3.わがまま王女のわがまま
アマーリアの一日には、学問の講義や礼儀作法の授業が組まれてれている。その時間は決して多くない。予定を終えれば、自由気ままに過ごす時間のほうが長い。
アマーリアが学者の講義を受ける間も、遊んでいるときも、護衛は常に控えていなければならない。
これまでは、担当の近衛騎士が交代制で護衛にあたっていたが、ヴァルターが入ってからは優先してアマーリアに侍っている。
表向きのヴァルターは、アマーリア王女の護衛に配属された近衛騎士のひとりにすぎない。だが、真の任務は、彼女に魔力の制御と魔法を教えることである。
アマーリアは、最悪の第一印象を残したヴァルターから、苦手とする魔法を教わることが我慢ならず、逃げることにした。
勉学の時間が終わり、小休止のあと、ヴァルターも休憩を取る。別の近衛騎士に交代したところで、ヴァルターが現れる前に逃亡する。
王宮は広い。簡易結界くらいであればアマーリアでも破れる。本来なら王女がいるはずのない場所を探しては、姿を隠す日々がはじまった。
しかしながら、魔力を制御できないまま動き回るアマーリアが魔法を使えば、痕跡が残るだけではない。
ある程度の器を持つ者には、アマーリアが魔法を使っただけで、すぐに探知できてしまう。
そして、ヴァルターの器は王宮に仕える者たちの中で最も大きい。
「アマーリア様、なにをしていらっしゃるのですか?」
「こ、ここは立ち入り禁止よ!」
「私の立ち入りは制限されておりませんよ。むしろ、アマーリア様がいらっしゃる場所ではありません」
下働きの者が王族の居住区や、行政区へ入らないように張られた結界を破っては逃げ回る。しかし、すぐにヴァルターに捕まってしまう。
ある日は馬場の隅の厩舎で、ある日は王宮の裏庭の洗濯小屋で。別の日には社交用の外苑で、宮廷大広間で。
「結界を力ずくで破っておいて、見つからないと思っておられるのですか? 私が考えていた以上に子どもですね」
「うるさいわね、わたくしはひとりになりたいの。放っておいて!」
顔を真っ赤にしてまくし立てても、ヴァルターは涼しい顔で首を振る。
「おひとりになられるなら、お部屋へお戻りください。働いている者の邪魔をしてはなりません」
「邪魔なんてしていないでしょう!」
「貴女が破った結界は誰が修復するのですか? 結界が途切れたために、禁止区域にうっかり入った者は罰を受けるのですよ。これが彼らの仕事の邪魔ではないと?」
「うるさいわね! それも仕事でしょう!」
ヴァルターの紺碧の瞳が一際濃くなる。青い炎は赤い火よりも熱い。
「私の仕事はそうですが、下働きの者たちの仕事にはアマーリア殿下のお守りは入っておりません」
淡々と告げるヴァルターを、持てる限りの怒りを込めてにらみつける。しかし、それを無視して、ヴァルターは彼女を抱え上げて部屋へと連れ戻す。
この間、ヴァルターは例のアマーリアの魔力を通さない結界を張っている。
アマーリアは怒りと魔力を持て余しながら、ただ荷物のように運ばれる。屈辱に身を震わせても、結界は破れない。
日々、苛立ちを募らせて、とうとうアマーリアは魔力の制御を自ら学ぶようになった。ヴァルターから逃れるために。
それがはじめから父王とヴァルターの目論見だったことには、微塵も気づかなかった。
もともと、アマーリアの器に注がれる魔力が多いために、扱える許容量を上回って、暴走してしまうのだ。アマーリアが操作できる魔力量が増えれば、制御はそれほど難しくはない。
精霊術士が残していった魔術書を読み、少しずつ制御を身につけたアマーリアは、その分だけヴァルターに捕まるまでの時間が長くなっていった。
一年も経つころには、魔力が流れ出ることもなくなり、魔法の痕跡を消すこともできるようになった。
「ヴァルター、今日もかくれんぼ? 大変だねえ」
冬の終わり、赤く長い夕陽の差し込む回廊でヴァルターは声をかけられた。
「王太子殿下」
「今日は随分と遅いんだね」
王太子フェルディナント・アルブレヒトの金の髪は、夕陽を浴びるとまぶしいほどだ。虹の瞳には夕陽よりも紅い炎が宿る。九歳の王太子の頭はヴァルターの肩ほどにあり、言動は姉よりもよほど大人らしい。
ヴァルターは端によって礼をとった。
「そうですね。アマーリア様も上達されましたので、そろそろ私の探知が及ばなくなりまして」
「そうなんだ、手伝おうか?」
