半身
彼はふたりの女を行き来しつつ、とかく露見せぬものと高をくくっている。
一方は真剣交際。かたわら、一方は気ままなひまつぶしに付き合わせているつもりでいながら、いたいけな心をおのれに惹きつけておくのも怠らない。
今宵、食事の済んだレストランのテーブルで差し向かいともなれば、自然、夢見るような瞳がこちらへ届く。
彼は、優しく熱を帯びたそのまなざしをかわすように何杯目かのグラスへ口をつけ、脳裏はしかし、目の前の沙那とは別の女をたちまち引き合いにだして、たわいない比較品評を開始する。
恋に曇った瞳の霧をはらえば、まずはこの子が美しい。すっきり卵型の輪郭をおおう、つややかに手入れのされたその髪は彼女に似合って好みだったし、けっして悪目立ちのしない奥二重の瞳の際立って貞淑なうるおい。やせて、それでいて指でついたら柔らかく押し返す頬はいますぐにでも触れたいほどである。
この場を知らない本命のほうはといえば十人並みよりちょっぴり上なくらいで、本人にもその自覚があるのか、彼のことを下にも置かないといったら可笑しいが、とにかくひとえに敬い慕ってくれている。
ただ莉央には、彼が少々閉口してしまう癖があり、以前の男について時折ぶつぶつ言うのがそれで、また始まったかと思うと、いずれも彼らを貶めて彼を持ち上げるというしだいだったから、彼は嬉しくも心中ひそかに男たちへ同情した。
いつか自分がそしられる側にまわったのを想像してみれば、いやな気もしたが、そんなのは当面ありそうにもないのでそばから忘れてしまって、せいぜい彼女の話を否定することなく優しく聞いてやる。男の品評は女同士、友達同士でやってくれればいいものを、とは思ったものの、それは現今の彼氏自慢になりがちでためらうのかもしれない。
で、照れくさくはあるものの話をきいてあげさえすれば、莉央も喜んでくれるので、こちらは彼らに内心同情して味方になりつつも、その意見をおだやかに尊重してやると、果たして彼女は満足してしばらくはぶつくさ言ってこない。これがじつにありがたいので、彼はそのたびごとにその戦法をとっていると、じきネタも尽きたのか、あるいは暖簾に腕押しと見たのかいつとなくぴったり止んだ。
彼はグラスの残りをあおると、作法破りにも氷を二つ口にながし入れて噛み砕き、メニューを眺めるまもなく、彼女のうしろへ控えたウェイトレスとふいに目が合ってあわてて沙那をむき、
「沙那はまだ平気?」と、メニュー片手に一言ききながら、グラスで湿った指をテーブルの縁にこする。
「わたしはもう平気」という返事を受けて、こちらは再び迷うふりをしたのち片手を上げた。
*
すみやかに届いたグラスへ、彼はひとつ口をつけると、まえを見つめた。
アルコールのためばかりでない上気が頬をいろどると見るうち、彼女はたまらずほほえんで、目をひとたびそらし、ふたたびこなたを見つめ返すと、今度は彼が負けてにっこり、視線をかなたへ移した。
白シャツ黒ベストのウェイターが、先ほどのウェイトレスの耳もとへ手をかざして口を寄せ、こそこそささやいているさまに彼はふと、『人間は自分の別れた半身を探している』というプラトンの言葉をはしなくも思い出した。
まさか沙那が自分の求めてきた半身と即座にきめられるほどの、ロマンチストではないけれど、その半身は格別夫婦や恋人にかぎったことでもあるまい。終生の契りを結んだ相手よりも、かえって色濃い共感を呼び起こさずにはおかないそれとは別個の異性こそ、みずからの半身と夢想するにふさわしくはあるまいか。
清楚な見目と肢体、一見おだやかでありながら、うちに沸々とした熱情をもち、ときに奇矯な発言と振る舞いでこちらの意表を突きつつ、日頃はどうあってもしとやかな沙那。
彼は莉央が男たちをそしるのを、理解はしても共感をはばむものがある一方、沙那の奇矯さにはときに救われるような気がした。
ふたりは、沙那とおれは手を取り合う必要があろうか。たがいに共感のぬくもりを後生大事にあたためて、時折ふっと、半身の身の上に想いを馳せればそれこそ、代えのきかない幸福ではなかろうか。恋人にしろ、夫婦にしろ、決してたどり着けない念願の境地だろう。
夢想にふける彼をよそに、折から手持ち無沙汰なようすの沙那は、ふと、彼の手もとのメニューへたおやかな指先をのせて、引っ張るように取り上げると、それを両手に口もとには柔らかな笑みをたたえ、奥二重の視線はたわいもない文字列をうきうきと追っている。
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