6話 優しさの仮面(リリアナ視点)
部屋の扉が静かに閉じる。
その音がやけに遠く響いて、リリアナはゆっくりと顔を上げた。
(……こんな、はずじゃなかった)
涙を浮かべたままの顔には、もう“演技”の面影すらなかった。
この胸にあるのは、悲しみではない。紛れもない、燃えるような怒りだった。
(どうしてお姉様があんな態度を…。いつものお姉様なら、泣いてすがればすぐに謝ってくれたのに)
震える指先を膝の上で握りしめながら、リリアナは歯を噛んだ。
(まさか……あんなふうに、私の言葉を全て遮って、逆に責められるなんて……っ)
リゼナお姉様――未だに魔法も使えず、いつも俯いていた“出来損ない”の姉。
(――お姉様ごときが、私を……!)
心の底からあふれるものは、もはや抑えきれない憤りそのものだった。プライドを傷つけられた屈辱と、計画が破綻した焦燥感が渦を巻いている。
「リリアナお嬢様……」
後ろからそっと声をかけたのは、侍女長のモルガだった。
「リリアナ様をあんなふうに責め立てるなんて……記憶が戻らないからって、あそこまで仰らなくても」
「…大丈夫よ、モルガ」
リリアナは深く息を吸い込み、瞬時に表情を切り替えた。まるでスイッチを入れ替えるように、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「お姉様は記憶が曖昧なんだもの…。不安で混乱してしまうのも仕方ないわ…」
その演技は完璧だった。先ほどまでの憤怒の表情など、まるで幻だったかのように消え去っている。しかし、その瞳の奥にまだ怒りの残滓がうっすらと宿ってることに、侍女たちは気づかない。
「なんて、お優しい……」
ぽつりと漏れたその言葉に、他の侍女たちもそっと頷いた。
誰もがリリアナの慈愛深い姿に、胸を打たれたような表情を浮かべている。
「ええ……あんなに強く言われたのに、なおあの方を気遣うなんて……本当に立派なお方だわ」
「リゼナお嬢様も、きっと時間が経てば落ち着かれるはずです。また昔のように、仲の良いお二人に戻れる日が来ますように……」
「そうです!リリアナお嬢様のお優しさは、きっとリゼナお嬢様に届きますわ!」
そんな言葉を背に受けながら、リリアナは伏せたままの瞳の奥で、何かを押し殺すように息を整える。侍女たちの同情と賞賛が心地よく響いた。これこそが、彼女の求めていた反応だった。
そしてリリアナは小さく笑った。
「……ありがとう、みんな。私は……大丈夫よ」
リリアナは、俯きながら小さく頷く。その口元には、ほのかに浮かぶ笑み。
どこか含みを持った、計算高い笑みに気づいた者は、誰もいなかった。
(全部、私の思いどおりに運ぶはずだった。私が涙を見せて、優しい言葉をかければ、お姉様はすぐに戸惑って謝る。そうなれば、同情も信頼も、何もかも私のものになるはずだったのに)
だが、現実は予想とはまるで違っていた。あの姉が、あれほど落ち着いた態度で、リリアナを言葉のひとつひとつで追い詰めてくるなど、想像すらしていなかった。
かつてのリゼナは、いつだって怯えて目を伏せ、リリアナの言葉を最後まで否応なく聞き入れていた。まるで、逆らうことなど最初から許されていないかのように。
しかし、先程のリゼナは今までとは確実に違っていたのだ。
(――でも、記憶が少し曖昧なだけで性格があんなに変わるものかしら…?…まさか、私の考えも見抜かれて……いや、それは無いわね。私の演技は完璧だもの)
リリアナはきつく胸元を握りしめた。
(でも…あんなに冷たい目で私を見下すなんて…!未だに魔法も使えない出来損ないのくせに…!)
怒鳴りたいほどの苛立ちを、リリアナは心の中に押し込める。
だがその感情は、ずっと前から蓄積されてきたものだった。
リゼナはこの家の正当な嫡女でありながら、十九歳になった今でも魔法の片鱗すら見せたことがない。家門の血を引いていれば、十歳を過ぎるころには必ず何らかの兆しが表れるというのに。
それなのに、父だけは変わらずあの姉を一番に愛し続けている。何の取り柄もない出来損ないを、まるで宝物のように大切に扱って。
『リゼナ?あの子はもう諦めた方がいいわ。期待するだけ無駄ですもの』
『…別に。あいつが何をしようと、俺には関係ない』
母は昔から、リリアナの才能を褒める一方で「リゼナはまぁ……仕方ないわね」と鼻で笑い、兄は姉とはほとんど会話しない。
使用人たちに至っては、陰では眉をひそめながら「出来損ない」「本当に血筋は正しいのか」などと囁き合っていた。
だがリリアナにとって、それは都合のいい評価だった。
“自分のほうが優れている”という確かな証明だったから。
それなのに、父だけは違った。
どれほど優秀な成績を収めても、どれほど美しい魔法を披露しても、父の瞳に映るのは常にリゼナだけ。「リリアナも頑張っているな」と言葉をかけてくれても、その視線はすぐにリゼナへと向かってしまう。
魔法も使えない、何の才能もない姉を愛し続ける父の姿が、リリアナの胸に深い棘となって刺さっていた。
(なのに――あんな言い方、あんな態度、何様のつもり!?)
無能だと思っていた姉の見透かすような瞳が、リリアナの存在そのものを否定しているかのように感じられて、胸の奥が煮えくり返るように熱くなった。
(…許せない。絶対に許さない。今度こそ、あの女を完膚なきまでに屈服させてやるわ――まずは、お母様に相談しなくちゃ)
リリアナは、拳を強く握りしめながら、窓の外の暗闇を睨みつけた。記憶を少し失った程度で調子に乗っているなら、現実を思い知らせてやる必要がある。
自分がこの家で誰よりも優れた存在であることを、もう一度刻み込んでやるのだ。