3 憂鬱の波
宮崎の部屋に呼び出されたのは、大会を二週間後に控えた夏の終わりのことだった。
ひび割れたインターホンを鳴らすと、すぐさま扉の鍵が開く音がした。そのまま扉が開くのを待つ。けれど、いつまで経っても開かない。
なんとなく、嫌な予感がした。
「お邪魔しまーす……」
僕は静かに扉を開けて中の様子をうかがった。短い廊下には、出されなかったゴミ袋が五つ、壁際に無造作に置かれている。奥の一つは袋の口が結ばれておらず、その周りを小さなハエが飛んでいるのが見えた。
片付けていないということは、体調でも悪いのだろうか。
僕は靴を脱ごうとして、ふと気付いた。
宮崎の靴が、乱れた状態で放置されている。片方の靴は九十度曲がり、もう片方は隅の方に追いやられている状態だ。普段、自分の靴だけではなく、僕の靴まで綺麗に揃えさせるのに、今日に限っては自分の靴すら乱れたままだ。
あの時期が来たのか。
僕はほぼ確信した。
自分の靴と宮崎の靴をきちんと揃えて上がり、足音を極力立てないようにそっと廊下を歩く。そして、突き当たりの扉を開く前に、開いたままのゴミ袋の口を縛った。
扉を開けると、凍えそうな冷気が流れ出してきた。
寒い。
冬が来たのかと思うくらいに、部屋の中は冷やされていた。思わずエアコンを見上げると、口をぽっかりと開けて冷気を吐き出していた。外との温度差で風邪をひきそうだ。
床には丸められた紙ごみが散乱していた。卓袱台の周辺には立派な山脈ができている。宮崎は、その山脈に囲まれるようにぽっかりと開いた卓袱台の前で、俯いたまま座っている。凍りついているのかと思うくらいに動かない。
「宮崎」
声をかけても反応は無かったが、一瞬、瞬きをしているのが見えて、生きていることだけは確認できた。
宮崎は多分、憂鬱の波にのみこまれている。何度か同じようなことはあった。その波は突然襲ってくるらしく、急に来るからいつ来るか分かんないんだよね、と言っていた。
──声をかけられても、自分に向けられてるような気がしないから、返事しないんだよ。ていうか、返事するの億劫だし。
ふと、一年くらい前に、僕にそう説明したのを思い出した。
宮崎の右手に握られた鉛筆はコピー用紙に押し付けられたまま、一ミリも動く気配を見せない。
病院を勧めたこともある。あまりにも心配になった僕は、病院に行って来い、とほぼ叱りつけるように言った。けれど、宮崎はへらへらと笑って、大丈夫だって、と受け流した。
僕はそれ以上強く言えなかった。へらへらと笑っていたその顔が、とても傷ついているように見えたから。
僕は離れたところでぽつんと佇む椅子に鞄をひっかけて、丸められた紙が散乱する床からリモコンを探し出す。温度を上げようか迷って、結局、停止の黄色いボタンを押した。ピッという機械音の後に、古びたエアコンはガガガガという今にも壊れそうな音をたてて口を閉じた。
僕は宮崎の後ろを通って窓を開ける。途端に蝉の声が雪崩のように室内に入ってきて、熱い風が室内に侵入した。
「いたの」
呪詛を吐き出したかのような重い声が聞こえて振り返ると、宮崎が僕を見上げていた。目には光がなく、憔悴しきっている。
「いたよ。鍵開けてくれたじゃん」
ああ、と空気が漏れたような声を出して、宮崎は視線を白い紙に戻した。
「コップ借りていい?」
その言葉には返事を返してくれなかった。
僕は廊下へと向かうと、頭上に備え付けられている棚の中から二つのコップを取り出した。麦茶でもあるかな、と冷蔵庫を開けたが、空っぽだった。
「飲み物買ってくる」
部屋の方に顔を覗かせて言ったけれど、石像のように動かない宮崎は何も答えなかった。
僕はそのまま踵を返すと、近くの自動販売機へと向かった。
外は全てを焼き尽くさんばかりに太陽がぎらぎらと光っていた。僕はアパートの脇に置かれている自動販売機で水とお茶を買って、宮崎の部屋へと戻る。
「どっちがいい?」
