5話 泣き顔の仮面
「たとえばこれ。棘のある縄のようなもので締め付けられた跡。あの時周りに棘のある植物は見当たらなかった。でも――リリーの魔法は薔薇だったでしょう?」
リゼナは脚の傷跡を見せながら、まるで証拠を突きつけるように続けた。
「だから、もしかして、馬に乗るのを手伝ってくれたのかしらって思ったの。薔薇のツタで土台を作ってくれたとか……ただ、それなら“勝手に乗った”なんて言い方、しないと思ったから」
言葉を終えると同時に、リゼリアはゆっくりとリリアナへ視線を移した。妹の顔が青ざめていくのを見て取りながら、彼女は氷のような微笑を浮かべる。
「リリーだって、馬が突然暴れ出して驚いたでしょうし……混乱の中で何が起こったか、はっきり覚えていないのも無理はないわ。きっとあのときはよくわからなかったのよね。そうでしょう、リリー?」
「……リアナお嬢様!いい加減に――」
「モルガ、いいの」
モルガはの怒りに震える声で前に出ようとしたが、リリアナはそれを止めた。彼女の声は小さく震え、瞳には涙が溢れそうになっている。それでも必死に姉を見つめ返そうとする姿は、まるで罪を告白しようとする子供のようだった。
「“勝手に”って言ったのは……その、お姉様を責めるつもりで言ったんじゃないの。ただ、護衛の方がいないときに“勝手に”乗っちゃったっていう、ただそれだけの意味で…。お姉様が強引だったとか、意地悪だったとか、そんなふうには一度だって思わなかったわ」
リリアナは泣きながらも、懸命に首を振り続ける。
「まさか、みんながそんなふうに勘違いしてるなんて思わなかったの。私、ただお姉様に先に乗ってってお願いしただけだったのに……でも結果的に怪我させちゃって、責任を感じて怖くて仕方なかったの。お姉様に何かあったらどうしようって、ずっと不安で眠れなくて……」
(――よく言うわね、とんだ腹黒じゃない。脚にも目に見えてわかる証拠があるというのに、指摘されるまで全部私のせいにするつもりだったなんて。今まで“リゼナ”は相当理不尽な扱いをされてきたのか……それとも、何も言わない性格だったから、言いがかりをつけても大丈夫だと思われていたのか)
心の中で冷たく笑いながらも、リゼリアは慈悲深い姉の仮面を崩さない。
「そう……だったら、どうして私に“先に乗って”と頼んだの? リリーは、お父様からもらった混血馬に興味津々だったはずよね。あなた自身が、真っ先に乗りたがっていたのに――どうして?」
その質問に、リリアナの顔がさらに青ざめた。彼女は慌てたように口を開いた。
「えっ…そ、それは……私、馬に慣れていなくて不安だったから…」
「そう。なのに、私を先に乗せた。それって、少し酷くないかしら?私も馬に乗ったことがないことは、あなたも知ってるじゃない。どうして、私は不安じゃないって思ったの?」
リリアナはまるで痛いところを突かれたかのように言葉に詰まり、唇を震わせる。
「――っ!…お…お姉様のほうが落ち着いてるから、つい……」
「…ふふ、いいのよリリー。誰だって不安になることはあるし、とっさの判断がうまくいかないこともある。”誤解をうまく解けない”ことだって、あるわ」
そう言ってリゼリアは一歩だけ前に進んだ。少しだけ首を傾げながら、慈しむような――けれど底意地の悪い笑みを浮かべた。
「だからこそ、リリー。そういうときは、素直に謝るべきじゃないかしら?」
リゼリアの声音はあくまでも穏やか。まるで妹を優しく諭しているかのように響く。だが、その言葉には逃げ場を許さない静かな圧があった。
「……っ」
リリアナはぎゅっと唇を噛み、俯いたまま黙り込む。細く揺れる肩、伏せたまつ毛の奥には悔しさが滲んでいた。言いたくない、でも言わざるを得ない――そんな葛藤が、全身からにじみ出ていた。
空気が重くのしかかる。モルガでさえ、この姉妹の間に流れる緊張感に圧倒され、声をかけることができずにいた。
それでも、しばらくの沈黙のあと、ついにかすれた声が落ちる。
「…ごめんなさい……お姉様……」
かろうじて絞り出したその言葉は、涙に濡れた声で、地面に落ちるように弱々しく響いた。
リゼリアはにこりと笑った。満足げでも、勝ち誇ったわけでもない。まるで“当然のことを聞いただけ”という顔で、ゆっくりと頷く。
「ええ。いいのよ、許してあげるわ」
まるで慈しみ深い姉のように微笑みながら、リゼリアはそう言った。
だがその瞬間、リリアナの表情が変わった。まるで苦虫を噛み潰したように顔を引きつらせながら、怒りと屈辱に堪えるように体を震わせている。
(あらあら……表情がもう崩れてるわよ、リリー)
リゼリアは心の中でふっと笑う。
そして彼女は一歩後ろに控える侍女――険しい顔でこちらを睨んでいたモルガたちにゆっくりと視線を向けた。
「……さっきは、随分と大きな声が出ていたわね」
リゼリアの一言に、ぴたりと空気が凍りつく。
「記憶の曖昧な者が語ることなど信じられないという意見を持つのは自由よ。でも、侍女のあなたがそんなふうに声を荒げて感情的になっていたら……リリーも、まともに成長できないんじゃないかしら?」
モルガは拳を握りしめ、全身を怒りで震わせていた。睨みつけるような視線をリゼリアに向けながらも、反論の言葉を飲み込む。それは主であるリリアナの前だからか、それともリゼリアの威圧に気圧されたのか。
その隣で、控えていたもう一人の侍女も眉をひそめ、口角をひくつかせている。まるで“何を言ってるの、この女”とでも言いたげな、不快感に満ちた表情だった。
「リリーは繊細だから、身近な大人たちの言動に、すぐ心を揺らしてしまうの。だからこそ、あなたたちがもっと落ち着いて見本になってあげないとね?」
その言葉は表面上はリリアナを気遣っているように聞こえるが、実際は侍女たちへの冷ややかな忠告であり―、同時にリリアナ自身にも向けられていた。
リリアナは、遠回しに『未熟だ』と言われたことで、自分の唇に血が出るほど強く噛み締めている。怒りか羞恥か、その小さな肩がかすかに震えていた。
リゼリアはその様子を一瞥すると、静かに背を向けて扉の方へと歩き出した。
「じゃあ私は、これで――」
リゼナは堂々とした歩みで部屋を後にする。
残された者たちの怒りも屈辱も、もはや彼女には関係のないことだった。