13.わがまま王女の憂鬱
多くの人びとの予想とは異なり、アマーリアが荒れることはなかった。
むしろ、これまでにないほど大人しくなり、周囲の者たちは別の心配を抱えることになった。
「……うえ、姉上!」
ぼんやりと窓の外をながめていたアマーリアは、苛立ちをあらわにする弟に顔を向けた。
「なあに、そんなに大きな声を出して。聞こえているわよ」
ソファの向かいに座って腕を組んだフェルディナントは、不機嫌を隠さない。十四歳になったフェルディナントの身長は、姉をこえ、その差は今後も広がるだろう。
「先ほどから、ずっと声をかけていたのですが?」
「そう? それでどうしたの?」
ヴァルターが王都を去ってから、ふた月ほど。アマーリアは自室にこもりがちになっている。
気持ちが塞いでいるから、というわけではない。内廷を出ると、彼女の視界に入ろうとする貴族たちが、次々と寄ってくるからだ。相手をする気がなくとも、以前よりも人数が増え、遠慮もなくなってきている。
公爵家の後嗣であったヴァルターには、実力でも爵位でも敵わなかった輩が、一般の護衛騎士に対しては身分を笠に着て、強く出るようになっていた。
近衛騎士団に所属し、実務を担う騎士には中流以下の貴族、それも次男、三男が多い。身分を主張されると、力で排除するのは難しい。なにより、王宮で荒事を起こすわけにはいかない。
新たな小隊長から内廷になるべく留まっていてほしい、との要望もあり、アマーリアは特段の要件がない限り、部屋を出ないようにしている。
大人しくしたがっているアマーリアが、いつ苛立ちを爆発させるかと緊張していたおつきの者たちも、生気なくぼんやりと過ごす主人を心配し始めていた。
用があると言ってやってきたフェルディナントは、様子を見に来たのだろう。
「ジビュレ王妃の墓所に詣でるのは、来月でしたね? 今年は私がついて行きます、と言ったのですよ」
「どうして?」
「姉上のことを勘違いした輩が、つけ上がっているからです。お出かけになるときは用心したほうがいいですよ」
アマーリアの正式名は、アマーリア・ジビュレ・ニーベルシュタインという。
アンティリアの王侯貴族は、ふたつの名前を持つ。ひとつ目は個人の名前であり、こちらが呼び名となる。ふたつ目の名前は、その家系に連なる人物の名を受け継ぐ。
これを祖名という。先祖にあやかり、家の一員としての証とされるが、多くの貴族は由緒ある家であると示すために、より古い時代の名をつける。中には実在していたのかどうかも怪しい、伝説の人物の名をつける家もある。
祖名は自らが名のるとき以外では、ほとんど使われない。親しい間柄で用いる場合はあるが、目上に対して祖名のみで呼びかけることは、非礼にあたる。
王族の祖名は、当然ながら過去の国王や王妃の名前である。したがって、王族に祖名で呼びかけることは、敬称をつけていたとしても不敬罪に問われる。臣下がそれを口にすることはできない。
アマーリアの祖名、“ジビュレ”は数代前の王妃の名からとられている。アマーリアと同じ色の髪と、金の瞳を持つ佳人であったという。
王族は、名をいただいた先祖の命日に墓を詣でる慣例があり、アマーリアも毎年ジビュレ王妃の命日には墓参りに赴いている。
「大丈夫よ。わたくしの護衛たちはとても優秀よ。ヴァルターがいなくなったからといって、貴方がついてくるなんて失礼でしょう」
ヴァルターの薫陶よろしく、第三小隊の騎士たちはアマーリアの身辺によく気を配っている。
ヴァルターがいずれ除隊する日を見据えて、準備をしていたこと、思っていた以上に騎士たちに慕われていたことを、アマーリアは彼が去った後に知った。
「姉上の安全のほうが優先ですよ。近衛の者は理解しています」
「だいたい貴方は、たくさん仕事を増やして楽しそうにしているのに、わたくしにつき合っている暇などないでしょう?」
知っているわよ、とアマーリア片方の眉だけをゆがめて弟を軽くにらんだ。
フェルディナントは、大げさに肩をすくめてみせた。
「どうとでもできます。姉上につき添うくらいの時間は作れますよ」
ジビュレ王妃の墓は、王都の大精霊殿の敷地内の王族専用の礼拝堂の中にあり、王宮からは北へ馬車で半日ほどかかる。朝から出かけても、一日がかりの予定になる。
転移の魔法を用いれば時間はかからないが、実際に祖先を詣でる姿を見せることに意義がある。アマーリアが転移の魔法を使えなくとも、公務としては問題はない。
しかし、不測の事態が起こったとき、彼女は自力で避難することができない。
「別に、わたくしにも身を守る手段はあるわ。心配しすぎよ。王宮へ出入りする貴族なら、もう所領に帰っているでしょうし」
「しかし、姉上の崇拝者どもは阿呆ばかりですからね。今年は王都に残っている輩が多い、とも聞いていますよ」
フェルディナントは呆れたように首をかしげたが、決してふざけた態度ではない。だからこそ、アマーリアはじりじりとした焦りのような感情を抑えられなくなる。
「いずれその阿呆たちの誰かと、結婚しなければならないお姉様を可哀想だとは思わないの?」
ため息を吐き、やりきれないといった様子のアマーリアも口調に反して深刻な表情だ。
「姉上は『わがまま王女』なのですから、そのまま『わがまま』を通してしまえばいいと思いますよ」
「本当に失礼ね。わたくしより、貴方のほうが余程好き勝手をしているのに」
「ですから、姉上も好きになさればよろしいのですよ。最近は大人しくしていらっしゃるから、返って皆心配していますよ」
