8.護衛騎士の両親
アマーリアが久々に魔力の暴走を起こしてから数日後。ヴァルターは王妃カタリーナから呼び出しを受けた。
王妃の私室は、宮殿の回廊を通り抜けた先にある。中庭側がガラス張りになっている回廊は、晴れていれば陽光が降り注ぎ、外にいるのと変わらないほどに明るい。しかし、今日は厚い雲に覆われた空に陽の気配はない。
扉を叩き、名を告げると入室を許可する応答があった。応接の間に入ると中にはフェルディナントと、小柄な初老の女性が座っていた。
霜雪の髪に、上位の精霊術士に許された白いローブをまとった女性は、少し緊張した様子でヴァルターに土色の瞳を向けた。
「ヴァルター、彼女はアーダという。先日話したエルデの精霊術士だ。公爵夫人の見舞いに行ってきてもらったのだけれど、聞いている?」
「はい、家令から連絡がありましたので。この度はありがとうございます」
フェルディナントに促されて隣に腰をおろすと、正面に座るアーダが頭を下げた。
「アーダと申します。ヴァルター卿には、はじめてお目にかかります」
「我が家のことでご足労いただき、恐縮です」
そこへ、カタリーナが入ってきて、三人は立ち上がってそれぞれに礼をとる。
「どうぞ楽にして、お掛けなさい」
フェルディナントが右の掌を上に向けて、魔力を集める。紅く煌めく遊色の球ができる。まぶしい光を放つ球を握りしめると、ゆるやかに崩れて虹色の霧が部屋に広がって消えた。遮音の結界が施される。
「公爵夫人の様子は、どうだったのかしら?」
カタリーナの問いかけに、アーダはさらに表情を堅くしてまぶたを閉じる。ゆっくり目を開くと、視線を落として話しはじめた。
「王太子殿下の名代としてうかがいましたが、公爵夫人におかれましては、私の訪問の意図を端からご承知でいらっしゃいました」
その場の誰も驚かず、カタリーナもうなずいた。
「まあ、そうでしょうね」
「はい、ですのではじめから治癒士として、検分をいたしました」
ヴァルターは知らず固唾を飲んで、アーダの言葉を待つ。アーダもヴァルターへ体を向けて、視線を上げた。
「アルベルティーネ夫人の体調不良は、『精霊の加護』の器が破損していることが原因だと考えられます」
「器が、破損?」
はじめて聞く語の取り合わせに、フェルディナントが首をかしげる。アーダは姿勢を正して続けた。
「ある程度は自覚しておられたようです。十二年前と同じ症状だと思った、と仰っていました」
十二年前、王都の外れにある『王家の泉』から虹色の魔力があふれ出した。常であれば、泉の周囲に留まり、次第に大気に溶けて見えなくなっていく魔力の霧が、目に見える色を保ったまま、王都の中心部にまで流れ込んだ。
同時に、人びとの精霊の加護の器に注がれる魔力は各々の許容量を超え、受け止めきれなくなった者は起き上がれなくなった。器が小さい者から次々と倒れていき、さながら疫病が広がっていくようであった。
「器が破損して、魔力が母の体内にもれ出している、ということでしょうか?」
ヴァルターの厳しい表情から目をそらすことなく、アーダは首肯した。
「これは推測ですが、器に亀裂が生じたような状態なのだと思います。亀裂から魔力が浸み出て体内にあふれても、器には新たな魔力が注がれる。それによって、常に『魔力酔い』の状態になっておられる、と考えられます」
十二年前、ヴァルターは八歳であった。成長期の子どもは器に注がれる魔力がまだ少ないために、大人より症状が軽い者が多かった。
もとより大きな器を持つヴァルターは、多少の不快感を覚えても、床につくことはなかった。
貴族としては標準的な器のアルベルティーネも、不調を訴えはしたが、寝込むほどにはならなかった。
しかし、当時まだ乳児であったフェルディナントを除けば、精霊の加護の器に強制的に魔力が満たされる異様な感覚は、いまだ忘れ得ぬ記憶となっている。
