悪役令嬢はループを抜け出すためなら手段を選ばない。
2021年の書き初め。
目が覚めた。
体を起こし、ベッドから下りて姿見を見る。
若い、というか少々幼く見える。
いつもどおり、あの日の朝に目が覚めたようだ。
「──ふふ。やはり、そうなのね」
条件が確定した。
そのことについて、エヴァは少し笑ってしまった。
自分が死んだ時のことは覚えている。いつも通り。そしてこれもいつも通り、意識はそこで途切れる事なく、覚醒する事となった。
学園の入学式の朝まで時間が巻き戻された状態で。
エヴァンジェリーナ・プレシアンス公爵令嬢はもう何度も自身の死を経験し、そしてその回数だけウェルス王立魔法学園の入学式の朝を迎えていた。いや最初の一回目は死亡していないわけだから、死の経験をした回数より入学式の朝の方が多いか。
エヴァが死亡するのは決まってこれよりおよそ3年後、学園の卒業式前後までの間のどこかだった。
最初の時のことはよく覚えている。
卒業を祝う舞踏会での事だ。
エヴァの婚約者であるガスパール・ウェルス・レーグル第一王子殿下の名の下に、身に覚えのない罪によって断罪され、あれよあれよという間に死刑が決まり、3日後には王都の広場で首を落とされた。
その時の記憶にある最後の光景は真っ白い布だ。公爵家との縁を切られたと言っても貴人の処刑であったため、公開と言えど首には目隠しの布がかけられていたのだろう。新品だったらしいことだけがせめてもの救いである。そのくらい何も救いのない最期だった。
身に覚えのない罪とは何だったのか、そしてなぜいきなり処刑までいってしまったのかは次にスタートした3年間でわかった。
二度目の学園生活は一度目とそう変わらない過ごし方だったと思う。エヴァにも一度目の事がそもそも何だったのかわかっていなかったこともあり、あれは悪い夢だったとして忘れることにしたためだ。
しかし卒業が近づくにつれ、強く記憶に残っている情景が見え始めてくると、言いようもない恐怖に襲われた。それで異常にびくびくと周囲を気にするようになった。
そして気づいた。
自分の婚約者であるはずのガスパール第一王子にまとわりついている女生徒がいた。
一度目は王妃教育が忙しく、そこまで婚約者に気を払う事はなかった。
その事が婚約者の機嫌を損ねていた事には気づいていたが、元より政略結婚だ。そんな子供のような感情が不適切であることくらい、第一王子ならわかっているはずだと思っていた。
ところが彼はわかっていなかった。
そしてまとわりついていた女生徒と深い仲になり、卒業式のプロムの場で、その女生徒に嫌がらせをし、ついには殺そうとまでしたという罪でエヴァを断罪したのだ。
まったく身に覚えのないことだった。
しかし次々に証拠とやらが明らかにされ、公爵家の封蝋のある暗殺依頼の手紙までもが現れて、エヴァの罪は確定した。
即日で父からは勘当を言い渡され、当然婚約は白紙になり、女生徒はそのままガスパール第一王子の婚約者となり、未来の王妃を暗殺しようとした罪で極刑が決まった。
この国は罪の遡及は認められないのではなかったのか、と抗弁したが、今回は殺人未遂という罪そのものは遡及して判決が下っているわけではないため、その言い訳は通らないと言われた。
この時に最期に見たのはガスパールの隣に立つ女生徒の歪んだ笑顔だった。
今度は顔に布はかけられなかった。エヴァの抗弁が司法の最後の慈悲を剥ぎ取ってしまったらしい。
そして入学式の日の朝に目が覚め、エヴァはどうやら自分が学園の3年間をループしているらしい事に気がついた。自分の行動によって未来がわずかなりとも変わることにも、新品の白い布が、死の間際においてどれほどの慰めになっていたのかも。
それからは、まずはガスパールに妙な虫がつかないよう努力する事にした。
王妃教育は問題ない。もう通しで2回も教育を受けている。今更覚えることなどない。
しかしどうあっても例の女生徒をガスパールから遠ざける事は出来なかった。むしろ、遠ざけようと苦労する事で、嫌がらせの証拠が増えてしまったくらいだ。
その結果、エヴァの最期は斬首刑から絞首刑に切り替わった。死ぬほど苦しかった。
二度目まででは名前すら知らなかったその女生徒は、フォルトゥーナ・シャルムというらしい。
二度に渡る王妃教育によって叩き込まれた知識によれば、シャルムというのは王都に居を構える法衣貴族の子爵家だ。
つまり子爵令嬢ごときが未来の王妃になるという事になる。普通だったらありえない。
何度か挑戦して失敗し、その度に絞首刑を受けたエヴァは、ガスパールの心変わりを防ぐことを諦めた。普通でありえない事が起きているのなら、それだけガスパールの想いが強いという事だろう。王国の歴史や伝統を蔑ろにしてでも結ばれたい相手だということだ。
理解し難いが、人の心は理屈でどうにかなるものではない事は、何度も死んで心が壊れ始めていたエヴァにも何となくわかっていた。
