潮風
シリーズ第二弾になります。始めての方は第一弾『カレーライス』から読んで下さい。「海辺の街シリーズ」で検索頂けると出てきます。
ある時から海はずっと僕の憧れだった。広くて深くて穏やかで、海のような人間がいたとしたら、きっとその人も僕の永遠の憧れだろう。
坂ばかりのこの街は、本当にどこからでも海が見える。僕が愛用するポストがある場所は開けていて、時々ここで人が休んでいる姿を見ることができる。最も、今日は平日なので人っ子一人いない。
打ち合わせに上京した帰り、またここに立ち寄った。どこからか吹いてくる風が潮の匂いを含んでる。僕の好きな香りだ。
「あっ、晴くーん」
頭上から良く知った声がする。今僕が立っている場所より数メートル高い場所から、香ちゃんが手を降っていた。学校の帰りなのだろう。香ちゃんはセーラーを翻しながら、駆け下りてきた。
「こんにちは」
「こんにちは、晴くん」
背筋をピシッと音がしそうなくらい張って挨拶をする姿が笑える。ちょっぴり上気した頬も良い。僕は自然に笑っていた。
「晴くんは今から何する予定デスカ?」
特に予定はなかったけど、しばらくここにいるつもりだと言ったら、香ちゃんに怒られそうだった。
「古本屋に行こうと思う」
街に一つしかない古本屋はただでさえ狭い僕の生活圏の中でも、僕が良く足を運ぶ場所だ。今日行く予定ではなかったが、ここからそう遠くはないし、いつ行っても新しい発見ができる優れた店である。
「お供いたそう!」
香ちゃんは再び背筋を伸ばし、なぜか敬礼をした。僕はその姿に、いつか書いた原稿の中の主人公だった日本兵の姿を重ねた。
「僕の本読んでくれたんだ」
「うん!」
香ちゃんは少し誇らしげに笑っていた。
古本屋を目指す僕達は、香ちゃんが来た方向とは逆方向の坂を上ることにした。
「いらっしゃい」
その古本屋は相変わらず、様々なジャンルの本がバラバラに積んであり、殺伐としていた。
古本屋の店主は、新聞を読んでいる。僕は一週間のほとんどをこの古本屋で過ごすから、店主とは馴染みが深い。
「おじさん、今日は女の子を連れてきたよ」
「こんにちは!」
「……」
店主は無言である。彼は新聞を読み出すと、返事を全くしない人間だった。
香ちゃんは不安気に僕の方を見ている。僕も最初は戸惑ったなぁ、と遠い昔のことのように思い出した。
「大丈夫かな」
「大丈夫、話は聞いているんだ」
店の奥にある一段と大きな本棚へ足を運ぶ。香ちゃんも、あちこちに積まれた本の山を、慣れない足取りで避けながら付いて来た。
「あ、また本が増えてる」
僕は随分昔に読んでいた本を見つけ出した。
「はい、これ香ちゃんに」
随分読み込んだのだろう、ボロボロの本を渡されて、香ちゃんは少し戸惑っているみたいだ。
「……?」
「僕が昔好きだった本だ」
香ちゃんの表情が輝いた。
「これいくらかな?」
「僕が買ってあげるんだよ」
店主に本を差し出すと、金はいらないと言われた。この古本屋自体古く、売り物ならないような本がけっこうあるのだ。僕はきっと常連客だから、店主がまけてくれたのだろう。
帰ろうとすると、古本屋の前で香ちゃんが躊躇いがちにたずねてきた。
「ウチよってく?」
「え、いい……」
「よっていきなよ」
断る前に遮断されてしまった。はしゃぐように駆け出す香ちゃんに腕を引かれ、僕は僕達が生活しているアパートへ向かった。
二ヶ月前に書き上がった原稿が、数日前に発売されたらしい。次の原稿の打ち合わせに東京へ行くと告げると、浜口が興奮気味に感想を述べてきた。
「ナキザワ先生! 俺、感動しましたぁああ」
「ちょっ……先生。恥ずかしいから止めて下さいよ」
幸い、職員室でなく図書室の隣にあるいわゆる準備室であったから良かったものの、大声で自分の書いたものについて誉められるのは、流石に恥ずかしい。
