1.社畜の夢
メロスは激務した。必ず、かの邪智暴虐の仕事を除かなければならぬと決意した。メロスにはホワイト企業がわからぬ。メロスは、ブラック企業の社畜である。残業し、エナドリを飲んで暮して来た。けれども休日に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは自分の部署を出発し、階段を超え、建物を超え、十コーナーはなれた会社の本館に2年ぶりにやって来た。
メロスには、定時も、残業代も無い。休みも無い。四十六の、うるさい部長と二人暮らしのようなものだ。この部長は、親会社の或る律気な平社員を、近々、部下として迎える事になっていた。歓迎会も間近かなのである。メロスは、それゆえ、異動に係る資料やら祝宴の帳簿やらを作りに、わざわざ10連勤してやったのだ。先ず、そのデータをもらい集め、それから会社の各部署をせっせと廻った。メロスにとって友と呼べるのはスマホだ。セリヌンティウスである(筆者注※スマホに名前を付けるのは会社での耐え難いストレスによる孤独のためだ。中二病ではない)。今は此のブラック企業で、彼の部長に(2年前から)永遠に借りられている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、返してもらい、ソリティアをするのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、ある部署の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう連勤のせいで、皆の暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、連勤のせいばかりでは無く、部署全体が、やけに寂しい。社畜のメロスも、だんだん不安になって来た。サボっていた若い社員をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の部署に来たときは、夜でも皆がいつも通り仕事をして、タイピング音で賑やかであった筈はずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いてベテランっぽい社員に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。ベテランっぽい社員は答えなかった。メロスは両手でベテランっぽい社員のからだをゆすぶって質問を重ねた。ベテランっぽい社員は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「上司様は、社員を減給します。」
「なぜ減給すのだ。」
「退職届を持っている、というのですが、誰もそんな、退職届を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を減給処分にしたのか。」
「はい、はじめは上司様の秘書さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、課長さまを。それから、課長様の御子さまを。それから、奥様を。それから、賢人のアキレタ様を。」
「おどろいた(一家そろってこの会社か)。その上司は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、部下の心をも、お疑いになり、少し地味な仕事をしている者には、スマホ1台ずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めばスマホを没収されて、減給されます。きょうは、六人減給されました。」
聞いて、メロスは激怒した。「呆れた上司だ。生かして置けぬ。」
メロスは、単純な男であった。データの入った大事なUSBを、手に持ったたままで、のそのそ上司の部屋にはいって行った。たちまち彼は、秘書に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは2台目のスマホが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、上司の前に引き出された。
「このスマホで何をするつもりであったか。言え!」上司ディオニスは静かに、けれども威厳を以もって問いつめた。その上司の顔は蒼白そうはくで、眉間みけんの皺しわは、刻み込まれたように深かった。
「部署を上司の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」上司は、憫笑びんしょうした。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの安月給がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人より高い月給でそれを言うのは、最も恥ずべき悪徳だ。上司は、部下の所得税納税額をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の言う給料は、あてにならない。人間は、もともと詐称のかたまりさ。信じては、ならぬ。」上司は落着いて呟つぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、昇給を望んでいるのだが。」
「なんの為の昇給だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を減給して、何が昇給だ。」
「だまれ、別部署の者。」上司は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の給料袋の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、減給刑になってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ。」
「ああ、上司は悧巧だ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと減給される覚悟で居るのに。給料乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、減給刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一つの我が家で、一度は寝てみたいのです。三日のうちに、私は我が家で一睡をし、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄しわがれた声で低く笑った。「とんでもない嘘うそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。我が家が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この会社にセリヌンティウスというスマホがあります。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を破壊して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている(もう1台スマホ持ってたもんね)。この嘘つきに騙だまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りのスマホを、三日目に破壊してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りのスマホを減給刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと破壊すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。給料が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
上辺だけの友、セリヌンティウスは、深夜、上司の王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友(の対話AIソフト)に一切の事情を語った。セリヌンティウスは機械音声ではいと答え、メロスに別れを告げた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、※縄打させられた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
※サビ残とはサービス残業のこと
最後まで読んで下さりありがとうございました!
余談ですが、原作「走れ、メロス」は中学校2年の教科書に掲載されているそうですよ。
学生たちはどんな空想を膨らませているのでしょうね。
次のお話もお楽しみに!