6.わがまま王女と隣国の公子
その日、アマーリアはかなり不機嫌だった。朝食後に予定されていた魔法の訓練を、躊躇なく放棄するほどに。
十四歳のアマーリアは、ひとまず落ち着いて魔法の修練に取り組むようにはなってきた。しかし、感情をかき乱されると、たちまち十歳に戻ってしまう。
盛大に魔力を暴走させることは少なくなったが、感情のままに行動する彼女は、いまだに『わがまま王女』であった。
たとえば、魔法の失敗が重なったとき、朝食に嫌いな野菜が出されたとき、不愉快な噂を耳にしたとき。
王宮に併設されている迎賓館の庭園は、園遊会の会場にもなる。中央の広場の周囲に、樹々や花壇が宴席を設置出来るよう計算して配置されている。
アマーリアは、その庭園の南側の大きな木にもたれて座っていた。宴の際には、使用人たちの待機場所となる空間である。
いらだつ心を持て余し、芝をぷちぷちとちぎっては散らしていく。それでも腹の虫は治まらなかったが、散らばる芝の葉が風に舞うと罪悪感を覚えて手を止めた。
細く長い息を吐き出すと、人が近づく気配を感じて顔を上げた。
「煌びやかなティアラがお似合いだと思っておりましたが、そうした装いも大変好ましいご様子ですね」
アマーリアよりは歳上に見えるが、まだ若い貴公子が片膝をついて礼をとる。略礼装ではあるが、銀灰色の上着がよく似合っている。
珍しい長い黒髪はゆるく束ねて背に流され、大きな目に映る瞳は、白金にも見えるほど淡い金色である。その印象はやや幼く見えるが、真っ直ぐな黒髪は神秘的で、いたずら好きな精霊のようだ、とアマーリアは思った。
「はじめて会うと思うけれど?」
「虹の瞳を持つ美しい方を知らぬ者はおりませんよ。絵姿を拝見しました。その絵の中では、銀のティアラをつけておられた」
今日のアマーリアは、艶のない水色のワンピースを着ていた。髪には、ドレスの共布に白い花が刺繍されたヘッドドレスを結んでいる。
右から左へ、小花から少しずつ大きな花へと移り変わり、端には一際大きな白薔薇が見事に咲く。薔薇の花びらの上には、朝露を模した小さな真珠がのっている。
王女の装いとしてはかなり簡素であるが、華美なドレスは動き難い。朝から逃げ出すつもりで、選んだものだった。
「ティアラは嫌いなのよ。重たいし、ずれないようにずっと気にしてないといけないし。不自由だから、どうしてものとき以外にはつけないわ」
「そちらのほうがお似合いですよ。朝露の輝く薔薇は『暁の姫君』に相応しく思いますよ」
「どこで聞いたの? その呼び方も嫌いよ。『わがまま王女』も耳にしたのではなくって?」
「さて、寡聞にして存じ上げませんが。そもそも、王女殿下はわがままであられるべきでしょう。そのように申す者がいるなら、不見識というものですね」
アマーリアは一瞬ぽかんとするが、唇をきゅっと引いてから口を開いた。
「どういうこと?」
黒髪の貴公子はアマーリアの印象通りに、いたずらな表情を浮かべるが、おっとりした口調で柔らかく話す。
「遠慮がちで従順なだけの王女殿下では、務まらぬことが多いでしょう。アンティリア王国の姫君となればなおさら、強い意思をお持ちであるほうがよい、と私は思います」
そのような気弱な王女がいるのかどうかは知らないが、国王の娘は国の駒となる。心構えだけは、アマーリアも幼い頃から叩き込まれてきた。強い意思のようなものがある、と見えるのならそのせいかもしれない。
それは単に我が強いだけですよ、と誰かの声が聞こえる気がする。アマーリアは目を細めて、見上げてくる貴公子を軽くにらんだ。
「ものは言いようね。それで、わたくしが王女アマーリアだと知っているのなら、そろそろ名のってもよいのではなくて?」
「これは大変な失礼を。ジェイソス公国の公爵嫡男、アルバン・エーバーハルトと申します」
初対面であれば、身分の低い者から挨拶をする。王国の王女と、公国の公子であれば、アルバンから名のるべきである。ましてアマーリアは、大陸でもっとも古い歴史を持つ大国の王女だ。
それを知りながら、ここまで挨拶をしなかったのは、アマーリアが、この場にいてはならないことを承知しているからだろう。
しかし、その気遣いはアマーリアをよりいらだたせた。
――わかっているのなら、出てこなければいいのに! ――
迎賓館にジェイソス公国の世子が滞在していることを、すっかり忘れていたアマーリアは、不機嫌を隠しつつ笑みを浮かべた。
「ジェイソスの公子は、ケルンテン侯爵を襲爵するのだったかしら」
「よくご存知で」
アンティリア王国の南に位置するジェイソス公国は、もとは王国であった。しかし、野心に駆られた数代前のジェイソス国王が、アンティリア王国へ侵攻し、王朝は倒れた。
そのとき、ジェイソス国軍を打ち払ったのは、アンティリア王国のカランタニア侯爵であった。
その後、カランタニア侯爵はジェイソスの地を得てジェイソス公となった。
ケルンテン侯爵は、ジェイソスの世子が名のる名誉爵位であり、所領はないが次期ジェイソス公の証となっている。
現在、ジェイソス公国はアンティリア王国の同盟国であるが、他国からは半ば属国のようにみられている。
