2.わがまま王女の護衛騎士
新たに護衛に加わったヴァルターは、小さなアマーリアの前に跪くと、その手をとって指先に触れた。
王宮に現れる貴族たちに、幾度となく同じことをされてきた。多くの者がアマーリアの美しさを褒め称え、崇拝するように見つめてきた。
ヴァルターは、近衛騎士の制服に身を包み、それまでの誰よりも優雅に、うやうやしくアマーリアの指先に口づけた。
濃紺の生地に銀糸の刺繍で縁取られた襟には、アマーリアの紋章が輝く。金の半円の上に、まるい花弁が五枚の銀の花が重なった意匠は、近衛騎士の憧れの徽章である。
真新しい徽章が光る上には、まだ少年とも呼べるような屈託のない笑顔が見える。錫色の髪は鈍い光を映し、そのゆらめきにアマーリアはうっかり見惚れていた。
実際、まだ彼は大人というには若すぎる年齢だったが、十歳のアマーリアには充分立派な騎士に見えた。
ヴァルターが口づけた指先から、ほんのわずかな魔力がふわりと広がる。その場にいた侍女や女官たちにはまったく見えていなかった。
青いベールがアマーリアをやんわり捕らえて、またたく間に消えた。その瞬間、アマーリアは座っていたソファに縛りつけられ、口もきけなくなっていた。
ヴァルターは立ち上がって、今度は騎士の礼をとる。
「ヴィッテンベルク公爵が嫡男、ヴァルター・クリスティアンと申します。この度、国王陛下よりアマーリア殿下の護衛を仰せつかりました。この身をもって忠信より殿下にお仕えいたします」
身動きの取れないアマーリアに向けられた青い瞳からは、真夏の空の見えない熱が伝わってくるかのようだ。
対するアマーリアはまばたきすらできない。ぴくりとも動かない身のうちを、怒りに震わせる。
満足そうにひとつうなずいたヴァルターは、今日のところはこれで、と再び嫌味なまでにそつのない動作で頭を下げると部屋を出ていった。
彼が身を起こしながら、口もとでなにか音のないことばをつむいだのを、アマーリアは見逃さなかった。
ぱたん、と扉が閉まると侍女たちが、ほうっと熱っぽいため息を吐く。同時にアマーリアの拘束が解けて、ぷるぷると拳が震えだす。
「なによあれ! あんなのが護衛だなんて絶対に嫌よ!」
「ええ! 姫様もうっとりしていらしたではないですか」
「していないわよ! 魔力で拘束されたのよ! 許さないわ、お父様に言いつけてくるから!」
アマーリアが、言いだしたらきかないことをよく知っている侍女たちは、飛び出していく彼女を慌てて追いかけた。
姫様がこれほどお怒りなのに、今日はまったく魔力が漏れ出ていない、と不思議に思いながら。
「ならぬ」
娘が執務室に突入してきても、眉ひとつ動かさなかった国王は、手元の書類から目を離すことなくきっぱりと言った。
「いきなり魔力で拘束されたのです。とても怖かったのです。あのような者が護衛では、恐ろしくてなりません!」
重厚な執務机に飛び乗る勢いで、アマーリアは詰め寄った。そこではじめて、国王アルトゥールは娘に視線を向けた。
「ほう、見事なものだな」
アルトゥールはペンを置くと、軽く持ち上げた手を振って、アマーリアを追ってきた側仕えを下がらせた。
ゆっくりとアマーリアの頭から足まで視線を動かすと、アルトゥールは冬の空に浮かぶ虹のように目を細めた。
「お父様?」
「気づいておらぬのか。だからこそ、ヴァルターをつけたのだ」
アマーリアは眉根を寄せて口を尖らせる。侍女やアマーリアを崇拝する貴族たちなら、たちまち機嫌を取るために菓子や美辞麗句を用意するだろう。
しかし、父にはそれが通用しないことは知っている。不愉快な気持ちを隠して甘えるような器用なまねは、アマーリアにはできない。
