4 豊根さん
太陽の下を、自転車で走り回る。自宅に戻る気にはなれなかった。帰っても、じっとしていられなくなりそうで、僕は自転車を走らせ続ける。
一度言ってしまったら、なかったことにはできない。それが例え勢いに任せた発言だとしても。
あんなに小さな宮崎は初めて見た。小さく見えたのは、僕の発言のせいかもしれないと苦しくなる。
追い込んでしまったのか。
追い詰めてしまったのか。
どちらにせよ、僕が悪いことに変わりはなかった。
──じゃあさ、やめる? 漫才も。
──別に、漫才をやらないと死ぬわけじゃないし。
自分の言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
それと同時に、僕を誘った宮崎の顔も浮かんでくる。
──これなら、天下、獲れるから。
玄関でそう言った宮崎は、自分を照らす蛍光灯の薄暗さとは対照的に、見えない未来が明るいものであると確信しているかのように楽しそうだった。
今、あいつは楽しいと思えているのだろうか。明るい未来を想像しているのだろうか。
はあ、とため息をついて自転車を止めた。道の向こうではガタゴトと音をたてて電車が走っていった。
じわりと汗がにじむ。
小学生くらいの子どもが二人、自転車で競争をしている。
──一生、二人で漫才しような。
僕が幼ければ、こんなに苦しむこともなく、純粋にその誓いをたてることができたのだろうかと考えると、子ども相手に羨ましくなった。
大人になったら大変だぞ。
心の中でそう言って、ペダルに足を乗せる。
ふと、こちらに向かってくる人の中に、見知った顔が見えた。先輩漫才師の豊根さんだった。豊根さんは『くりいむそうだ』というコンビを、新津さんという相方と組んでいる。漫才の大会で時々行われる観客投票では、『次に売れそうなコンビ』一位を獲得するような実力を持っている。僕も宮崎も尊敬する先輩だ。
豊根さんはいつものように猫背で、ズボンのポケットに両手をつっこんでいる。足裏を擦るようにして歩く姿は少しすごみがあるが、優しい先輩だ。
僕は自転車から降りて豊根さんの元へと歩き出す。
話を聞いてほしい。
聞いてもらったところで解決するかは分からないが、自分一人で抱え込んでも何も解決しそうになかった。
豊根さんに向かって真っすぐに歩いていると、僕の存在に気付いたらしい。目を細めて僕の姿を確認すると、踵を返してUターンをした。
「ちょっと、豊根さん……!」
思わず呼び止めると、周りを歩いていた数人の歩行者が振り向いた。
「なんだよ、大声出すなよ」
豊根さんは面倒くさそうに足を止めた。眉間にしわが寄っていて、すごみが増している気がする。
「すみません。今、忙しいですか?」
「なんだ? キャッチか?」
「違いますよ。ちょっと、話したくて」
豊根さんは、どっかに寄ろう、と言った。
「こんな暑いところで話してたら溶ける」
「じゃあ、僕の家はどうですか?」
「お前んち狭いじゃん」
「じゃあ、駅前の焼肉でも行きます?」
「クソあちぃのに焼肉食う馬鹿いるか?」
「いるから店開いてるんじゃないですか」
「他がいい」
何を言っても文句を言う豊根さんは、僕の家で納得してくれた。
「狭かったら承知しねえからな」
「宮崎のところよりは広いです」
「あそこも大概狭いじゃねえか」
ぶつくさと文句を言いながらも、豊根さんは素直に僕の後をついて来る。僕の家までは十分と離れていない。大通りをしばらく進んで、一本路地裏へ入ればすぐだった。
「で、大会出んだろ?」
路地裏へ入ろうとした時、豊根さんが言った。
僕は言葉に詰まった。結局、大会は辞退することになるのだろうか。一方的に言って出てきてしまって、あれがコンビとしての決定なのかが、分からない。
「その話か」
僕の様子に気付いたのか、豊根さんは言った。
はい、と僕は答える。
「ふうん」
豊根さんは気のない返事を返す。
僕は自宅の鍵をポケットから取り出して、鍵を開ける。僕の家には、ほとんど人を上げることはない。人を上げるのが嫌いというわけではなく、ただ上げるような人がいないだけだった。宮崎と会う時も、ほとんど宮崎の家だった。
また、宮崎の家に行けるのだろうか。
気まずくて、行く気になるには相当の時間がかかるような気がした。
「きったね、掃除しろよ」
廊下は散らかり放題だった。ゴミに出そうとしていた雑誌が山積みになって壁際に寄せられている。
「掃除はしてますよ」
「どうせ物どかしてねえんだろ?」
えへへ、と笑って誤魔化すと、豊根さんはため息をついた。
そのまま部屋へ上がってもらうと、ローテーブルの前に案内した。部屋には熱がこもっていて、まずは窓を開けて換気をする。そのまま冷房を入れると、開けたままでいいのかよ、と豊根さんに言われた。
「初めは開けといて、効き始めたら閉めるといいらしいですよ。そうじゃないと、熱がこもっちゃうんで」
