2 「一生、二人で漫才しような」
痺れとは違う痛みを脚に感じて目を覚ました。付けっぱなしの電気が眩しくて、一瞬、目が眩む。その間も足は蹴られ続けている。
「痛い」
腕で目を隠しながら、そう呻いた。けれど、痛みが治まることはない。
原因を特定しようと頭を起こすと、横から伸びた誰かの足が僕のことを蹴っているのが見えた。腹が立って蹴り返すと、痛い、と同じように呻く声が聞こえてきた。声の方を振り向くと、男の背中が見える。その黒い頭は見覚えがあった。僕の脚の上で寝ていた宮崎だ。確かに、脚の上で寝ていた頭はいつの間にか消えている。僕が寝た後に移動したらしい。
上半身を起こすと、卓袱台の上には台本が置きっぱなしになっていた。しかし、僕が置いた時よりも綺麗に揃えられている。宮崎が整えたのだろう。
時間を確認しようと、足を引っ込めてから端に追いやられたデジタル時計に目をやった。液晶は午前四時を知らせていて、僕は今日の予定を思い出す。バイトはない。他に予定もない。
「何時」
くぐもった声が聞こえてきて、宮崎が起きていることが分かった。
「四時」
僕がそう答えると、宮崎は、ううん、と唸りながら、僕の方に身体を向けた。目は閉じられていて、眉間にしわが寄っている。眩しいのだろうか。そう思ったが、電気を消しに立ち上がるのも面倒くさくて、僕はまた後ろに倒れた。
目元を腕で覆って、光を遮る。何の予定もないなら、もう一度寝よう。そう決めた時、隣でもぞもぞと宮崎が起き上がる気配を感じた。
「起きてる?」
僕は「寝てる」と返して、宮崎に背中を向ける。起きてると答えたら面倒くさいことに巻き込まれそうな気がした。
宮崎は声を出しながらあくびをして、さらに伸びをした。
「なあ、出かけねえ?」
「四時」
抗議の言葉を無視して、宮崎は立ち上がった。薄っすらと目を開けると、クローゼットを開けて、服を探している後ろ姿が見えた。
僕は出かける気になるはずもなく、もう一度寝返りを打つ。
がさごそと服を漁る音がしばらく続いていた。しかし、それが途絶えると、その場で着替え始めたらしく、今度は衣擦れの音が聞こえてきた。
僕は徹底的に無視しようと腕を組んで目を閉じた。すると、先行ってる、と部屋を出ていく音が聞こえた。
行くもんか。
うずくまるように身体を丸めて寝ようとした。けれど、宮崎がずっと外で待っている気がして、居心地が悪い。
うんうんと唸りながら、行くか行かないか迷った結果、僕は諦めて身体を起こした。はあ、とため息をついて立ち上がると、立ち上がって壁の電気スイッチを押す。暗くなった部屋を後にして、廊下を抜ける。
扉を開けると、すでに自転車を表に回した宮崎が待っていた。
「お前の鍵掛かってたから裏に置きっぱなしにしといた」
持って来い、と言われるがまま裏に回って、鍵を外す。一晩置いておいただけなのに、サドルとフレームの間に蜘蛛の巣が張られていた。主の姿は見えない。僕は落ちていた木の枝で適当に蜘蛛の巣を絡め取ると、木の枝を捨てた。そのまま自転車をバックさせて、表へと持っていく。
自転車に跨った格好で待っていた宮崎は、遅い、と文句を言った。僕は適当に謝りながら、自転車に跨る。
「出発進行ー!」
宮崎は右手の人差し指で空を指さす。細い指が示す先にはまだ暗い夜空が広がっている。黒い画用紙に画鋲で穴を開けたかのように、明るい星がちらほらと見える。街灯がなければ、もっと小さな星も見えるのかもしれない。
宮崎は右手をハンドルに戻すと、ペダルを軽く踏んで自転車を漕ぎだした。僕もペダルに足を乗せてその後を追う。
まだ誰もいない街を、僕と宮崎は走る。商店街はどこも閉まっていて、コンビニだけが取り残されたように営業を続けていた。
自転車は線路沿いを、駅とは反対方向へ進んで行く。
どこへ向かうのか、目的地も聞いていない。けれど、きっと、宮崎にも目的地なんてないのだろう。束の間の開放感を味わいたいだけなのだ。
僕は先を行く宮崎に、遅れないように自転車を漕ぐ。頼りなげなライト、早朝なのにすでに今日の猛暑を予感させるような空気、目の前を行く宮崎。
きっと、帰ってきたら、宮崎はまた新しい台本作りに向き合う。一切妥協を許さず、自分を追い込み、何度も書き、何度も捨て、納得のいくまで全力でしがみつく。そうしてまた、僕を呼び出して、得意げに台本を見せる。
