15.公爵の苦渋
「若旦那様、雲が怪しくなってきました。今日のところはお邸へ戻られたほうがよろしいでしょう」
ヴィッテンベルク公爵領の中心を流れるイステル川は、王都の北から発して南の海へ注ぐ。王都へ集まる各地の品々は、イステルの流れに乗ってヴィッテンベルクに届き、近隣諸国への貿易船に積まれていく。
海を通して外国との交易も盛んな公爵領であるが、広大な領地には果樹や穀物の畑も多く、それらを潤すイステル川は重要な水源でもある。
新たに公爵となったヴァルター・クリスティアンは、領内の要所を視察し、これまでにあがっていた報告書に不備はないか確認を続けていた。
前公爵は所領の管理を家令に任せきりにしている、と思っていたが、報告書に目を通して必要な指示を与える程度の仕事はしていたらしい。
爵位を継いでから、今のところ大きな問題はない。
「そうだな、降られる前に引き上げるか。堤防は古い箇所から補強をしているのだったな。今、手を入れているところが終わったら一度見に来るから、連絡をくれ」
「承知しました」
預けていた手綱を受け取り、馬に身を預けると、ヴァルターは案内人に軽く手をあげて、帰路についた。
領内を巡るときにはひとりで行くことが多い。供を連れ歩くのは好まないし、なにかあったとしても対処できる実力はある。
急な継承のために、使用人たちも忙しくしている。ひとりで足りる要件に割く人手は、今の公爵家にはない。
その日は朝から領内の治水について確認してまわっていたが、予想外に天候が不安定になってきた。
少しばかり馬を急かして本邸へ帰る。
主人の姿を確認した門番が開けた扉を騎馬のままくぐり、厩舎まではゆっくりと進む。雨に濡れる前にどうにか間に合ったようだ。
「おかえなさいませ」
白髪の厩番は、ヴァルターが幼い頃からいる古株である。近衛に入ってから、ほとんど帰郷していなかったヴァルターが帰ってきたことを喜んでいた。
「少し走らせた。休ませてやってくれ」
「かしこまりました。坊ちゃんも少しはお休みくださいよ。いくらお若くても、働きすぎてはお体を壊します」
坊ちゃんがいたずら盛りだった頃からの古参の使用人たちは、未だに子どものように接してくる。その扱いを意外と心地よく感じている。
「敵わないな。まあ、そこまで忙しくしているわけではないが、今日はゆっくりするよ」
「そうなさいませ。もともと坊ちゃんが公爵様になるのはもっと先の話だったんですから、そんなに急いであれこれしなくても、大丈夫でしょうよ」
「そうかもしれないな。わかった、じゃあ頼むよ」
手綱を預けて、ヴァルターは本邸の玄関へ向かって歩き出す。中心街から離れた場所に設けられた本邸は、敷地が広いのは仕方がないが、個々の建物が離れすぎている。いずれ実用的に改築するべきだろう。
考えながら軽く腕を組んで歩いていると、左の二の腕のあたりに強い光が見えた。
二の腕が光っているのではない、胸元に発した光が腕を照らしている。光源に気がついて、上着に手を入れて取り出す。
引き出された鈍色の鎖の先にある逆三角形が、七色に縁取られた金の光を放っている。
あわてて蓋を開くと、目の前に虹の光があふれて渦を巻き、大きな繭をつくった。
繭の中に差し入れたヴァルターの腕に、とさっと落ちてきたのは、実際の重量とは異なる重みをもっている、この上なく貴重な存在。
「アマーリア様!」
金の虹が見えたのはほんの一瞬で、そのまま気を失ったアマーリアを抱き上げると、腕に力を込めて体温を確認する。
ぽつりぼつり、と落ちはじめた雨粒から守るように大事に抱えて、ヴァルターは邸へと急いだ。
「アルノー!」
「おかえりなさいませ、旦那様。……!」
「イレーネと、あとエリゼを呼んでくれ。貴賓室はすぐに使えるか?」
「はい、常に貴賓室は整っております」
家令のアルノーも古株である。トーク帽についた精霊石の意味を察して、すぐに動き出した。
ヴァルターは階段を上がって、貴賓室へアマーリアを運んだ。
抱えていたアマーリアをそっとソファに寝かせると、すぐに侍女のイレーネが入ってきた。
「旦那様、エリゼ殿のところへは迎えをやりましたが、雨が強くなってきましたので、少し時間がかかるかと」
「ああ、わかった。イレーネ、このお方の世話を頼む。この部屋には、お前とエリゼ以外の者は決して入れるな」
アルベルティーネの侍女を長く勤めていたイレーネも、突然現れた貴人についてなにも問わない。
「かしこまりました。お召替えをしてお休みいただきます。エリゼ殿がいらしたら、診察していただけばよろしいでしょうか?」
「ああ、おそらくは眠っておられるだけだと思うが、くれぐれも丁重に。私は王宮に連絡を入れてくる。もし、お目覚めになったらすぐに知らせてくれ」
