5 再び、宮崎の元へ
「じゃあな」
豊根さんは僕を宮崎のアパートの前まで連れて来ると、踵を返して帰って行った。行かないでください、と引き留めたかったけど、引き留めたら自分に負けると思って、ぐっとこぶしを握って堪えた。
僕は豊根さんの姿が見えなくなると、深呼吸をする。
大丈夫、大丈夫。どうにかなる。
震える指をどうにか持ち上げて、インターホンを押す。
僕の心とは正反対の軽い音が扉の向こうから聞こえてきた。部屋の扉でも開いているのかもしれない。
心臓が暴れ回って、手に負えない。焼け石に水だとは思いながらも、深呼吸を何度かしていると、スピーカーが付く音がした。
「中川──」
言い終わる前に、切れた。
やっぱり、怒っているのだろうか。
解散することになるのかもしれない。
肩を落として帰ろうと後ろを振り向いた時、ガチャリ、と音がした。
「中川?」
金縛りにでもあったかのように、動けなかった。
「何、どうしたの?」
宮崎の口調は、いたって普通だった。いや、だるそうには聞こえたが、その声の中に批難するような素振りは感じ取れなかった。
僕はゆっくりと振り返る。
そこには、扉から半身を覗かせた宮崎が、僕の方を見て不思議そうな顔をしていた。
「忘れ物?」
ぼうっと突っ立っている僕に、中入れば、と声をかけると、宮崎は中へと消えていった。
僕は真っ白になった頭のまま、導かれるように閉まりかけた扉を押さえた。中へ入ると、さっきと何も変わっていない景色が広がっていた。ただ、突き当たりの扉だけは開け放たれていて、涼しい風がここまで届いている。
僕は脱いだ靴を揃えると、乱れた宮崎の靴も揃えて部屋へと向かう。
「冷房、調節してくれてありがとう」
さっきよりは落ち着いてきたのか、口数が増えていた。居心地が悪くて入り口で立ち尽くしていると、宮崎は「そこ座って」と言って、宮崎が座っている卓袱台の向かい側を指さす。
僕は言われるがまま、鞄を隣に置いて座った。
宮崎は僕が買ってきた水を手に取って、ありがとう、と言った。
買ってきてくれてありがとう。
僕は小さく頭を下げることしかできなかった。
沈黙が舞い降りる。
僕から謝らなければいけないことは分かっていた。僕が一方的に、押し付けるように失礼なことを言った。それは分かっている。でも、どうにも口が動かない。接着剤でくっつけられたかのように、口元は強張ってしまっている。
そんな僕に対して、宮崎は涼しげな顔で水を一口飲んだ。そのまま綺麗な動作でペットボトルを卓袱台の上に戻すと、右手で掬い取るようにして鉛筆を持って、真っ白な紙の上に構える。その姿は、僕がこの家を出ていった時と同じ体勢だった。
今、喋り始めるべきなのは僕なのに、タイミングを逃してしまった気がして、どうしていいか分からなかった。もう一度、何かのきっかけがないか、と探している自分がいた。
ふいに、宮崎はトントンと鉛筆の先を小さく鳴らした。空いた左手で頭を掻いて、んん、と咳払いをする。
それを合図にするべきか迷って、やっぱりやめた。宮崎の集中を切らしてしまうかもしれないと思ったからだ。今の宮崎には、目の前の紙しか見えていないような気がする。僕がいることすらも忘れているのではないかと思うくらいに、僕を気にしている様子はない。視線は手元の紙から動かず、穴が開くのではないかと思うほどじーっと一点を見つめている。
僕は自分の手のひらを見つめた。じーっと、穴が開きそうなほど見つめていると、宮崎とは対照的な手だな、と思った。細く長い指を持つ宮崎。短く太い指を持つ僕。爪の形も正反対。綺麗な縦長の爪をしている宮崎と、見栄えの悪い横長の爪をしている僕。
なぜ、こんな僕たちは出会ったのだろうか。
「何か言いたいことあるんでしょ?」
驚いて顔を上げると、そこには僕を見つめる宮崎の顔があった。
「早く言って」
何もかも見透かすような目で見つめられる。
早く言葉にしなければと思いながらも、何から話せばいいかと頭の中はぐるぐると回る。
とっかかりとなる言葉を探している間、宮崎は僕から視線をそらさなかった。
「……ごめん」
やっと言えたのは、それだけだった。
宮崎は僕がそれ以上言わないことを察知したらしく、ふう、とため息をついた。
「それ、出ていく時にも言ってたよね」
「え、聞いてたの?」
「聞いてたよ、全部。漫才やめようってとこも」
申し訳ないではすまないような気がして、俯くことしかできなかった。。やっぱり、傷つけてしまっていたのだ。
宮崎はそんな僕を見て、「でも、俺も、ごめん」と言った。
「え……?」