僕は宮崎に二つのペットボトルを差し出した。宮崎はかたつむりのような速度で視線を動かすと、水に手を掛けた。僕はお茶の方を持ったまま、鞄をひっかけた椅子に座る。
蓋を開けてお茶を飲む間、宮崎はじっと自分の手の中にあるペットボトルを見つめていた。
「飲まないの?」
宮崎はその声が合図になったのか、緩慢な動作で蓋に手を掛けた。
どうしてこうなってしまうのだろう。
はっきりと原因が分からないから、僕もどうしたらいいのか分からない。高校生の時にも少し沈み込むような時期はあった。何をしても楽しくないのだ、と言っていたのを覚えている。でも、これほどまでひどくなることは予想できなかった。
病院へ行こう。
そう言いたい。でも、怖くて言えない。
またあの目を見ることになるのは、怖い。
「宮崎」
蓋を開けたままじっと動かない宮崎にそっと声をかける。視線が僕に向けられるまでに、たっぷり三秒はかかった。
「飲まないの?」
宮崎はそれでやっと気付いたように、水を一口飲んだ。
「宮崎」
卓袱台の上にペットボトルを戻したのを確認してから、もう一度声をかける。
「呼び出したのって何?」
こういう状態の宮崎に呼び出される時は、なんでもない、とか、呼んだっけ、と言われることがほとんどだった。あとは、バイト先に休みの連絡を入れてほしい、とか、コバエがうるさい、とか。
「大会、やめる」
でも、漫才に関することは、初めてだった。
「やめるって?」
「出ない」
「なんで?」
その言葉に返事はなかった。宮崎は床に視線を落としたまま、微動だにしない。
大会に出て、少しでも漫才を見てほしい。
その意欲は、もう消え失せているように見えた。
「出ようよ。見てほしいんでしょ?」
僕はすがりつくように言った。事実、僕らに漫才の仕事なんてほとんどなくて、人に漫才を見てもらうことも一か月に一回あればいい方だった。
この大会を逃せば、この先、漫才を披露する予定はない。いつ仕事が入るかも分からない。
もしかしたら、一生漫才を披露することもないかもしれない。
膨らんでいく不安をさらに膨張させるように、出ない、と宮崎は言った。
「なんで」
返事はない。
「どうして」
返事はない。
石像と会話をしようとしても、返事が返ってくることはない。
僕の不安は、むくむくと心を支配していった。
解散することになったら、どうしよう。
どんどんと重くなる不安は、ある一点を超えた瞬間に、怒りへとすり替わった。
「なんでやめるの? 漫才見てほしいって言ったのは駿介じゃん」
思わず、下の名前で呼んでしまった。
すると、微かに口元が動いたような気がした。
「何?」
僕が聞き返すと、小さな蚊の鳴くような声で何かを呟いている。
僕は苛立ちながらも、宮崎の隣に腰を下ろす。
「もうできない」
もうできない、と、確かに宮崎は言った。
「何ができないんだよ」
「……何もかも」
曖昧な答えに、爆発しそうな苛立ちを抑えながら、「大丈夫だよ」と声をかける。
「面白いじゃん、『公園』。絶対ウケるって」
宮崎は僕の言葉に首を振った。
「ダメ」
「ダメじゃないよ」
「ダメ。面白くない」
宮崎はそう言って、卓袱台に腕を乗せると、その中に顔を埋めた。
僕はため息を抑えられなかった。
「じゃあさ、やめる? 漫才も」
宮崎は動かなかった。
「できないなら、離れた方がいいでしょ。別に、漫才をやらないと死ぬわけじゃないし」
やめよう。
僕は立ち上がって、鞄を手にした。肩にかけると、玄関へと歩き出す。
部屋を出る前に、振り返った。小さく、狭い部屋。散らばる紙ごみ。端に追いやられたデジタル時計。寂しげな椅子。
ふと、部屋の中心に座る宮崎の姿に視線を移した時、こんなに小さかったっけ、と思った。卓袱台に顔を伏せる姿は、薄く、小さく、頼りない。
こんな男と、漫才をしていたんだっけ。
今までの頼りになる背中は、そこにはなかった。別人のような宮崎の姿に、頭が混乱する。
「ごめん」
逃げるようにして、僕は部屋を後にした。