、知らない習性に目を輝かせて、誰よりも多くの情報を記録したいと願っていた、あの頃の私。
だけど今はどうだろう。
報告書のために潜り、ノルマのために観察し、義務感と疲弊で目の奥が乾いていた気がする。
忘れてた。
そうだ、私はこの世界の『わからない』が、好きだったんだ。
「……待って、こんなじっくりモンスターを見たの、初めてかも」
拘束された青銅竜を、私は夢中で観察していた。
全身の鱗の繋がり、呼吸のリズム、眼球の動き。どれも記録書に載っていない。
よく見れば、私の目の前には、『わからない』がいっぱいだった。
もしこの人の隣にいられたら、私はこの世界の知らなかったことをもっと知れるかもしれない。
いや、待って。
違うわ。
モンスターを縛って絵を描いて。
つい私も一緒になって眺めてしまってたけど、これさ、後で始末するんじゃない?
それって、すごく残酷……。
実はこの青年、悪逆非道な人なんじゃ……。
あんなに無邪気な笑顔を浮かべてるのに。
まるで子どものような輝く目をしてるのに。
「よし、描き終わったっ!」
その瞬間、私は身構えた。
彼が剣を抜き、竜を殺す未来を想像して――
「じゃっ、帰っていいよ」
「は?」
聞き間違いかと思った。
けれど、次の瞬間。
彼の魔力糸がほどけ、拘束が解除された。
「ありがとうっ! おかげでいいものが描けたよ」
青銅竜は一瞬こちらを見て――
そのまま、静かに踵を返し、去っていった。
……少し、彼に頭を下げたようにも見えた。
「え、ちょ……どうなってるの?」
「だって、何もしてないでしょ? ただそこにいたモンスターを、絵のために拘束してただけだし。殺す理由、ないじゃん」
さらりと、そんなことを言う。
A級モンスターを。
この最深部で。
F級探索者のはずの彼が。
普通だったら、
モンスターを殺して、
素材を剥ぎ取って、
それを売ってお金にする。
それが探索者。
富のため、名誉のためになる探索者という職業。
どうやらこの青年、私の普通なんかじゃ、何一つ計れない人らしい。
私はふと、思った。
この人は、いずれS級に行く。
いや、行ってしまう。
当然のように。
きっとそういう探索者なんだ。
胸が震えた。
彼はただ絵を描いてるだけなのに。
私の常識をレールごとひっくり返してしまった。
この人の隣にいれば私は生態記録士として……いや、一人の探索者として、まだ誰も到達したことのないダンジョンの謎にも辿り着ける。
なぜダンジョンが誕生したのか。
そんな真相にまで、辿り着く気がした。
「悠生の写生室さん!!」
私は思わず叫んでいた。
「私を……弟子にしてくださいっ!!」
私の中の何かが、彼の背を追おうとする。
それは直感か、本能か。
はたまた彼の絵に魅力があったのか。
彼の何が、私にそう思わせたのかは分からない。
ま、きっとそれも、彼について行けば、自ずと答えが見えてくるだろう。
「いいよ」
彼は満面の笑みでそう答えた。
やったぁ!
まずは彼の傍で、モンスターの観察を……。
「えっとじゃあ最初はスケッチの基本、鉛筆から始めようか!」
「……そっち!?!?!?」
私は思わずツッコミをいれる。
そして今、根本的なことを思い出してしまった。
彼は生粋の絵描きさんだったことを。
次話から、主に悠生くん視点になります!
30話前後までの章末までは必ず投稿します。
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