4話 小さな棘
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(…なんなのこれ……、過去の…記憶?)
一瞬、足元が揺らぐような感覚に襲われた。思わず言葉を失いかけるが、目の前のリリアナは、涙に濡れたままの瞳で微笑んでいる。
「お姉様…?どうして私のことを“リリアナ“って…もしかしてあの時のこと、まだ怒って――」
「リリー、落ち着いて」
リリアナの言葉を遮るリゼリアの一言。その言葉にリリアナだけでなく、周りの侍女も驚いたようにこちらを向いた。
リゼリアは、“リリアナ”と呼ぶべきか一瞬迷ったが、記憶の中で彼女が使っていたのは”リリー”という愛称だった。それが本来の呼び方なら、わざわざ他人行儀にする理由もない。
だからあえて、“リリー”と呼ぶことにした。
「実はね…落馬の衝撃で記憶がまだ曖昧なの」
「……そうだったんですね、お姉様。そんな状態なのに、私……」
リリアナは申し訳なさそうに目を伏せながら、ちらりとこちらを窺う。
「でも……記憶が曖昧でも、心は覚えてるって私は思うんです。お姉様は、昔からとても優しかったから。だから……あの時のことも、きっと思い出してくれますよね?」
涙をにじませた微笑。しかし、その笑みには計算されたような美しさがあった。
(ああ、そういうことね)
リゼリアは静かに理解した。この妹は今、完璧な演技をしている。
周囲の視線を意識した涙。計算された震え声。そして「お姉様ならきっと」という期待を込めた言葉――全ては、自分から都合のいい謝罪を引き出すための布石だった。
(姉妹仲は、思ったより複雑みたいね)
興味深い、とリゼリアは思った。元魔王として数々の権謀術数を見てきたが、実の妹からこのような心理戦を仕掛けられるとは。
この身体の本来の持ち主――リゼナに特別な思い入れはない。しかし、一方的に悪者にされる筋合いもない。何より、こんな見え透いた罠にはまるほど、自分は愚かではなかった。
(いいわ、リリー。あなたが望む通り、姉妹の物語を紡いであげる)
ただし、それはリリアナが想像するものとは、少し違うかもしれないが。リゼナは心の中で静かに微笑んだ。
沈黙が流れる中、リゼナはゆっくりと口を開く。
「うーん…でも思い出せないのよね」
あまりにもあっさりとした口調で肩をすくめると、リリアナのまつ毛がぴくりと揺れた。期待していた反応とは、明らかに違っていたのだろう。
「で、でもっ……あの時、お姉様が先に馬に――」
「“勝手に乗った”って、護衛の人たちにはそう説明したのよね?」
リリアナの言いかけた言葉を遮り、リゼリアは微笑を崩さずに尋ね返した。
二度もリリアナの言葉を遮る。それは、今までのリゼナでは考えられない態度だった。
「でも考えてみてリリー。あの馬は魔獣の血を引いた混血馬よね?」
(あの特徴的な角と鱗……魔王だった頃、北方の山岳地帯で見た魔獣とよく似ている。おそらくその血を引いているのね)
リゼリアは確信を持って続けた。
「とても大人しい性格だけれど、その分体格は成人男性の背丈よりもずっと高いわ。女性が一人で乗るなんて到底無理な大きさなのに、あの場には足台もなかったし…どうやって私一人で勝手に乗ったのかしら…そこが不思議なのよね…」
「そ、それは…」
この質問を予想していなかったリリアナの顔が青ざめていく。
部屋に重い沈黙が落ち、時計の針の音だけが響いた。侍女たちは行きを潜め、リリアナは唇を震わせながら答えを探している。
「お嬢様が嘘をついているとでも?あのようなご様子で、あなたを案じて涙を流されたというのに!」
突然、鋭く声を上げたのは、リリアナ付きの侍女――モルガだった。
黒髪をぴたりと結い上げ、皺一つない制服に身を包んだ中年の女性。彼女の登場は、まるで主人を守る番犬のようだった。
モルガの顔には明らかな敵意が浮かんでいる。彼女にとってリリアナは守るべき主人であり、リゼリアは主人を苦しめる存在でしかないのだろう。
その忠誠心は本物だが、同時に盲目的でもあった。
しかしリゼリアはあくまで穏やかに、けれどはっきりとモルガの剣幕を受け止めた。
「嘘だなんて、とんでもないわ。そんなこと、一言も言ってないでしょう?ただ……あの時のことを思い出そうとしているだけなの。記憶が曖昧な私にとって、頼りにできるのは、ほんの些細な違和感や傷跡なのよ」
彼女は裾を少し持ち上げ、足首に残る赤い痕へと視線を落とした。
その傷跡は、まだ生々しく残っている。