4.わがまま王女の母と弟
「本当に申し訳ないと思っているわ、ヴェルフ伯」
ヴァルターが国王の精霊石を使用した翌日。
ヴァルターは、王妃カタリーナ・エリーザベトから呼び出しを受けた。
ヴァルターは、ヴィッテンベルク公爵家の嫡男が代々使用する従属爵位、ヴェルフ伯爵を名のっている。
カタリーナがヴァルター個人を示す爵位で呼んだのは、近衛騎士や王女の護衛としてではない彼個人に、詫びるためであった。秋の夕陽のように紅いカタリーナの瞳は、真っ直ぐに紺碧の瞳を見つめている。
「王妃陛下、そのような」
頭こそ下げてはいないが、王族が臣下に対して謝るなどあってはならない。それでも、あえて王妃の応接室でなされた謝罪は、国王の意を汲んでのことかもしれない。
「貴方にとっては迷惑でしかないでしょう。わかっていたけれど頼ってしまって、申し訳ないと思っているわ」
アマーリアの魔力の制御が、ヴァルターの探知を上回った。それ自体は喜ばしいが、もちろん魔力の制御はまだ完璧ではない。今の状態は本来、王族であれば生まれながらに身につけている程度のものである。
だが、この段階になれば貴族の子弟が魔法を学ぶのと変わらない。精霊術士をつけて、基礎的な魔法から学べばよい。アマーリアの歳なら決して遅くはない。
ヴァルターの日々の報告により、アマーリアの修練過程を把握していた国王は、予め指導者の選定を進めていた。
ところが、一度、精霊術士が解任されていた大精霊殿からは、新たな術士の招聘を、やんわりと断られていた。
「アマーリア様にご指導できる器の者がおりません」
大精霊殿としては、高位の術士が仕損じた仕事を、公爵家とはいえ貴族の――それも表向きは護衛騎士の――ヴァルターが成したとは認めたくはない。その上で、今後のアマーリアの教育にかかわって、失態を重ねることは避けたいのだ。
アンティリアの王権は強大であるが、その権力の基盤は、国王が持つ『精霊の加護』の大きな器の存在である。
それゆえに、精霊への信仰を司る大精霊殿に対して、頭ごなしに命じることはできない。
各地の精霊殿にも優秀な精霊術士はいる。そうした者を探し出して招こうとしていたが、それでも大精霊殿に話を通さなければならない。どうにか体裁を整えようとしていた矢先であった。
さらに、アマーリアがなぜか、ヴァルターの解任を拒んだ。
さまざまな事情がからみ、ヴァルターを魔法の指導者として、引き続きアマーリアにつけるのが、最も望ましく、容易な選択となってしまった。
アマーリアが習得するべき魔法は、王族として必要なものだ。その修練は一朝一夕にはならない。教え導くとなれば、年単位の時間が必要になるだろう。
当初の約束は「一年、アマーリアが基礎を身につけるまで」であったが、今後は無期限となる。
ヴァルターはどうにかこの人事を避けられないか、と一晩考えたが、妙案は浮かばなかった。
「専任の護衛からは外す、と陛下は仰っているわ。近衛のアマーリアの護衛でいることは変わらないけれど、名実ともに魔法の師としてついてもらいたいの。正式には来月からになるかしらね。あの子にも教わる者としての態度を守らせるわ。今後も遠慮なく接してちょうだい」
カタリーナは言葉を切ったが、ヴァルターは黙ったままである。中庭に面した窓から差し込む陽が、ふたりの間に光の幕を下ろした。ヴァルターの表情は見えにくくなったが、困惑を隠しきれない様子は伝わってくる。
ヴァルターは本来であれば、ヴィッテンベルク公爵の後嗣として、領地経営の勉強をはじめているはずであった。
父、ヴィッテンベルク公爵は国政に携わる忙しさを理由に、領地は信頼する部下に任せきりにしている。
同時に、体が弱く領地から出られない妻も、放ったままである。王都で複数の愛人を囲っていることは有名で、もちろんヴァルターも知っている。
父の行状に口を出す気はない。ただ、ひとり残されている母の側にいてやりたい。その願いはまた遠のく。
「あの子が持って生まれた器を扱いきれずにいるのは、わたくしのせいなのよ」
カタリーナの整った眉がゆがむ。ヴァルターは視線を上げて、陽の光に沈む王妃の瞳をうかがった。
「伯は聡明な方だから、若くても王宮の内外の事情には通じているでしょう?」
