ネットのトリセツ
先日散歩をしていたら、数メートルほど先の街路樹の枝に、飛んできた小鳥が止まるのが見えた。大きさが似ていたので、スズメかと思い近づきながら見てみると、背中に白い斑点があるきれいな鳥だった。もっとよく見たいと歩を進めると、すぐに飛んで行ってしまった。何十年か生きてきて、様々な鳥を見てきたつもりだったが、その姿に見覚えはなかった。或いは、子どもの頃に見たことがあったかも知れないが、記憶には残っていない。
あまりにきれいだったので、名前を知りたくなった。そこで、家に帰ってから、ネットで調べてみた。特徴的な斑点を頼りに探していくと、すぐに名前が分かった。「ジョウビタキ」というらしく、名前だけは聞いたことがあった。特徴としては「胸から下の柿色が美しく、特に雄は黒い顔に銀色の頭、黒い翼には大きな白斑が映え、とても日本的な美を感じる姿」とあった。私が見たのは雄だったようだ。それほど珍しくもないらしいのに、何故今まで気が付かなかったのだろう。
このように、今では知りたいことの多くを、即座に知ることができる。ネットのない時代だったら、鳥の名前を知るには、図鑑か百科事典のページでもめくっていただろうか。そうだとしても、図鑑や百科事典を、備えておかなければならない。それに印刷されたものの場合、求める内容によっては情報が古く、意味をなさないこともある。
今日ではほぼあらゆる分野で、インターネットがもたらした便利さは、計り知れないものになっている。前述のように日常生活においても、知りたい事をすぐに知ることができる。専門的な知識を得るには向いていないが、広く浅い情報ならすぐに間に合うし、パソコンを開かなくても、スマホに話しかけるだけで解ける疑問もある。また、今後はさらなる新しい展開が、待っているのだろう。
そんな便利なものだけど、一方でネットがもたらす弊害も大きい。不特定多数の見知らぬ人々による誹謗中傷が原因で、人が命を絶つなどということは、その最たることだろう。また、卑近な例では、昨今世間を騒がせている有名人の不倫にしても、ネットやSNSがなければ、起こる筈もなかったに違いない。まあ、便利になったからといって、悪い事に利用するのはどうかと思うし、自業自得だとも言えるが。さらに有名人に限らず、一般人の間でも、ネットやSNSによる弊害が、人間関係をややこしくしている。その結果、普通に生活していれば、知り合う筈のない人間同志が知り合い、揉め事や悲惨な事件まで起きている。
調べ物をする以外に、私が利用しているのは、主にネットニュース、それから動物の赤ちゃんや、料理の方法をみる為の動画サイトぐらいだ。ネットニュースは、日常のちょっとした時間に、ちょこちょこ読むと、良い暇つぶしになる。頻繁に読んでいると、興味の傾向から推測して、関連したニュースを、スマホが知らせてもくる。
新聞も購読していて、こちらはまとまった時間が出来た時に読むことにしているが、同じようにニュースを伝える媒体ではあっても、私の中で新聞はネットニュースとは、一線を画した存在になっている。新聞が正統だとすると、ネットの方は暇つぶしの要素が強く、ついでに新しい出来事を知る、という程度の存在でしかない。ネットニュースに対しては、週刊誌のゴシップ記事と、同じくらいの信用度に過ぎないかも知れない。否、週刊誌は一度世の中に出ると、回収などは余程のことがない限りされないだろうが、ネットの記事は、突然削除されることもあるので、それ以下と言っても良いだろう。
それに、ネットに載る記事は玉石混交で、きちんと書かれたものもあれば、読むに値しない記事も多い。酷いものになると、タイトルと本文の内容が、そもそも一致していなかったり、誤字脱字があったり、言葉の意味を間違って使っていたりする。文章構成も滅茶苦茶で、読みにくい事この上ない。文章の不備は、内容の信憑性を損なう。そうなると、読み終えてから、無駄なことに時間を費やしてしまったと、後悔だけが残る。それも、そんなに珍しいことではなく、かなり頻繁に。ネットニュースも、所謂記者という職業の人が書いているのだろうか?と、度々疑問に思う。
ニュースには、読者が感想や意見を書き込めるようになっているサイトもある。私も興味のあるニュースについては、そのコメントを読むこともある。ほんの一部分だけだが。アカウントを作って、わざわざ書き込むほどの情熱はないが、自分の意見が世間の人々と同じなのか、どこが違うのかなどと考えてのことだ。これまで読んだ感想としては、巷の人々と、それほど大きな違いはないと感じている。それでも、時には自分では考えつかないような、意外なコメントを見つけることもあり、世の中には様々な考え方があるのだと、改めて気づかされる。そして、あまりにも道徳や倫理に反する意見を見つけると、正義感に駆られて、反意のボタンというのか、あれをたまに押すこともある。