へえ、と気のない返事をして、豊根さんはあぐらをかいた。
「なあ、中川。マジで、片付けた方がいいぞ」
豊根さんはものすごく嫌そうな顔をしながら、近くに置いてあったTシャツを摘まんだ。床には他にも、日用品や雑貨などが散乱している。
「なんだこの服は。洗ってあんのか?」
「あ、そっちの山は洗ってあります」
「ってことは、こっちは洗ってないってことだな」
豊根さんは隅に出来上がっている山を指さして言った。
「お前、マジで、彼女でも作ってやってもらえよ。これじゃ、この部屋いつか埋まるぞ」
文句を垂れ流す豊根さんに適当に返事を返しながら、僕は小さなキッチンで麦茶をコップに注いだ。
「あ、そうだ」
宮崎にやってもらえよ。宮崎なら、綺麗好きだからすぐに片づけてくれんだろ。
僕は何も答えずにコップを差し出した。
「なんとなく分かった」
豊根さんはコップを受け取りながらそう言った。僕の態度から大体察したらしい。
「大会に出るかどうかで揉めたんだろ?」
「まあ、そんな感じです」
「なんで急に?」
「宮崎、最近、調子悪くて」
「調子悪いって、ネタ書けてないのか?」
「まあ、それも、あります」
「なんだよ、はっきり言えよ」
眉間にしわを寄せながら麦茶を飲む豊根さんに、宮崎が憂鬱の波にのまれていることを話した。今までも何度かあったこと、その波は急に来るからどうしようもないこと。
「それ、鬱じゃねえの? 躁鬱とかいうのがあったよな」
「僕もそうかと思って、病院勧めたんですけど……」
「行かなかったのか」
頷く僕に、いつならそうするだろうな、と豊根さんは言う。
「じゃあ、大会に出たくないって言ったのは宮崎か?」
「はい」
「なんでとか、理由は聞いたか?」
「『もうできない』『ダメ』『面白くない』って言ってました」
「できないって、何が?」
「そう思って僕も聞いたんですけど、『何もかも』って」
「そりゃ重症だな」
深いため息をついて、豊根さんは麦茶を飲んだ。部屋は涼しくなり始めていた。僕は立ち上がって窓を閉める。
「お前は、どう思ってるんだ?」
出たくないのか。
「僕は……」
そこまで答えて、僕ははっと気づいた。
僕は、宮崎について行くと決めている。宮崎が出るなら出るし、出たくないなら出ない。
なのに、なんで、僕は宮崎に腹を立てたのだろう。宮崎が出たくないなら出なければいい。でもあの時、僕は出ないと言った宮崎に対して腹を立てた。宮崎について行くと決めていたのに、僕はあの時、宮崎の決定に対して腹を立てた。
「どうなんだよ」
豊根さんは少しいらだったように言った。
僕は、本当は、どうしたいのか。
「……出たいです」
そう答えると、豊根さんは「それは言ったのか?」と言う。
僕は首を横に振った。
豊根さんはそんな僕を見て、またため息をついた。
「言わなきゃ分かんねえだろ? 相方だって言っても、テレパシーができるわけじゃねえんだから。言わなきゃ分かんねえんだよ、人間は」
豊根さんは、窓の鍵に手を掛けたまま棒立ちになっていた僕の尻を軽く叩いた。
「そんなところに突っ立ってないで座れよ」
そう言って、僕が座っていた場所を指す。
「それとも、今から宮崎のところにでも行くか?」
豊根さんの方を見ると、僕を見上げる格好になっていた。その目を見ていると、自然と背中を押されているような気分になる。
「……すみません、ちょっと用事を思い出しました」
「おうおう、なんだ、ドラマみたいなこと言いやがって」
面白そうに豊根さんは笑った。
僕は、すぐにでも宮崎のところに行こうと思ったが、会ってどうするかと考えてしり込みする。
何を言えばいいのだろう。
今までも軽い喧嘩はしたことがある。でも、その時は、明確な謝罪をした覚えはない。数日後には自然と次のネタの連絡が来て、喧嘩をしたという事実もうやむやになってしまっていた。
豊根さんは、ごちそうさま、と言って立ち上がった。コップは空になっていた。
「とりあえず行ってみろ。考えて分からなきゃ、行き当たりばったりだ。どうにかなるだろ」
はいはい、行きますよー、と言いながら、僕の背中を押して廊下へと出ていく。
「あ、すみません」
突然僕がそう言うと、豊根さんは立ち止まった。
「冷房、切らないと」
「……お前、流れってもんがあるだろ」
呆れたように豊根さんは言った。
僕は、すみません、ともう一度謝って、冷房を消しに部屋に戻った。
リモコンを操作してから、部屋を見回す。
改めて見ると、本当に物があふれているんだ、と驚いた。服や鍵を入れるように使っていた小さなかご、電気ケトル、雑誌。その他にも、机の上に置ききらなかったものが床に散りばめられていた。
これは本格的に掃除しなきゃダメだな。
僕は、怒られるだろうけど、宮崎に手伝ってもらおう、と決めて、豊根さんの待つ廊下へと向かった。