ヴァルターはとっさにカタリーナに向き直り、彼らしくない焦った声を上げた。
「王妃陛下、大公妃殿下にお力添えをいただくことは……」
『王家の泉』の虹の魔力の氾濫を収束させ、アンティリア王国の危機を救ったのは、異国から招かれたひとりの女性であった。
『虹の氾濫』は、魔力の湧出口に備えられていた蓋が破れたために起こった。彼女はその蓋を継ぎ、修復して、アンティリア王国に常態を取り戻した。
彼女はその後、蓋の修復につき添った第二王子クラウス・ヴィルフリートと結婚した。
クラウス王子は兄アルトゥールが即位すると、リューレ大公に封じられ、リューレ領から出てこなくなった。以来、大公妃の近況も王都にはまったく届かない。
『虹の氾濫』を収めた大公妃なら、アルベルティーネの器も治せるのでは、とヴァルターは考えたが、それは臣下としての分を超える願いである、とすぐに気がついた。
カタリーナが、見たこともないほどに苦悩に満ちた顔つきになり、それは怒りの表情にも見えたからだ。
「……申し訳ございません。わきまえず、どうかお許しください」
「いえ、貴方がそう考えるのは当然でしょう。フェルディナント……、いいえ、ヴェルフ伯、結界を張ってちょうだい。防諜の結界を」
ヴァルターは一瞬、カタリーナの言葉の意味を考えたが、すぐに是とこたえて両手に魔力を集めた。
紺碧の光の球を両手で押しつぶす。最も濃い青が粉となって舞い、半球状に広がって消えた。
フェルディナントが遮音の結界を張った部屋の中に、さらに強固な防諜の結界が築かれる。
その中でなければ話せないことが、カタリーナの口から語られる。
「これから話すことは他言無用。そして、問うことも許しません」
フェルディナントは目を閉じ、ヴァルターとアーダは無言で了解を示した。
「リューレ大公妃は、アンティリアを去っている。彼女は虹の魔力に侵されたために、母国へ帰り療養しているのです。それを秘しているのは、クラウス殿下のご意向です。ゆえに、大公妃の力を借りることは叶いません」
おそらくは、ごく一部の者しか知らない極秘事項。国を救い、王弟妃となった重要人物が国内にいない。公になれば、少なからず波紋を広げるだろう。
そして、大公妃も魔力に侵されている。
その事実は、ヴァルターの想像を超えていた。
蓋の修復による影響なのか、と問うことはできない。王妃は語らないし、これ以上は真に怒りを招く。
全ての響きを拒絶する結界の中では、息を呑む音さえ耳に届くようだ。静寂の中、アーダが口を開いた。
「恐れながら、大公妃殿下の御業については伝え聞いておりました。破れた泉の蓋を、練った魔力によって修復なさったとか。実際に蓋に触れてなされたことと承知しております。であれば、大公妃殿下のお力を以てしても、アルベルティーネ夫人の体内にある器の修復は、できないのではないかと愚考いたします」
大公妃の手を借りられたとしても、アルベルティーネの器は修復できない可能性が高い。まして、大公妃自身が魔力に身を蝕まれているのであれば、もはや魔力を操ることも、できないかもしれない。
「……そうね。大公妃が、彼女がクラウス殿下と、修復の魔法の訓練を行っているところを実際に見たわ。手で触れることが前提であったのは確かね。人の体内の、それも形として存在するのかどうかもわからない器を、修復できるか確証がないわね」
カタリーナの美しい眉がゆがみ、声音にも苦渋がにじんでいる。
窓の外では雲の厚みが増して、雨粒が硝子を叩きはじめた。
「申し訳ありません。浅ましい考えでした」
「いえ、力になれるなら、というわたくしのほうこそ浅慮でした。アーダ、こうした事例に心あたりはないかしら?」
