7 『ちょっと休みたい』
宮崎から連絡が返ってこなくなったのは、あの大会の翌日からだった。
『ファンレター読みたいんだけど』
そんな僕のメッセージに対して、宮崎は二つの返答を寄こした。
『ごめん』
『ちょっと休みたい』
僕は『何があった?』『大丈夫?』とメッセージを送ったけれど、それ以降、何の返事もこない。電話にも出ることはない。
何かあったのだろうか。怖くなった僕は、豊根さんと、後輩の南に連絡をした。南は、少し前に相方に逃げられ、今はピンでフリップネタを中心に活動している。相方に逃げられた時には真っ先に僕に電話をしてきてくれた。中崎兄弟を応援してくれている数少ない後輩でもある。
俺も休もうかな。
そう思って窓の外に目を向ければ、外は昼間なのに暗い。当たり前か。地下鉄に乗っているのだから。
「大丈夫ですよ。きっと、そのうち帰ってきますよ」
僕の隣に座る南は、さっきからずっと、小声で僕のことを励ましている。
きっと、そのうち。
確証がないその言葉を信じることは、今の僕にはできないでいる。
絶対、いつまでに。
その言葉が欲しい。
「着きましたよ」
降りましょう、と言われて、僕はホームに降りた。この駅は、宮崎のバイト先の最寄り駅だ。何かの手がかりでも得られれば、と南に引きずられるようにしてここまで来ることになった。
──そのまま腐ってても、何も始まりませんよ。
別に、外出もせずに引きこもっているからって、腐っていたわけじゃない。もし、僕が外出中に宮崎が来たら、入れ違いになってしまう可能性がある。確率はすごく低いかもしれない。だけど、ない話ではない。だから、いつでも来ていいように、家で待っていたのだ。
連絡を絶った宮崎は、自宅にもいなかった。宮崎から最後となるメッセージが届いた翌日、僕はバイト終わりに宮崎の家に行ってみた。しかし中はしんとしていて、インターホンを押しても出てこなかった。迷ったが、合鍵を使って家に上がった。中は綺麗に整頓されていた。紙ごみもなければ、リモコンもしっかりと机の上の定位置に並べられていた。ただ、いつも使っている古い肩掛けバッグと、スマホや財布などの貴重品の類はなくなっていた。ただ、自転車は置きっぱなしになっていた。裏に回って確認して見ると、蜘蛛がいくつも巣を張っていて、僕はアパートの脇に落ちていた木の枝で巣を取り除いた。
それから、夜になるたびに僕は宮崎の家を確認しに行っている。中には入らない。外から見て、確認するだけ。でも、いつも真っ暗で、誰の気配もない。
今、どこにいるのだろう。
ぼんやりとしていると、「宮崎さん、着きましたよ」と南に声をかけられる。
顔を上げれば、大きな看板が目に入った。
『豊本古書店』
宮崎がバイトをしているはずの古本屋だった。あまり人手を必要とはしないが、店主が力仕事をしてくれる人を探していたから、そこで働いていると、宮崎が言っていたのを思い出す。店主はおじいちゃんと呼べるくらいに、年老いているとも言っていたのを覚えている。
南の後を追って、僕も店内に入る。通路は狭く、空間の半分くらいを古本が占拠している。事実、U字になっている店内の通路は、本棚と本棚に挟まれた状態になっていて、本棚は天井まで届いていた。その中にはぎっしりと古本が並んでいて、どれが高価なもので、どれが安価なものなのか、ぱっと見では分からなかった。
「すみません、電話した南なんですけど」
南は正面のレジカウンターに座っている白髪でひげをたっぷり蓄えた老人に声をかけた。彼が、店主なのだろう。確かに、おじいちゃんと呼べるが、古本に囲まれて座っている姿は、人間ではなく妖怪の類に見えた。
「電話? ……ああ、宮崎くんの」
どうぞ、と言って、老人はレジカウンターの後ろに通してくれた。入った時には気がつかなかったが、近づいてみると、奥に畳が敷いてある和室があることが分かった。タンスやテーブルはあるが、どこか生活感がない。ここに住んでいるわけではなさそうだった。
僕と南は、一段高くなっている和室に靴を脱いで上がる。その間に老人は座布団を三つ、向かい合う形に用意した。僕と南は、二つ並べられた方に座る。
「宮崎くんねえ、やめたよ」
開口一番に、老人はそう言った。
僕も南も、呆気に取られて何も言えなかった。
やめた。
「一週間くらい前だったかな」
老人が言った日付は、大会があった日の夜だった。
「電話で急に。『本当にすみません』って何度も謝ってたけど、ちょっと、元気なさそうだったな」
すごい真面目で、遅刻も欠勤もなかったんだけど。
老人の言葉など、もう入ってきていなかった。
やっぱり、あの夜に何かがあったのかもしれない。
大会に出たのは、間違っていたのだろうか。あの時、僕が無理に出ようと言わなければよかったのかもしれない。素直に宮崎の言う通りにしておけば。
「あの、他に、何か言ってませんでした?」
考え込む僕に代わって、南が聞いた。
「他に?」
老人はゆっくりと記憶を辿っているみたいだった。
時計の音が静かな空間に響いていた。どこか寂しく、空しささえも感じるような気がする。空っぽな空間に、秒針の刻む音だけが響く。一繋ぎの時間を、等間隔に分ける秒針の音。
「『旅に出る』、だったかな」
「旅に出る……?」
聞き返した僕に、ああ、確かそう言っていたような気がする、と老人は言った。
「旅って、どこに行くとか、聞いてませんか?」
「そりゃあ、言ってなかったような気がしたなあ」
「本当に言ってませんでした? なんでもいいんです、何か、手掛かりになるようなことが見つかれば──」
身を乗り出す僕を、南が制した。落ち着いてください、と僕の肩を掴む。
「すみません、宮崎さんは、彼の相方なんです。一緒に漫才をしてて」
その話を聞いた途端、君があの、と老人は驚いたように言った。
「よく覚えてるよ。宮崎くん、何度も君のことを褒めていたんだから。『俺が見つけた逸材』だとか、『俺にしかあいつの良さは分からないから、俺が輝かせてやるんだ』とか言っていたな」
何度も言っていたから覚えているよ。
ふっと、音が遠のいた。代わりに、その言葉が宮崎の声で再生される。
──俺が見つけた逸材。
──俺にしかあいつの良さは分からないから、俺が輝かせてやるんだ。
本棚に本を片付けながら、小さく笑う宮崎の姿が浮かんできた。軍手をして、時々、埃で咳をする姿も、ありありと想像することができる。
でも、本当に、そんなことを言っていたのだろうか。
そんな言葉を言われたことも、そう思っている素振りすらも見せたことはない。稽古中も、僕のテンポが悪いだとかネタを一つ飛ばしただとか、ダメ出しばっかり受けていた。褒められた経験もほとんどない。僕は漫才の才能なんてなくて、ただ、宮崎に言われたことをやるだけで精一杯の、ダメな奴だと思っていた。
中川さん、と呼びかけられて、我に返る。
「そろそろ、帰りましょうか」
ふと、入口の方を見ると、客が一人、扉を押して入ってくるところだった。
「お仕事中に、すみませんでした」
南が言って、立ち上がる。
僕もお礼を言って立ち上がると、君、と老人に呼び止められた。
「もし、宮崎くんに会ったら、言っておいてくれないかな」
また来ていいからって。
「……はい」
僕はなんとか返事をして、店を出た。
「やっぱり、宮崎さんは良い人ですね」
行きましょうか。
南に導かれるようにして、僕は駅へと向かった。