「かしこまりました」
執務室へ向かいながら、どう動くべきかを考える。ヴィッテンベルク公爵家には、王宮へ直接連絡できる通信石があるが、アマーリアが転移してきた理由がわからない以上、正式な手段で連絡するのは避けたほうがいいだろう。
性急に扉を開け、奥の執務机に駆け寄る。引き出しに魔力を流して封を解く。取り出したいびつな四角形の黒い石に、濃く青い氷の魔力を注ぎ込んだ。
極上の青玉に変わった石は、さらに光を増す。中心から強い紅を帯びた虹が現れ、濃い青を散らしていく。虹の光が集まってゆっくりと像を結ぶと、光の色と同じ瞳を持つ少年の姿が浮かび上がった。
「ああ、ヴァルター。久しいね、ちょうど連絡するところだったよ」
「王太子殿下、いったいなにがあったのですか?」
ヴァルターの厳しい顔を見たフェルディナントも、眉間に深く皺を刻んでいる。
「姉上は無事だろうね?」
「はい、転移していらしてそのまま眠っておられます。今、当家の主治医を呼んでおりますが、私の見た限りでは、気を失っておられるだけかと」
「自力で転移したのは、はじめてだよね。姉上のことだから、必要以上の魔力をまき散らして、器が軽くなっているのではないかな」
「アマーリア様が転移しなければならない事態とは、どういうことですか!」
「そう言うな、私も怒っているんだ」
互いににらみあうが、怒りを向ける先は別にある。アマーリアの装いに、ヴァルターは心当たりがあった。
「今日はジビュレ王妃の忌日でしたね」
「私がつき添うと言っておいたのに、ひとりで出かけてしまった。王家の礼拝堂の前まで阿保を引き入れた馬鹿がいて、無礼をはたらいて姉上を怒らせた。護衛が排除しようとするのを阿呆が振り払って、姉上の腕をつかもうとしたところで、転移の魔法を発動したらしい」
フェルディナントはひと息に話すと、前髪をかきあげた。波を打つ金髪は、魔力の光の中では燃え上がるような紅に染まっている。
「こちらに連絡をくれて助かったよ。今のところは箝口令を敷いている。さすが、第三小隊は優秀だな。阿呆と馬鹿を捕らえて、最小限にしか知らせずに戻ってきたよ。隊員は皆、自ら謹慎している」
「王太子殿下の命にしたがわず、アマーリア様を危険な目に遭わせたのです。許されることではありません」
フェルディナントは少し眉をあげて、表情をゆるめた。
「厳しいな、ヴァルターがいなくなって問題続きの中、よくやってくれていたよ。阿呆が侯爵家の息子でなければ、ここまでのことにはならなかっただろう。阿呆が次男で馬鹿はその従弟らしい」
「侯爵家……」
高位貴族のすべてが、王家に忠実であるわけではない。高い身分にある者が皆、己の責務を自覚していることもない。
その権威を使って利を得るだけの俗物は、つねに存在する。
「姉上は、礼拝堂で体調を崩して寝込んでいることになっている。このところ王宮でも自室から出ていなかったから、不自然ではないしね。奴等の処分はまだ決まっていないが、父上は表沙汰にはしないようだし、私もそれには賛成だよ」
王女が暴漢に襲われた、しかも貴族に。アマーリアに過失がなくとも、話が広まればさまざまな憶測を呼ぶ事件である。
ヴァルターは、アマーリアが部屋から出られなかった理由にも思いいたったが、それには触れなかった。
「……では、アマーリア様が落ち着かれましたら、私が責任を持って王宮へお連れいたします」
ヴァルターは神妙に言った。フェルディナントはそれを見て、再び厳しい顔つきになる。
「姉上が転移の魔法を発動した、と聞いて転移先の見当はついていた」
「……以前、アマーリア様に精霊石を賜りました。それを頼りに転移なさったのでしょう」
「考える暇はなかったと思うよ。姉上はとっさに最も信頼する人物に助けを求めた。そしてヴァルターは姉上の精霊石をもっていた、それだけのことだろう?」
ヴァルターは口を引き結んで、続く言葉を探す。しかし、この歳下の主は弁を弄してごまかせる人ではない。
「王太子殿下」
「父上は、ヴァルターが姉上を連れてくるのなら、ことを公にすると仰っている」
ヴァルターは目を見開いて、フェルディナントに訴える。
「それではアマーリア様に傷がつきかねません」
「姉上が、ヴィッテンベルクへ転移したことを含めて、だよ」
「それは……」
フェルディナントは苦笑まじりに、最後の札を切った。
「まあ、多少時間はつくれたのだから、話をしてみたらどうかな。それでも無理なら姉上は私が迎えに行くから。知っているだろうけれど、ああ見えて父上は姉上にものすごく甘い。ヴァルターはそれを効果的に使えばいいと思うよ」
ヴァルターは苦渋の中に困惑を浮かべ、それでも王太子に正しく礼をとって会話を終えた。