「いや私などはまだ……」
「いいのよ。わたくしが嫁いでから、アマーリアが生まれるまで四年かかったわ。わたくしよりも後にクヴァンツ侯爵家へ嫁いだ妹は、すぐに嫡男に恵まれたのに……。フェルディナントが生まれる前に、侯爵家には次男も生まれていて、わたくしに聞こえるように『妹のほうにすればよかったのに』という人もいたくらいよ」
アンティリア王国の王位継承は男子優先である。過去に女王の即位もあったが、つなぎの戴冠である場合が多い。したがって、王家には男子の出生を望む意識が強い。
アマーリアが生まれても、落胆の声が少なからず聞こえた。やっと腕に抱いた我が子を、愛おしく思う気持ちは確かにあった。しかし、男子を産まなくてはならないという重荷は、カタリーナの心から消えることはなかった。
そのような中、比較的はやく二度目の懐妊がわかり、カタリーナはより慎重に、神経質にならざるを得なかった。
アマーリアの世話は乳母に任せきりになった。よちよち歩きで手を上げて母の腕を求める娘に、眉を下げて首を横に振ったことも一度や二度ではない。
未熟だったのよ、とカタリーナは言った。
「まだ幼いアマーリアを、迷いなく抱き上げてやれなかった。わたくしの不安や周囲の意識が、あの子になにも影響しなかったとは思わないわ」
ヴァルターはどのように返答すればよいかわからず、無難な言葉を選んだ。
「私には、王妃陛下に責があるようには思えませんが」
流れてきた雲が陽をさえぎり、カタリーナの顔が再びはっきりとヴァルターの視界に入った。穏やかな微笑には、わずかに自嘲が混じっている。
「伯はやさしいのね。フェルディナントを産んだ後も、わたくしは床に就いてしまって、結局、母に甘えることなく育った。それが、今のあの子。王族の器を持っているのに扱えない様子は、王族であることを拒絶しているように見えるのよ。それを必要とされていない、と思っているのかもしれないわ」
カタリーナは正面を向いているが、その瞳にヴァルターは映っていない。どこか遠くを見るように少し目を細めた。
「あの子の評判はおかしいでしょう? 姿を見ただけの者は崇めるように称賛するのに、実際に接した者はどうしようもないわがまま王女だと嘆息する。見た目だけで、実をともなわないと思われている。周りにどう見えようとかまわないわ。でも、あの子自身がそう思い込んでしまうのは、やめさせたいのよ」
ヴァルターにも、この一年で培われたアマーリアへの情のようなものはある。
「恐れながら、私見を申し上げても?」
「もちろんよ、聞かせてほしいわ」
「アマーリア様が、魔力の制御に手間取っておられたのは、そのお力がなかったからではありません。私は王妃陛下の仰るような理由で、とも思いません。王家の器を測ることはできませんが、あれだけ頻繁に魔力を暴走させても、アマーリア様は平然としておられる。それは、器にはまだ余裕がある証拠です」
慎重に言葉を選ぶヴァルターを見て、カタリーナに微笑が浮かぶ。それに対してヴァルターが抱いたほんの少しの違和感は、緊張に押し流された。
「私はアマーリア様の拙い部分は、ご自身の魔力量を見誤っておられるからでは、と考えております。魔力を無駄なく使う技術さえ身につけられれば、充分にお力を発揮できるでしょう」
通常、器に精霊の加護の力が満ちるということはない。己の扱えるだけの加護が、魔力として器に注がれる。器に過剰な魔力が流れ込むと、発熱やめまいを起こし、最悪は死に至るという。
大気に溶け込んでいる加護の力は、常に人々の器に供給されるが、扱える量を超えはしない。
アマーリアは魔力の暴走を起こしても、体調を崩すことはない。要は魔力を無駄遣いしているのだ。
「ですから、相応の術士がつけば……」
カタリーナの目と口が対照な弧を描く。ヴァルターに最後まで言わせず、下側の弧が形を変えた。
「よかったわ。あの子のことを本当によくわかってくれているのね。やはり貴方にお願いするのが最良だと思うのよ」
カタリーナの言葉に嘘はない。しかし、単に罪悪感からヴァルターの耳に入れたわけでもない。
