1話 プロローグ_魔王と転生
――約五百年前。
剣を振るう手が震える。
でも、止まることはできない。
道の先に待つのが悲劇だとわかっていても、セイルはもう引き返せなかった。
そして人々の声が、彼の背中を追いかけ始める。
『魔王を討つ勇者が現れた!』
『ついに我らに希望の光が!』
『勇者セイル!勇者セイル!』
――勇者という称号。
やがて、人々は彼を『魔王を討つ勇者』と呼ぶようになった。
討つべき"魔王"が、彼にとって唯一無二の"家族"であることも知らずに。
セイルは戦場で出会う魔獣たちを斬るたび、胸が引き裂かれた。
それらは全て、魔王リゼリアが生み出したもの。
『姉さんの一部を、俺は殺しているんだ』
それでもセイルは歩みを止めなかった。深い苦痛を抱えながらも、姉のように慕ったリゼリアに会うため、セイルは前に進むのだった。
◇◇◇
崩れゆく魔王城。
石が砕け、梁が落ち、炎が舞い踊る。
その中心で、漆黒の玉座に座る彼女は、最後まで背筋を伸ばしていた。
燃えさかる天蓋は彼女の頭上で軋み続け、ひび割れた大理石の床には血の匂いが漂っていた。
それでも彼女の赤き瞳は、曇ることなく前を見据えている。
「みんな…無事に着いたかしら」
魔族の中にも、彼女の選んだ"孤独な道"に寄り添おうとした者がいた。わずかに残ったその"同志"たちも、彼女は事前に逃がしていた。
「しばらくは、つらい思いをさせてしまうわね…でも生きてさえいてくれれば……」
これからしばらくは、身を偽り生きていくことになるだろう。名を偽り、身を潜め、時に迫害に耐えながら。それを思うと、胸の奥がわずかに軋んだ。
だが、それでも選ばねばならなかった。
この地は、もうすぐ滅ぶ。
愚かな人間の王と、その取り巻きの貴族たちが、民を搾取し続けている現実は何も変わらない。
貴族は贅を尽くし、庶民は飢え、幾度となく繰り返された戦争によって命は失われていくばかり。
(私が魔王として現れたことで、人間たちの領土拡大戦争は確かに止まった。最初は私だけを標的にしてくれると思っていたのに...)
リゼリアは苦く微笑むと、拳を握りしめた。
(戦争が長引くにつれて、人間たちは『すべての魔族が魔王の手下』だと言い始めた。無関係な魔族が処刑され、魔族の村が『汚染された土地』として焼かれていく……。私が、もっと冷徹になれていれば……。人間の兵士たちを容赦なく殺していれば、戦争はもっと早く終わっていたかもしれない。でも、無垢な若者を手にかけることができなくて...)
「その優しさが、結局もっと多くの命を奪うことになったのね」
自嘲するように呟く。
(優しさに縋った結果がこれなら……もっと非情になるべきだったわ。中途半端な慈悲こそが、真の残酷さだったのだから)
崩れ落ちる天井の下、炎が跳ねる玉座の間で、魔王リゼリアは静かに目を閉じる。
その時。
燃え立つ扉の向こうから、聞き慣れた足音が響いた。
リゼリアの瞳が、ゆっくりと開く。
その姿を認めた瞬間、彼女の心臓が一瞬だけ早鐘を打った。わずかに嘲るように、それでもどこか優しく――まるで昔のように微笑んで、彼女は言った。
「……随分と、派手に暴れてくれたじゃない。勇者様」
剣を手に、静かに歩み寄ってきたのは、銀の髪を持つ、まだ若い男――勇者、セイル。
彼はその場で剣を握りしめたまま、魔王を見つめ返した。
「リゼ...本当に君なのか?」
セイルの声は震えていた。
「ずっと、ずっと探してた。君に会うために、ここまで来たんだ。僕は世界なんかより、リゼがそばにいてほしかった」
涙声になっていくセイルを見て、リゼリアの胸がきゅっと締め付けられた。
「…はぁ」
リゼリアは、小さくため息をつく。
(結局、何も変わっていないのね、この子は。昔と同じ...私のことばかり心配して)
「勇者とは思えない発言ね。ここまで来て言うセリフがそれ?」
だが、その声の奥には確かな"優しさ"が滲んでいた。言葉とは裏腹に、彼女の瞳には深い愛情が宿っている。
「…っ僕にとってリゼはそのくらい大切な人なんだ!家族も同然なのに…。なんで一人で全部背負ったんだ。また僕を置いて行くなんて...」
剣を握る勇者セイルの声は震えていた。こみ上げる感情を抑えきれず、滲む涙を必死に飲み込もうと俯く。
あの日、リゼリアは幼いセイルを信頼できる魔族に預け、彼の前から姿を消した。セイルを巻き込まないため、一人で魔王の道を歩むと決めたのだ。
しばらくの沈黙のあと、リゼリアは静かに微笑んだ。
「……だからこそ、隣には立たせなかったのよ」
(この子を巻き込むわけにはいかなかった。セイルには、私とは違う未来があるはずだから)