「いえ、実は陛下の精霊石をお預かりしておりまして。ただこれを使うとなると、私もお役御免となりますから、少し躊躇しておりました。ですが、もうよい頃合いでしょう」
ヴァルターは、騎士服の胸もとから鎖のついた銀の台座を取り出して蓋を開いた。
親指ほどの大きさのそれは、開いた瞬間に湖面に浮かぶ虹の光を放った。
一般的な精霊石は、成人女性の小指の先ほどの大きさである。もとになる空の石はほとんどが同じ大きさで、加工されることなくそのまま流通する。
しかし、まれに大きな形を保ったまま採掘される石があり、それらは全て王家に献上される。大きな空の石を精霊石に変えられるのは、王族の魔力だけであるからだ。
ヴァルターは国王アルトゥールの精霊石から、魔力を取り出す。掌に集めた魔力を握り潰すと、拳から青い霧が放たれて消えた。
「おや、珍しいところにいらっしゃるようですね」
ヴァルターはどこか懐かしむように目を細め、精霊石の蓋を閉じる。
そのまま握りしめた拳を胸にあてて、礼をとると踵を返した。その背中に大人びた、しかしまだ可愛らしい声が再びかかった。
「ヴァルター、感傷に浸るのはまだはやいと思うよ。あの姉上だからね?」
王宮の北側の塔には書庫がある。
書籍の劣化を防ぐために、書架は窓から距離をとって設置されている。窓際は書架よりも床が低く、広い空間に書見机やソファが置いてある。
最奥の隅にあるソファの背に、黄昏の色に染まった長い髪が見える。
父や弟のように豪奢な金ではなく、母のようにあたたかみのある栗色でもない。アマーリア自身は中途半端な髪色を嫌っていた。
しかし、夕闇に沈みゆく鮮やかな太陽のまたたきを映す髪色は、真新しい赤銅のようにまぶしく輝いていた。
うつむくアマーリアの頭が、ふらふらと泳いでいる。ヴァルターは静かに隣に座ると、己の膝を枕にするようにそっと手を添えて誘った。
夕陽から逃れて、鮮やかな赤銅色はもとの淡い栗色へ戻る。滑らかな長い髪を、ゆっくりと大きな手がなでる。
アマーリアの頬は、ヴァルターがはじめて会った頃の丸みを失いはじめている。少しだけ細くなった顎は、これからもっと優美な線を描くようになるだろう。
十一歳はまだまだ子どもだ。だが、確実に成長している。
寂しさと、少しの解放感を抱きつつ、ヴァルターはアマーリアとの最後のときを惜しんでいた。
はずであった。
「……うん。ヴァルター?」
「はい、ここに。アマーリア様」
膝枕に心地よさを感じて猫のように身を丸める。ぼんやりした視界に、見下ろしてくる紺碧の瞳が映る。
「……見つかったのね。今日こそ大丈夫だと思ったのに」
沈む陽の光が細く長く伸びている。ヴァルターの苦笑が微かに空気を揺らす。
「今日は私の負けです。自力では貴女を見つけられませんでした」
国王の精霊石を開いて見せる。強い魔力が薄暗い書庫を照らす。ゆらめく光は湖が夏の陽をはじくように力強い。
アマーリアは勢いよく起き上がり、ヴァルターの右手の上で光る精霊石を見る。口の端が自信に満ちて上がってくる。
「お父様の精霊石!」
「ええ、ですからもう私はアマーリア様の護衛から外れます」
「え?」
「私が護衛につくのは、ご不満でいらしたでしょう? 明日からは別の者が参りますので……」
「だめ!」
アマーリアは、思わず出た自分の大きな声に驚いている。それを取りつくろうように続ける。
「……だって、お父様はヴァルターの結界を、わたくしが解けるようにならないといけない、と仰ったのよ」
「これだけご自身で制御できていらっしゃるのですから、できますよ。それなら今」
ヴァルターが空いた左手で、アマーリアの指先を捉えようとするが、まだ小さな手はその背に隠される。
「だめよ! で、できないもの。またわたくしに怖い思いをさせるのね。嫌よ」
「アマーリア様は、もう充分にお力を備えておいでです」
困惑するヴァルターが手を伸ばすが、アマーリアはじりじりと距離を空けていく。
「ヴァルターはわたくしの護衛なのよ。勝手に辞めるなんて許さないから」
じっとにらんでくるアマーリアに、ヴァルターはひとつ息を吐くと精霊石をしまった。とたんに周囲は夕闇に包まれる。
闇におびえかけたアマーリアに向けて、すぐにヴァルターはぱちんと指をならした。
青い光がアマーリアにまつわるが、彼女は動かない。ほんの少しでも動けば解けるとわかるそれを、息を詰めて保つ。
ヴァルターは大きく天を仰ぐと、一度だけ首を振ってアマーリアを抱き上げた。
そのままどちらも一言も口をきくことなく、部屋までアマーリアは運ばれた。