2.我が家(マイホーム)
メロスはその夜、一睡もせず40キロの路を急ぎに急いで、家へ到着したのは、翌日の午前、陽は既に高く昇って、暇人たちは会社に出て仕事をはじめていた。
ハエや虫が、きょうもメロスの代りに留守番をしていた。よろめいて歩いて来るメロスの、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさくメロスに羽音を浴びせた。
「五月蝿い」メロスは無理に笑おうと努めた。「会社に用事を残して来た。またすぐ会社に行かなければならぬ。あす、おまえらの葬式を挙げる。早いほうがよかろう。」
ハエたちの顔があおざめた。
「くやしいか。新品の殺虫剤も買って来た。さあ、これから行って、仲間たちに知らせて来い。葬式は、あすだと。」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、部屋へ入って初めて布団を敷き、祝宴の用意を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、葬儀屋を訪れた。そうして、少し事情があるから、葬式を明日にしてくれ、と頼んだ。葬儀屋は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、殺虫剤入荷の季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。葬儀屋も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか葬儀屋をなだめ、すかして、説き伏せた。
葬式は、真昼に行われた。葬儀屋の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた虫たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺こらえ、とびまわり、音を立てた。メロスも、満面に喜色を湛たたえ、しばらくは、上司とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、虫たちは、外の豪雨さえ全く気にかからなかった。メロスは、はやくおわってほしい、と思った。この汚い虫たちと生涯暮らすなんてむりだと願ったが、いまは、自分の家で、会社よりましだと思った。まだいいほうで快適である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。
今宵呆然、疲弊しに疲れているらしい葬儀屋に近寄り、
「ありがとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに会社に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには仕事があるのだから、決して寂しい事は無い。私の一ばんきらいなものは、減給と、それから、さぼる事だ。おまえも、それは、知っているね。私との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。私は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
葬儀屋は、変な夢でも見ているのかと思いつつでうなずいた。メロスは、それから虫の1匹をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、住んでいるのは、ハエとカビだけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの家に来れたことを誇ってくれ。」
業者はこぶしを鳴らして、メロスを殴るタイミングを見ていた。メロスは笑って虫の亡骸たちにも会釈えしゃくして、宴席から立ち去り、布団にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの上司に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってタダ働きしてやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、減給される。減給される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。上司の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は減給される。若い時から給料を守れ。さらば、心のふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。家を出て、町を横切り、高架をくぐり抜け、隣町に着いた頃には、雨も止やみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額ひたいの汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや我が家への未練は無い。虫たちは、きっと佳い肥料になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに会社に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて8キロ行き12キロ行き、そろそろ全道程の半ばに到達した頃、降って湧わいた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の社長を。きのうの豪雨とともに社長の堪忍袋は氾濫し、怒りは濁流滔々とメロスに集り、猛勢一挙に理性を破壊し、どうどうと響きをあげる雄たけびが、木葉微塵こっぱみじんに昇給を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、固定電話は残らず怒りにさらわれて影なく、お守りさんの姿も見えない。怒りはいよいよ、ふくれ上り、マグマのようになっている。メロスは道端にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮しずめたまえ、荒れ狂う社長を! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、会社に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために破壊ぬのです。」
社長は、メロスの叫びをせせら笑い、社畜のくせに社外に出やがってとますます激しく躍り狂う。怒りは怒りを呑み、捲き、メロス煽り、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。やり過ごすより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと人の流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う群衆を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻かきわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍れんびんを垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。
ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊のゲーマーが躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに会社へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私には給料の他には何も無い。その、給料も、これから会社にくれてやるのだ。お前らこそ、そこに給料はあるんか?」
「その、給料が欲しいのだ。」
「さては、ソシャゲのやりすぎで、金を使い果たしたいたのだな。」
ゲーマーたちは、ものも言わず一斉に給料を盗みだした。メロスは仕返しにと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙すきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石さすがに疲弊し、折から午後の灼熱しゃくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。給料がなくなったのだ。