アマーリアへの同情心を引き出す意図が、少なからず含まれている。もちろんそれがヴァルターに有効だ、とわかっているからこそ。
ヴァルターは徒労に終わると知りながら、最後の抗弁を試みた。
「……しかし私は術士ではありません」
「並の術士よりよほど優れていることは、知っているわ。公爵には昨夜のうちに連絡がいっているそうよ。『息子が己で判断するでしょう』と言っていたと聞いているわ」
「……謹んで拝命します」
肩を落としたヴァルターはさらに頭を下げて、そのまま口を開いた。
「ふたつ、お願いがございます」
「ええ、聞きましょう」
「アマーリア様のお力が充分である、となったときには速やかに近衛を辞すことをお許しください。また、もしも、ヴィッテンベルク公爵家に不測の事態が生じた場合には、そちらを優先させていただきたく」
ヴァルターには見えていないが、カタリーナは深くうなずく。
「それは、当然ね。わかりました、わたくしから陛下に申し上げておきます」
ヴァルターの錫色の髪が流れる。カタリーナは眉を寄せて小さく息を吐いた。
「ありがとう。表立って謝儀はできないけれど、無理を言っていることは承知しているわ。この後、フェルディナントのところへ行ってちょうだい」
「これを渡すように、と母上が」
カタリーナとの面会を終えたヴァルターは、そのまま王太子フェルディナントの私室を訪れた。
手渡されたのは革張りの黒い箱である。掌の上で蓋を開けると、眩い光があふれ出した。ヴァルターの親指ほどの石が、濃い紅を包む美しい虹の光を放っている。
「これは殿下の……」
「そう、僕の精霊石。好きに使ってかまわないよ。魔力が足りなくなったら持ってきて」
「どういうことですか?」
「それでときどき公爵夫人に顔を見せに行くといい。これまでよりは時間もとれるだろうし。もう姉上にずっとついていなくてもいいのでしょう? ヴァルターなら転移の魔法陣も組めるよね」
転移の魔法は、精霊術士や魔術士が組んだ魔法陣に魔力を注ぎ、陣に載せた物質を転移させる術である。ただし、その方法で人を送ることはできない。
魔法陣に乗った生き物は、空間を転移することなくその場で命を失うか、転移先の魔法陣に現れることなく消え失せる。
ただし、王族に限っては魔法陣を使うことなく、身ひとつで望む場所に転移することができる。また、王家の精霊石を用いれば、王族以外の者が魔法陣で転移することも可能だ。
「ご存知でしたか」
「まあ、それくらいはね」
歳に似合わないフェルディナントの苦笑に、ヴァルターも同じ表情を返し、箱を閉じた。部屋の中には陽の光が戻ってくる。
「悪いね。姉上のわがままの一番の被害者はヴァルターだね。罪滅ぼしには足りないだろうけれど」
「……ありがとうございます」
「もっと怒ってもいいと思うけどなあ」
フェルディナントに訴えることではない、とヴァルターは取りすました様子で礼をする。
「いえ、陛下より直々のご下命とあらば」
「真面目だねえ。なら、僕のわがままもきいてもらおうかな」
思わず身構えたヴァルターを見て、フェルディナントは今度は子どもらしく笑う。
「たまにでいいから、稽古をつけてよ。剣の腕も近衛では一番だと聞いているよ。これも渡しておくから、時間があるときに連絡してくれる? 僕は七の日の授業は午前だけだから」
フェルディナントが再度伸ばした手から、黒い小さなプレートを受け取る。
いびつな四角形だが、同じ形を長辺で向かい合わせにすると正五角形となるはずだ。
魔力を通すと対になる石につながる、通信石という特殊な精霊石である。相当の魔力を持つ者同士でなければ使えないが、王太子と次期公爵ならば問題ない。
王家の精霊石も、通信石も、気軽に下げ渡されるものではない。
「ありがたく拝領します」
かしこまったヴァルターに、フェルディナントは呆れて口を開いた。
「本当に真面目すぎるよ」
フェルディナントから、定期的に呼び出しを受ける。それは非公式に、王家の精霊石を渡すための口実である。
王家のせめてもの謝儀なのか、詫びなのか。
もとより、王命には逆らえない身の上である。ここまでしてもらったなら、忠義を優先することに不満はない。
十七歳のヴァルターは、若者らしい潔癖さにしたがったのであった。