どうして苦しんでまで台本を書き続けるんだろう。
直接聞いてみたい気もするが、聞いたら、困ったような顔でこう答える気がする。
俺が選んだ道だから。
責任感が強くて、なんでも背負い込もうとする相方は、きっと、自分が選んだ道だから責任を持たなくては、と考えているのだと思う。逃げることもできるだろうが、そういうことは卑怯だと思う男だ。自ら逃げ道を塞いで、とことん自分を追い込む。
もっと楽に生きればいいのに。
「なあ」
僕が大声を出すと、うるさい、何、と大声で返ってくる。
「どうして、漫才師になろうと思った?」
すると、前を走っていた宮崎の足が止まり、自転車はゆっくり停止した。何かあったのかと思って僕は急いで横に自転車をつけた。
「お前となら、天下獲れると思って」
宮崎が口を開いた。それが質問に対する回答だと気付くまでに、少し時間がかかった。
質問とずれてるだろ
そう言おうとしたけど、ゆっくりと向けられた目は真剣そのもので、真っすぐに見つめられた僕の方がたじろいでしまった。
宮崎は僕のそんな様子に気がついていないのか、言いたいことは言いました、というようにすっと目線を外すと、また自転車を漕ぎだした。慌てて僕もペダルを踏みこむ。
自転車はすいすいと進む。夜空には薄っすらと朝の気配が漂い始めている。僕らは電車の通らない線路の隣を、都会から逃げるようにひたすらに走っていく。
やっぱり、僕には宮崎の考えていることが分からない。お前となら、天下獲れると思って。その言葉の真意が読み取れない。それでも、分かりたいと思う。どうして漫才師になろうと思ったのか、どうして、僕を選んだのか。知りたいし、理解したい。
「スピード上げるぞ」
考え事をしていた僕がその言葉を理解した時には、すでに距離を離されていた。
僕はまた慌ててその後を追う。
振り回されてばかりだな、と今更ながら気がついた。上京したのも、漫才師になったのも、こうして自転車を走らせてるのも、全部宮崎に誘われたから。
そんな人生でもいいかな。楽しいし。
僕は一人で小さく笑う。楽しい。やっぱり、それが一番大切なこと。
「おりゃあああ!」
僕はスピードをさらに上げて、宮崎を抜かした。
「え?」
間抜けな声が一瞬聞こえてきたけど、それもすぐに後ろの方へと消えていった。
何にも邪魔されない朝の爆走自転車大会。警察がいたら一発でアウトだろうなと思った。けれど、そんな不安はとても些細なことで、気にする必要もなかった。
「お先」
声が聞こえたと同時に、宮崎が僕を抜いていった。
「おい、待て!」
僕は疲れ始めた足に鞭を打ってスピードを上げる。
二つの自転車が並走して、抜きつ抜かれつしている。
「抜けるもんなら抜いてみろ」
「遠慮なく抜かせてもらう」
「嘘、マジかよ……!」
そんな中身のない会話をしながら。
「おい、見てみろよ」
ふと、宮崎が右手の人差し指を空に向けた。僕は、なんだよ、と言いながらその指の先を辿った。
「朝焼け」
暗かった夜空が、明るくなり始めていた。夕焼けより優しい空の色、朝を伝えに来た天使の羽のような薄い雲。
建物は黒い塊となって、切り絵のように動きを止めている。街全体が作り物のような気がした。ミニチュア模型の中に、迷い込んだ気分。
「すげえな……」
宮崎が放心したように呟いた。
いつの間にかペダルを漕ぐ足は二人とも止まっていて、自転車はゆっくりと速度を緩めて停車した。
「なあ」
宮崎が朝焼けから目を離さずに言った。
「一生、二人で漫才しような」
まるで永遠の愛を誓うような口調だった。
何そんなにロマンチックになってんの。
そう言おうとしたけど、口は素直に「うん」と答えていた。
朝焼けを、並んで見つめる二人。
「恥ずかし」
ぶっと吹き出して、宮崎は笑った。僕も、やば、と吹き出した。
帰ろう。
宮崎は自転車をUターンさせた。僕もそのあとに続く。
帰りはゆっくりとペダルを漕いだ。少しずつ人の姿も見え始めて、街全体が動き始めた気がした。商店街も、徐々に人通りが増え始めている。シャッターが少しだけ開けられている店もちらほらと見えてきた。
僕らは駅前まで来ると、それぞれの家へ向かうために別れた。
「じゃ、またなんかあったら連絡する」
宮崎はそう言うと、さっさと帰路につく。
僕は少しの間、人混みの中に身を委ねてから、ゆっくりと自転車を漕ぎだした。