「アマーリアが不機嫌にここへやって来るときには、いつも無駄に魔力を撒き散らして、予はまず頭を抱える。今日はそうなってはいない。どうしてかな?」
「ええ? あれ?」
アマーリアが感情をあらわにするとき――ほとんどの場合は怒りである――周囲には金の粉が舞う虹色の霧が出現する。
彼女が通り過ぎたあとにはその残滓が揺らめき、ある者はその美しさに、ある者はその原因に思いいたって、歩みをとめる。わがまま姫のご乱心だと知る者は、深くため息を吐く。
しかし今、アマーリアが身にまとっているのは、初夏に相応しい若葉色のドレスだけである。
魔力が流れ出していない、というよりはせき止められたように身の内をうごめいている。その感覚に、はじめて気がついた。
「なに、これ……」
「ヴァルターは若いが器が大きく、それに見合う力もある。特に結界については右に出る者はない。あれほどの器も、王族のほかにはそういないだろう。それはアマーリアの魔力を通さない結界、だそうだ」
「どういう、ことですか……?」
アマーリアが歳相応のしょんぼりした表情になったので、アルトゥールの頬が微かに揺れた。
久しぶりに娘の可愛らしいようすを見た国王は、苦笑しながらも厳しい表情を保った。
「ヴァルターを護衛にしたのは、表向きの話だ。アマーリア、ヴァルターから魔力の制御を学びなさい。この結界があれば、お前の魔力も抑えられる。大精霊殿の術士にもできなかったのに、とは思ったのだが任せてよかった」
「嫌です! わたくしを動けなくして笑ったのです。許せません!」
涙目で訴えるアマーリアは、それでも父王が彼女の希望に添ってくれると期待していた。
しかし、国王は愛娘の涙に惑わされて判断を誤ることはない。
「ならぬ、と言ったであろう。どうしてもヴァルターを解任したいのなら、自力で結界を解けるようになりなさい。ヴァルターはヴィッテンベルク公爵家の後嗣だ。それをわざわざ近衛に入れて、そなたの護衛とした。どういうことか、もうわかってもよい歳ではないかな? アマーリア」
アマーリアが追い出した精霊術士は、王都の大精霊殿に仕える国内でも指折りの術士であった。任を解かれた理由は、アマーリアが気に入らなかったからではない。術士には、彼女の魔力が抑えられなかったのだ。
精霊殿は精霊への祈りを捧げ、赤子の器を測り、死者の魂を『精霊の加護』に委ねる場所である。
民間にも器が大きく、相当の魔力を有する者が生まれることがまれにある。彼らは各地の精霊殿で修練を積み、認められれば精霊術士となる。
精霊術士は精霊殿において、魔力を用いて民を助け導く役割を担う。その中でも、大きな器を持つ有望な術士は、王都の大精霊殿へと集められる。
つまり、ヴァルターの実力は、修練を積んだ精霊術士よりも上である、ということだ。
ヴィッテンベルク公爵家は、アンティリア王国の南に豊かな所領をもつ歴史の古い家である。
アンティリア建国当時からの忠臣であるともいわれ、歴代国王の信任も厚い。幾度かの王女の降嫁は、その証左だ。
最も近い降嫁は二代前の国王の姉との婚姻であり、現当主はアルトゥールと再従兄弟の関係にある。
有力貴族家の嫡男であれば、家を継ぐための修養に専念することが多い。ましてや、公爵家である。将来、国政にかかわる可能性も、期待も大きい。
王女の護衛騎士になる必要も利点もない。
つまり、アマーリアのためにアルトゥールが、ヴィッテンベルク公爵家に特に依頼した人事であり、それは本来ならあり得ない。
慣例を破ってまで行われた、ゆえに撤回されることはない。
それでも、アマーリアはゆがめた唇を開いて叫んだ。
「嫌です!」
アルトゥールはその日はじめて、大きなため息を吐いて首を振った。