「私には経験がありません。信用のおける治癒士に器の破損はあり得るか、と訊いてみましたが否とのことでした。王都の治療院で過去の記録にもあたってみましたが、アルベルティーネ夫人と同じ症状があったのは、十二年前の件のみでした」
「公爵夫人はわかっていると言ったわね?」
「はい、五年ほど前から少しずつ不調を感じはじめて、それがあの時と同じものだと程なくお気づきになられたそうです」
薄暗くなった部屋の天井をフェルディナントが見上げて、指をぱちんと鳴らした。壁に据付けられたランプが灯る。内部の精霊石が、フェルディナントの魔力の色に光り、紅い遊色に部屋が満たされる。
雨足は強まり、ときおり稲光も見えるが、二重に張られた結界の中は無音のままだ。
「……父は知っているのでしょうか。母はなにか言っていましたか?」
アーダは、訊かれることを予想していたらしく、うなずいた。
「公爵閣下はご存知だとうかがいました。アルベルティーネ夫人は、五年前から『夫婦喧嘩』をしていると」
「夫婦喧嘩?」
予想外の言葉にフェルディナントは、場にそぐわない呆れた調子で言った。しかし、アーダの表情は険しいままである。
「少しずつ体調が悪化するのを感じて、アルベルティーネ夫人は実家に帰る、と申し出られたのですが、閣下はお許しにならなかったそうです」
身動きが取れなくなる前に、実家に帰りたい。離縁でかまわない、と願う妻に夫であるヴィッテンベルク公爵ヴィクトル・エルンストは、結婚以来はじめて大声を上げた。
そのようなことは認めない、離縁もしないというヴィクトルに、アルベルティーネも引かなかった。
遠からず、公爵夫人としての責務は果たせなくなる。いずれ命にもかかわる、と予想できる。『虹の氾濫』が起きたとき、失われた命は少なくなかった。
その前に公爵家を離れたい。病み衰える姿を夫や息子に見せたくない。
ヴァルターはその頃、王都で次期公爵として必要な修養にかかり切りになっていた。本邸の両親の様子には気がつかなかった。
もとより、母の体があまり丈夫ではないことはわかっていた。社交シーズンに父がひとりで王都へ来ても、特に疑問に思うこともなかった。
だがその後、社交の場に父が母以外の女性を、それも複数を、入れ替わり立ち替わり連れ歩くようになったのには、さすがに驚いた。
「閣下が王都へ向かわれた後に、アルベルティーネ夫人は幼馴染の女性に、……その、夫人の代理としての役割を依頼したそうです」
アーダはちらとフェルディナントの様子をうかがう。まだ子どもの王太子に聞かせてよいものか、慮ったのであるが、当の本人は事もなげに言った。
「ああ、そういうことだったのか」
驚くアーダと、冷たい視線を向けるカタリーナを、王太子はわざとらしく無視した。
「公爵が王都に住まわせている女性は三人。怪我でやむなく退役した騎士の娘と、破産しかけていた商家の娘。ふたりの実家は、公爵の支援で持ち直していた。ただもうひとりは、家が没落していたのは同じだけれど、公爵夫人の遠縁で妹のように可愛がっていた女性だ、と聞いてどういうことかと思っていたから」
「……貴方は、ずいぶんと手足が長くなったようね?」
呆れ顔のカタリーナにフェルディナントは、小さく肩をすくめて見せる。
「背も伸びましたよ」
「まあ、いいわ。つまり公爵夫人は離縁してその親類の女性に、後を任せるつもりでいたのね」
「はい、ですが閣下が、殿下が仰ったようになさったために、離縁もできなくなってしまったと」
アルベルティーネと離縁した後に、後妻を迎えるのであればよくある話で済む。しかし、王都で複数の愛人を囲って、領地に残した病身の妻を離縁すれば、いかに公爵といえども非難は免れないだろう。悪評が立つことはアルベルティーネが望まない。
「愛人たちは、それらしく振る舞うよう雇われているのね。まったく……」
「ヴァルターはどこまで気がついていたの?」