驚いて顔を上げた僕に視線を戻すと、宮崎は言った。
「俺も、気分が晴れないからって、言い過ぎた。身勝手だった。大会に出るって言ったのは俺なのに。わがままだった」
宮崎は、ごめんなさい、と頭を下げた。僕も慌てて頭を下げる。
お互いが頭を下げ合っている状態でいると、不意に宮崎が顔を上げた気配を感じた。
「何これ」
その声に僕も頭を上げれば、宮崎は、商談みたい、と言って笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、僕もふっと心が軽くなった気がして、素直に笑いが零れた。
「あ、ちょっと待ってて」
そう言って宮崎は立ち上がると、廊下の方へと消えていく。冷蔵庫を開ける音が聞こえたなと思うと、すぐに宮崎は戻ってきた。その手には僕がアパートの脇の自動販売機で買ったお茶が握られている。はい、と渡されて困惑していると、「ここに置いといたらぬるくなると思って」と宮崎は言った。
その瞬間、僕は無性に愛おしくなって、卓袱台を回りこんで宮崎に抱きついた。
「ちょっと、何!?」
ふらりとよろけた宮崎を強く抱きしめながら、僕は肩口に顔を埋める。
ふと、豊根さんに、お前らは距離感が馬鹿だと言われたのを思い出した。半年くらい前の若手漫才ライブの時だった。出番を終えた僕らは暇を持て余していた。そんな時、飲み物を買ってくる、と楽屋を出ていった宮崎。しばらくして二つのペットボトルを手にして戻ってきたと思ったら、そのまま僕の膝の上に乗ってきた。しかも、向かい合うように。驚く僕に、はい、となんでもないような顔をしてお茶を渡してきた。そんな僕らを見て、豊根さんは、お前らは距離感が馬鹿だ、と言った。
距離感が馬鹿だと言われてもいい。
今は、こみあげてくる愛おしさの処理をしなければ爆発しそうだった。
「気持ち悪いんだけど」
宮崎は混乱しているらしく、行き場を失った両手が空中で変なポーズのままで止まっている。僕はそれすらも愛おしくなって、さらに力をこめる。
「痛い痛い痛い……」
突然、パンッ、と頭を叩かれた。叩かれた部分がじんじんと痛んで、僕は宮崎を解放して両手で頭を押さえた。
「マジ痛いんだけど。骨折れる」
睨まれても、僕にはなんのダメージもなかった。叩かれたことさえ、今は嬉しい。痛いことに変わりはないけど。
なんなの、と僕を睨みつけながら、宮崎は卓袱台の前に座った。そして、水を一口飲んで、小さく息を吐いて気分を入れ替える。ペットボトルを戻すと、首を回して、手首をほぐす。滑らかにそれぞれの動作を終えると、、宮崎は慣れた手つきで鉛筆を握り、白い紙に向き合った。
僕は自分の頭を撫でながらその向かい側に座って、改めて宮崎に聞いた。
「やっぱり、大会は出るってことでいいんだよな」
宮崎は、うん、と答えた。右手の鉛筆が動く気配は一向になかったけれど、それを心配だと思うことも、もうなくなっていた。
憂鬱の波さえ乗り越えてしまえば、宮崎はまた面白いものを作ってくれる。
そう、どこかで確信できたから。
僕はやるべきことを終え、急に退屈になってきた。肩の荷が下りた気がして、頬杖をつく。そのままじっと宮崎を見る。凍りついたように動かないでいるけど、その頭の中ではものすごいスピードで色々なことが駆け巡っているに違いない。いや、でも、何も書けないってことは、何も考えてないってことか? いや、駆け巡ってるけど、尻尾が掴めないだけかもしれない。
そんなことを考えながら眺めていると、「やりにくいんだけど」と言って、宮崎は僕のことを睨んだ。
「暇なんだもん」
「帰ればいいじゃん」
「やだ」
「なんで?」
「なんでも」
はあ、とため息をついて、宮崎は鉛筆を置いた。
「じゃあ、お使い行ってきて」
「お使い?」
宮崎は部屋のあちこちを指さすと、あれがない、これがない、と口頭で指示を出した。紅茶のスティック、今使ってる紙、ノート、鉛筆、シャンプーに歯磨き粉。
それに、と付け加えて、部屋の掃除も、と言った。
「それは無理」
「じゃあ帰って」
「やります」
僕は言われたことをスマホにメモすると、鞄を持って立ち上がった。
「あ、あと」
宮崎を見下ろすと、目が合った。
「お前の好きなもん、買ってきていいよ」
これはお詫び。
そう言って、宮崎は紙ごみの中から財布を取り出し、一万円を取ると、僕に差し出した。
「いや、いいって」
「いいの。お前がああ言ってくれて、ちょっとだけ、憂鬱の波から抜け出せたんだから」
現実に引き戻してくれたお礼。
僕はその一万円をそっと受け取ると、いってきます、と言って、部屋を後にした。