「あなたは"光"だったわ、セイル。だから私は、"影"でいられた。あなたがいたからこそ、私は――この重い役目を選ぶ勇気が持てたの…。でも、それもここで終わらせないと」
ふっと揺れる銀の炎が、彼女の長い黒髪を幻想的に照らす。
炎に照らされた赤い瞳が、ひどく遠くを、まるで二人の思い出を辿るように見つめていた。
「いやだ…」
「……」
勇者の駄々が始まる。
「僕が、何のために剣を握ってきたと思ってるんだ。…リゼのためだ!戦争が終わればまた昔みたいに一緒に暮らせると思ったのになんで…――そうだ、逃げよう!リゼを連れて遠くに行けば…誰にも見つからない場所があるはずだ――」
その瞬間――乾いた音が、玉座の間に響いた。
「……ッ」
リゼリアの掌が、勢いよくセイルの頬を打つ。
迷いのない一発。そして間髪入れず、もう片方の頬にも容赦なく放たれた。
「いっ…!?な、なに、二回もっ……!」
頬を押さえて目を見開くセイルに、リゼリアは腰に手を当てて、呆れたように言った。まるで昔、泣き虫だった頃のセイルを叱っていた時のように。
「うるさいわね。あなたがあまりにも情けないこと言うから、左右に平等にしただけよ。これでも手加減したんだから」
「リゼ…平等って意味わかってる…?」
「文句があるなら、少しは勇者らしい顔に戻しなさい。さっきから見てらんないわよ、ほんと」
セイルは頬を押さえたまま、涙で滲んだ瞳で懇願するように口を開く。
「……でも逃げることだってできるはずじゃないか。どこか遠くで――」
「無理よ。私は人間の王たちと『魔法契約』を結んだの」
リゼリアの言葉に、セイルの顔から血の気が引いた。
「彼らは追い詰められていた。戦争は限界で、内乱、飢え、民の不満…。それでも『自分たちが間違っていた』とは言えない。だから『魔王を倒した』という物語が必要だったの」
「まさか……」
「魔王である私の心臓と引き換えに、戦争を終わらせる契約。破れば王族の血統は根絶やしになるわ。契約の条件は『勇者の剣が魔王に触れた時、その命が絶たれる』こと」
セイルの剣が、がくりと下がった。全てが仕組まれていたことを理解して。
「なんで……なんでリゼが、そんな契約を……」
「ごめんね、セイル。本当は、あなたともっと一緒にいたかった。だけど……この長い戦争を終わらせるには、この方法しか思いつかなかったの」
リゼリアの声は、かすかに震えていた。
「でも……お願い。この先の世界を、あなたに見届けてほしいの。私の選んだ道が、本当に人々のためになったのか――それとも……」
(――ただの独りよがりだったのか。でも……もう後戻りはできない)
「……もし私が間違っていたら、そのときは……セイルが正しいと思う道を選んで。あなたなら、きっとできるわ」
長い沈黙の後、セイルが口を開いた。
「……わかった。リゼが命をかけて作る平和を、僕が守る。そして証明してみせる。君の選択は、間違ってなかったって。だからもう、心配しないで」
セイルの言葉に、リゼリアは安心したように微笑んだ。そして自身の胸に手を当てると、赤く光る小さな宝玉がそっと現れる。
「私の"欠片"をあなたに託すわ。たとえこの平和がいつか揺らぐときが来ても、正しい方へ向かえるように」
それは呪いにも似た祝福。
信頼という名の遺言が、勇者の胸元へと吸い込まれていく。
リゼリアはその光が吸い込まれていくのを見届け、セイルの手に握られた剣に、そっと指先を添えた。
「さぁこれで……契約は果たされるわ」
その瞬間、淡い光が彼女の体を静かに包み込みはじめる。
セイルの瞳が見開かれた。理解したのだ。これが、本当の別れなのだと。
「ありがとう、勇者セイル。私の大切な弟……大好きよ」
「リゼッ……君と出会えて本当によかった…!リゼッ!」
セイルの叫びが遠くなるように感じながら、リゼリアの赤き瞳は静かに目を閉じた。
空を見上げ泣き崩れるセイルの背後で、黒空に一筋の赤き星が流れていく。
それは、五百年後。
魔王が"誰か"として再び目覚める運命を告げる、始まりの合図だった。
◇◇◇
時は流れ――
「――嬢様。お嬢様っ!起きてください!」
荒々しくもけだるげな女の声が、頭の奥に響いてきた。
「いつまで寝てるんですか…もう朝です!早く目を覚ましてください、ったく、これだから…」
がつんと乱暴に何かが机に置かれる音と共に、頭蓋骨を砕かれるような激しい痛みが走った。
「……っ…うっ…!」
瞳を開けた瞬間、そこには見知らぬ天井が広がっていた。
白い漆喰に、金の装飾が施された天井。豪華なはずなのに、なぜかみすぼらしく感じる。
(..……何?この天井...見覚えがない)
頭がぼんやりとして、思考がまとまらない
(ここは...どこ?私は..……)