「……だって、ヴァルターはもういないのだから……」
アマーリア殿下がなにか仕出かしたら、まずはヴェルフ伯にお知らせする。
それは、アマーリア付きに配属された使用人が、最初に教わる事項であった。
なにかあれば、ヴァルターがすぐに現れる。アマーリアの日常でもあった。
それはもう過去のことだ。
妙な緊張を帯びている側仕えたちの仕事を、これ以上増やすわけにはいかない。
「自覚はあったのですね。それなら、余計に『わがまま』を言えばよかったんですよ」
「言ったわよ。でもヴァルターは行ってしまったし、これ以上王宮に留めておけないこともわかっているわよ」
アマーリアの精一杯の『わがまま』は、彼女自身でさえ、通らないものだと知っていた。それでも、「許さない」と言わずにはいられなかった。
「ヴィッテンベルクへ連れて行け、と言えばよかったのですよ」
黄金の蛋白石が大きな円を描き、同時にアマーリアの耳が赤く染まった。
「馬鹿なことを言わないで!」
からかわれたと思って大きな声を出したが、フェルディナントはいたって真剣な眼差しであった。
「姉上がそう言っても驚かれないくらいには、『わがまま王女』は身勝手な姫君ということになっていますよ」
「そこまで見くびられているとは知らなかったわ」
だから阿保が減らないのね、とアマーリアは妙に納得した。『わがまま王女』を懐柔するのは難しくない、と思われているのだ。
「ご自分の評判は、もう少し気にかけたほうがいいと思いますよ。まあ、今まではヴァルターの結界があったのでしょうけれど」
アマーリアは唇をゆがめて、窓へと視線を動かす。外に見える空は夏の色だが、白い雲がゆっくりと流れて邪魔をする。
「まあ、父上は阿呆を婿にするおつもりはないでしょう。万が一そのような話が出てきたら、私も反対しますし」
フェルディナントは笑うが、本当にそうだろうか。アンティリア王国の王女を娶りたいと願う者は、国内の貴族だけではない。
噂の上辺だけが届いている他国からも、縁談がきていることは知っている。
アンティリアの王族は、婚姻によって外交を結ぶことはしていない。その必要がなかったからだが、他国には様々な思惑と理由がある。請われての縁組がなかったわけではない。
他国へ嫁ぐには明らかに不向きな性格のアマーリアに、父は政略結婚をすすめはしないだろう。
それでも、彼女が他国にとって、魅力的な妃がねであることは確かなのだ。
アンティリアが大陸の盟主の座にあるのは、虹の魔力の存在ゆえである。その圧倒的な力があればこそ、縁を結びたいと望まれる。
アマーリアは、アンティリア王国の王女として生まれた。その身分がなくなることはない。
「ねえ、貴方が国王になったあとも、わたくしが王宮に残っていたら、やはり迷惑かしら」
「迷惑ではありませんが、姉上が考えなくてはならないのは、もっと別のことだと思いますよ」
フェルディナントは小さく息を吐いて、アマーリアの視線の先を追う。
「どこか、適当な離宮に引きこもっても面倒よね?」
「それなら、王宮に残っているほうがましですね」
王宮を離れて暮らす未婚の王女など、厄介ごとの種にしかならない。目の届くところに置いておくほうがよい。それは一生飼い殺しになることを意味する。
「王女なんて本当に不自由」
「姉上がそのように考えていると知ったら、皆驚くでしょうね」
アマーリアは小さくうなずいて、ぎこちなく笑った。
「……わたくし、ヴァルターにありがとうも言ってないのよ」
「今からでも言えばいいでしょう」
「言うべきときを逃したのよ。もう遅いわ」
王命によって仕えていた護衛騎士に、礼を言う必要などない。それでも六年、決して短くない年月を傍にいてくれた彼に、労いの言葉ひとつかけられなかった。あまりに情がないのは、アマーリアのほうではなかったか。
「姉上がそのようにしおらしくなっている、と知れば心配して戻ってくるかもしれませんよ?」
アマーリアは、嫌味なほど美しい笑みを浮かべたフェルディナントの顔をにらみつける。
姉を怒らせたことに満足した王太子は、では失礼しますと足早に出て行った。
反論の言葉を呑み込んだアマーリアは、代わりに窓の外に流れる雲を見上げた。
「ご姉弟そろって、素直でないのはお変わりありませんね」
アマーリアの乳母でもあった侍女頭は、フェルディナントの幼い頃もよく知っている。
「わたくしはあれほど捻くれていないわよ」
女官に新しいお茶の用意を指示して、侍女はテーブルの上のカップを片づける。
「王太子殿下は、お姉様が大好きでいらっしゃいますからねえ」
「わたくしも、あんな風に見えているの?」
「さて、姫様は随分大人らしくなられましたから。でも、ヴェル……いえ、ヴィッテンベルク公とは、一度きちんとお話されたほうがよろしいかと思いますよ」
新しいお茶は、アマーリアの好きな柑橘の香りがした。ふんわりと鼻腔をくすぐるその香気は、目にも染みてくるようだ。
「もう、遅いわ……。ヴァルターが次に王宮へあがるときには、内廷に足を踏み入れることはないでしょうから」
そのときには、アマーリアの嫁ぎ先も決まっているかもしれない。
若き公爵の隣には、似合いの婚約者が連れ添っているかもしれない。できれば、それを見なくてもすむところにいたい。
「もう、会うこともないかもしれないわね……」
夏の終わりの空に、雲は積み重なっていく。厚く積み上がった雲は陽をさえぎり、今にも雨をこぼしそうになっていた。