フェルディナントの問いかけに、ヴァルターは口を引き結んだ。
父の行動がおかしくなったことには、もちろん気がついていた。だが。
「当初、母にはなにがあったのかとたずねました。理由があってのことだから、としか言われず、それ以上は口出しできないままでした。ですが、母の体調のことがありますので。今回、殿下のご厚意におすがりした次第です」
カタリーナが、紅玉の瞳を少し細めてヴァルターを見つめる。
「ヴェルフ伯、公爵夫人の体調については、ほかに手立てがないか考えます。おそらく公爵も探っているのでしょう。夫妻の現状については、我々はなにもできないけれど、ひとつ貴方に助言をしましょう。貴方はふたりの息子として、両親に意見する権利がある。後嗣であり、もう成人もしている。必要なことは直接ききなさい。ただし、夫妻のことはふたりに任せること。それはふたりにしか決められないのだから」
ヴァルターは居住いを正して、頭を下げた。
「お言葉、ありがたく」
「アーダ、器の修復はおいても、公爵夫人の体の負担を軽くすることはできないのかな?」
フェルディナントはわざとなのか、無意識なのか、淡々と自分のペースを崩さない。
アーダは少し考えて口を開くが、慎重に言葉を選んだ。
「ヴァルター卿がお戻りの際に、暗示の魔法を使うと、器に余裕ができて、暗示の効果以上に体調は良くなるそうです。ただ、いずれ魔法を使える魔力量を保てなくなるだろうと。それもあって、今後のためにとお話しくださったようです」
フェルディナントの声色が、はじめて緊張を帯びる。
「亀裂が大きくなっているということか」
「……はい」
一際眩しい稲光が窓を白く染め、ヴァルターは聞こえないはずの雷鳴が、耳に響いたような気がした。
「王妃陛下、王太子殿下。アーダ殿も。身に余るご厚情、ありがとうございます。父とも母とも、話をしてみることにいたします」
会合は、そこでひとまず終わりとなった。
「アマーリア様、ヴァルターです」
王妃のもとを辞して、騎士団の宿舎へ戻ろうとしたところで、アマーリアからの呼び出しを受けた。
魔力の暴走が少なくなり、護衛の当番ではない日に呼ばれることは減ったが、偶に突然の思いつきが発生する。
扉を叩くと少しの間の後、返答があった。
「ヴァルター? 入っていいわよ」
部屋に入ると、目に飛び込んできたのは、青い半球に包まれたアマーリアだった。金の帯が絡まる瑠璃の帳は、物理的に壁を作る結界であるが、視界は遮断されておらず、防音もなされていない。アマーリアの声は、ふたりの間になにもない状態と同じく聞こえてくる。
「どう? よくできたでしょう? 見せたくて頑張って保っていたのよ」
あまりに壮麗である。迅雷の度に紺碧の幕に金糸が細かく煌めく。しかし、それはアマーリアを閉じ込める籠のようで、ヴァルターは言葉を失った。
「……本当は『氷』の魔力だけで作ろうとしたのに、どうしても『風』を除くことができないの。でも綺麗でしょう?」
アマーリアの声は届いているのに、口を開くと目の前の光景に抱く己の感情がこぼれそうで、ヴァルターは押し黙った。
「ヴァルター? やっぱり粗いかしら。貴方ならすぐに解けるわよね」
しゅんとして顔を曇らせるアマーリアに、ヴァルターはやっと声をかけた。
「……解けません、私には」
「本当?」
ぱっと明るさを取り戻したアマーリアに、ヴァルターはうなずく。
この宝珠のような美麗な籠を、このまま留めておきたいと望むヴァルターには、解けない。
惚けたように動かないヴァルターを不思議に思いながら、アマーリアもしばし彼を見つめていた。
ブクマ、いいね、ありがとうございます。とても励みになります。
リューレ大公夫妻については、この話ではこれ以上語られません。ご興味のある方は、拙作『虹色の霧の国』をお読みいただけると嬉しいです。