小説家なのを隠したいわけじゃない。ただ、国語の授業なんかでやる感想文は苦手だし、古典はサッパリわからない。
得意なのは小説だけだ。誉められるのも、もて囃されるのも苦手だ。小説は、僕が落ちついて向き合える数少ないものの一つだった。小説だけは、ゆっくりと僕に真実だけを語りかけてくる。何かを盾にして本質を知られるのを避けたりはしない。
「あらぁ、晴くんじゃなぁい?」
「そーなの。さっきポストの場所で会って」
「あ、こんにちは」
玲さんに会うのは一週間ぶりだった。
玲さんは、近所のスーパーで働いているから、昼間に会える確率は少ない。
「あ、ねぇ晴くん。読んだわよ!」
「え」
小説のことだろうか。僕の頭の中に香ちゃんに貸した自分の本の数々が浮かぶ。
「最新作ー!」
「ありがとう」
正直に言うと、あの原稿の内容はあまり覚えていなかった。どちらかというと、原稿を出した日に食べたカレーの味を思い出す。
「今回も最高だった! 最後ね、まさかああ来るとは思わなかった」
興奮気味に話す玲さんに少し圧倒されていると、香ちゃんが補足してくれた。
「玲ちゃんたら、ナキザワハル貸したらもう本好きになっちゃって」
「へー!」
玲さんは、どちらかというと、ファッションとかメイクに興味がある人だと思っていたから意外だった。僕も本は好きだ。だから、僕の書いた本で読者が増えるのは純粋に嬉しかった。
「お昼はまだですよね」
「晴くん?」
「まさか……」
「今日は僕が作りますよ」
「ホント?」
「やったね!」
料理は嫌いじゃない。人に食べてもらうのも、人が作ったものを食べるのも。ナキザワハルが、食事の描写に優れていると言われているのは、このためかもしれない。
「最近はちゃんと食べてるの?」
香ちゃんがキッチンまで付いて来た。どうやら手伝ってくれるつもりらしい。僕は嘘をついた。
「うん」
多分、今日なんかは香ちゃんが誘ってくれなかったらまた食べなかったはずだ。一瞬、彼女の言葉が脳裏をよぎる。
『今回もあなた、読者を逃がさないわね』
なぜだとたずねてみる。思えばいつも僕は、彼女に質問しかしていない気がした。
『だって、主人公の人間的な冷たさが最高じゃない』
「何作るー? 冷蔵庫、トマトと挽き肉しかないよ」
香ちゃんの声で、再びキッチンにいる自分に意識が戻ってきた。
「十分だよ。ミートソースには」
ミートソースと聞いた瞬間、香ちゃんの目が輝く。
「わぁあ! じゃあ私手伝わない!」
態度の急変の理由をたずねると、彼女は迷うことなく言い切った。
「だって、私が作り方覚えたら、もう晴くんが作ってくれなくなっちゃうよ」
拍子抜けした。いや、香ちゃんと付き合ううちにわかったことだが、僕は香ちゃんが言うことに拍子抜けすることが多い。自然に顔が綻んだ。
「うん、じゃあ玲さんとテーブルで待ってて。すぐできるから」
「うん」
キッチンから足取り軽く立ち去りかけた香ちゃんが突然立ち止まった。
「晴くん」
香ちゃんが手招きする。どうやら内緒話をしたいらしい。耳を近づけると、小さな声でこう囁いた。
「私もナキザワハルの最新作、好き。ちょっとだけナキザワハルがどんな人かわかったから」
「それって……」
「思っていたより心配なかったってこと!」
香ちゃんと話した後は僕の心は風が吹いたみたいに軽くなる。それは少し、僕の好きな潮の香りを含んでいるのかも知れない。僕はまた自然に笑っていた。
「そうかもしれないね」
ミートソースは、とても優しい味がした。
さて、いがいにも早く出来上がってしまった続編ですが…
ナキザワハルの正体を知った香と玲姉妹。梛木沢は香に癒されている自分自身に気づく事ができました。あまり前回の謎解きにはならなかったものの、少しずつ梛木沢と共に前進して行きたいと思っています。まだまだ続きそうなこのシリーズですが、気長にお付き合い下さい。