「玉」ではない「石」の記事に対しては、読者のツッコミも容赦ない。不備な点を、どちらが書くことを職業にしている人か、わからないほど適切に指摘している。そんな読者の行動で理解できないのが、著名人の訃報記事につけられた「ご冥福をお祈りします。」というコメントに対して、反意のボタンを押している人が居ることだ。亡くなった人に対して、どこの誰かわからない他人が、弔意を示すことをさえ、快く思わない人がいるなんて。一体どんな恨みがあるというのだろう。それとも、何も考えないで押しているのか。それにしても、ひととおり記事を読み、次にコメントを読み、その上で反意のボタンを押すという、それだけの労力を消費する意味が解らない。
ネット上には、有名人から一般の人まで、多くの人がブログを公開している。ブロガーとして有名な人ならともかく、普通の一般人の書くブログの読者は、それほど多くないので問題になることはあまりないようだが、有名人はブログに限らず、様々なSNS上で度々炎上という事態を招いている。書いた人が意図していないのに、たまたまネットニュースに取り上げられた事が、炎上の原因になることも多いようだ。普段はその有名人の、ファンなどが読むだけの内容が、ニュースとして大々的に表に出されたために、ファン以外の人の目にも触れ、さまざまな立場の人から見れば、おいそれと受け入れられない内容だったというのが、本当のところなのだろうか。書いている有名人の中には、読者を増やすために、嘘か本当か分からないが、わざと炎上を狙っている人もいるという。そこまで行けば、もう恐いものなどないだろう。ところが、炎上騒ぎで収まっている場合はまだ良いのだが、誹謗中傷にまでエスカレートすると大変そうだ。
個人的には、官公庁や企業のホームページ等はともかく、インターネット上に個人が書いている文章の内、本当に信用できるのは4割程度か、それ以下ではないかと考えている。後の6割かそれ以上は疑わしい。間違ってはいないまでも、誰もが全面的に信用するには値しないような気がする。ニュースでさえも、まともに書かれていないものもあるという事実からも、想像できるのではないだろうか。
トイレの落書きに例えられるように、特に匿名で書き込まれる内容には、事実よりもその人の主観の占める割合が大きい。主観が飛躍したものが誹謗中傷となり、そこにはもう事実の欠片もない。
誹謗中傷と言われるような意見も、それを書かずにはいられないほどの、主張や抗議なり怒りの気持ちで書く人もいれば、ただ面白がって書き込む人もいるだろうし、中にはたまたま足元に転がっている石ころを蹴とばすように、書いてみるという人もいるのではないだろうか。そう考えれば、そのような意見は、最初からまともに取り合う価値はないと思う。エゴサーチをして、ショックを受ける有名人が時々話題になるが、第三者からすると、匿名で主観を吐露しているだけのコメントなんて、全く意味がない。気にする必要もないのだから、読まないに越したことはない。
それなのに、テレビなどでの言動が、あまりにも目に余り、世間で顰蹙を買っているのに、少しも反省する様子を見せない人が居たりすると、たまにはエゴサーチでもしてみれば良いのに、と思わないこともない。この考えはどうなのだろう?。我ながら矛盾しているとは思うのだが、正義感に根差した腹いせとでも言おうか。
匿名のサイトばかりでなく、何かの知識を得ようとする時にも、検索して出てきた内容を、無条件に信用することはあまりない。一応疑ってみる。それなら、ネットなど利用しなければと言われるかも知れないが、信用しすぎることなくうまく利用すれば、とても便利なものには違いない。
最近は婚活用のアプリなるものもあるようで、それを利用して結婚にまで至ったという話も聞く。限られた一部のサイトだけしか見ることがなく、しかも内容の半分を疑っている私などには、にわかには信じがたいことだ。
ネットは便利なものだが、それが原因で事件が起きたり、亡くなる人が出ることは、防がなくてはならない。規制や法整備などの話も、少しずつ聞こえてくるようになってきているようだが、利用する側も必要以上にそこに入り込むことなく、上手に活用できたらと思う。