ジェイソス公、あるいはその代理人は社交シーズンにアンティリアの王都アンスリーを訪れる。
今年は十八歳になったばりのアルバン公子が、成人の挨拶を兼ねて、ジェイソス公の代理人となっていた。
例年の代理人はアンティリアに縁のある貴族が務め、アンスリーにある大使館に滞在していたが、今回は公子の訪問であるため、迎賓館に客室が用意されていたのである。
アルバンは、庭園に入り込んだアマーリアに気がついて、わざわざ出てきたということだ。
「どうぞ、楽になさって」
「ありがとうございます。では失礼して」
アルバンは姿勢を崩して、その場にあぐらをかいた。
「まさか、お目にかかれるとは思いませんでした」
「お邪魔してしまいましたね」
「いいえ。私のほうこそ、せっかくの機会と不躾にお声がけしてしまいました。ご無礼をお許しください」
アルバンが謝罪すると、アマーリアはその芝居がかった仕草が可笑しくて頬をゆるめた。
「おおげさね」
アルバンも微笑んだが、大きな金の瞳ははっきりと映ったままだ。
「アマーリア殿下、お戻りください」
そのときヴァルターの声が聞こえて、アマーリアは振り向いた。
「迎えがきたわ」
少し前から、ヴァルターが様子をうかがっていたことには、気がついていた。それを感じさせない物言いくらいは、アマーリアにもできる。
「アルバン殿下、失礼いたします。アマーリア殿下の護衛を務めております、ヴァルター・クリスティアン・ヴェルフと申します。お騒がせして申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそ姫君のお邪魔をしてしまいました。ヴィッテンベルク公のご長男ですね。先日、公には挨拶したのですが、貴殿とは話せず残念に思っていました」
アルバンは、跪いて礼を取ろうとするヴァルターを手をあげて押し留めて立ち上がった。
「またいずれ正式な場で。今日は姫にご挨拶できただけで充分です。帰国する前に僥倖でした」
アマーリアに軽く頭を下げると、アルバンはそのまま迎賓館へと戻って行った。
こめかみを引きつらせたヴァルターに促されて、アマ―リアも立ち上がった。
自室へ戻る途中、王族の居住区へ入ったところで、それまで黙っていたヴァルターは淡々と小言を繰り出した。
「どうして迎賓館へ行かれたのですか。今は特に避けなければならない場所ですよ」
「忘れていたのよ。仕方ないでしょう」
「仕方ないではすみません! ご自分のお立場をもう少しお考えください、といつも……」
成人したばかりの隣国の公子に、来年には公務に就くであろう王女。
ふたりが出会って言葉を交わしただけで、様々な憶測が乱れ飛ぶには充分だ。
偶然すれ違って挨拶をした、それだけに見えるぎりぎりの時間をはかってヴァルターは割って入った。しかし、アマーリアが迎賓館の庭を訪れたこと自体が、企てられたのだと考える者もいるだろう。
アマーリアを崇拝する者たちは、彼女が魔力制御を覚えたことで、より彼女を神聖視している。
アマーリアを女王に、そして自身を、息子を、孫を王配に。と愚かな野望を抱く者たちは、ジェイソスの公子という強力な対敵の出現に、心をざわつかせるだろう。
アマーリアはしかつめらしい顔をして、不機嫌なヴァルターに対抗する。
「向こうから出てきたのよ。逃げるわけにもいかないでしょう」
「どうして部屋にいらっしゃらなかったのです。近頃は、真面目に練習なさっていたではないですか」
アマーリアは口を引き結んで歩みを速めた。その体からうっすらと金の薄絹のような光がのびる。ヴァルターは急いでアマーリアに近づくと、背後からささやく。
「抑えてください」
アマーリアも魔力が流れ出ていることには、気づいている。数日前からもやもやとした心の内をかき回すように、ずっと魔力がうごめいていた。それを外に出さないように自制することで、よりわずらわしい思いが強くなっていった。
――それもこれも貴方のせいじゃない! ――
大きな音を立てて部屋の扉を開ける。中にいた侍女たちは、アマーリアの表情と金の粉が散る虹の帯を見ると、後から入ってきたヴァルターに視線を向ける。ヴァルターがうなずくのを確認すると、事態を理解して速やかに退出していく。
流れるような彼女らの動きに、アマーリアのいらだちはさらに増幅する。
「殿下、抑えられるでしょう」
「うるさいわね! 今日は嫌なの!」
違う。
嫌なのではない、できない。渦巻く魔力を操れない。止めようとしても、濁流に網を張っているかのように手応えがない。
落ち着いて、冷静に。そんなことはわかっている。でも、できない。
焦りが、少しずつ恐怖に変わっていく。魔力を手繰り寄せるように、手をのばす。しかし、その掌からも遊色の霧が湧き上がる。
「ヴァルター! 怖い!」
「……アマーリア様、失礼します」
アマーリアが伸ばした手をヴァルターが掴んで、厚い胸にアマーリアの小さな体を包み込む。
目を閉じたアマーリアの眼裏に、真夏の青空が映る。雲一つない、暑い青一色の世界に覆われる。耳もとで、氷の精霊を呼ぶ聖句を唱える声が聞こえて。
アマーリアは愁眉を開いて、意識を失った。