次にエヴァは、先にガスパールとの婚約を解消する方向で考えることにした。
処刑の度に目にするフォルトゥーナの歪んだ笑顔。そして、身に覚えがないにも関わらず次々に出てくる証拠。
あれらを総合して考えれば、エヴァの処刑がフォルトゥーナの望んだ結果であることは疑いようがない。たかが子爵令嬢にそこまでの力があるとも思えないが、そもそもエヴァが学園生活をループしている時点でありえない事が起きているのだと言える。子爵令嬢がありえない力を持っていたとしても驚くには値しない。
であれば、ガスパールを大人しくフォルトゥーナに譲ってやればエヴァがターゲットになることもないかもしれない。
ガスパール第一王子とエヴァンジェリーナ公爵令嬢との婚約は生まれたときから決められていた事である。
これを解消するのは容易なことではないが、そうせざるを得ない大きな理由があれば話は別だ。
王妃ともなれば国民の前にその姿を見せる機会も多い。
当然ながら、王妃には作法や教養以上にその容姿も重要となる。
そこでエヴァは、事故に見せかけて自分の顔に消えない傷を付ける事にした。
ちょっとした怪我では治癒魔法であっという間に治されてしまう。
しかし、治癒魔法では部位欠損は治せない。
エヴァは木の枝で自分の眼を抉り出した。
この企みはうまくいき、エヴァはガスパールの婚約者ではなくなった。
その後、フォルトゥーナ子爵令嬢がちゃんと婚約者になれたのかどうかはわからなかった。
何しろ、その前にエヴァは殺されてしまったからだ。
予想外の展開にエヴァは混乱した。その時点で学園の卒業まで2年近くも残っていたからだ。話が違う。
例のごとく入学式の日の朝に目覚め、最も新しい自分の最期を考察した。状況から察するに、エヴァはおそらく暗殺されたのだと思われた。
その後も何度か、少しずつ条件を変えながらも同様に行動し、自分を狙う暗殺者について当たりをつける事に成功した。
エヴァに暗殺者を差し向けていたのはプレシアンス公爵。エヴァの父親だった。
理由はエヴァが駒として使えなくなったから。そして公爵家有責で婚約解消に至った事で、エヴァの存在が公爵にとって汚点になったから、であるようだった。
つまり、第一王子との婚約を解消しようとすれば親に殺され、継続しようとすれば第一王子に殺される。
絶望するに足る状況ではあったが、絶望するほどエヴァの中に希望など残っていなかった。
そんなことより、新たに思いついた事がある。
最初のパターンで出てきていた暗殺者に向けた手紙、あの公爵家の封蝋は父の押した物だったのではないだろうか。
それがどうやってかフォルトゥーナだかガスパールだかの手に渡り、処刑を決定付ける証拠のひとつとなった。
それからしばらく、エヴァは公爵家と暗殺者との関係を洗う事に専念する事にした。
これなら心変わりを防ぐとかのあやふやな目標よりは余程やりがいがある。
表向きは不審に思われないよう普通に生活し、可能な限り父親の交友関係を調べた。
特に注意したのは手紙のやり取りだ。証拠として封蝋が残されている以上、依頼が手紙で行なわれていたのは間違いない。
何度も首を落とされ、時に吊るされ、時に暗殺者と死闘を繰り広げながら、ついにエヴァは公爵の手紙の行方を掴んだ。
そもそも公爵家の正式な封蝋付きの手紙である。そう頻繁に出されるものではない。王侯貴族でもない相手にそんなものを出していればすぐに分かる、そう考えていたが、それは甘かった。
その暗殺者というのも立派な貴族だったのだ。つまり要人暗殺を生業にのし上がってきた貴族というわけである。その発想はなかった。
手紙が運ばれるルートや、手紙の文面に使われている符牒についても検証を重ねて特定した。信頼性を持たせるために公爵家の封蝋を使っているのだろうが、そこに馬鹿正直に暗殺依頼などが書いてあるはずがない。花だの蝶だの、剪定だの標本だのといった当たり障りのない言葉を組み合わせ、標的の特定と依頼内容を指示しているようだった。
なんだかんだ、ここに1番死亡回数をかけたかもしれない。依頼内容や対象を変更させるために色々な工夫をしたし、失敗してもしなくても必ず殺される事になったので。
そうして暗殺を回避することは出来たが、その条件をクリアした上でガスパールとの婚約を解消しても卒業の日を越える事は出来なかった。
これは考えてみれば当たり前であった。
元々、公爵にとって王族と婚姻を結ぶことだけがエヴァの価値だった。
その王族との婚約を解消したばかりか、片目を失うという瑕疵まで負ってしまったエヴァは、公爵にとってはそれこそ暗殺者を差し向けて殺してしまいたいほどの汚点となる。
暗殺者との連絡がうまくいかなかったとしても、それだけで公爵がエヴァの処分を諦めるはずがなかった。
エヴァが生きて卒業の日を越えるためには、エヴァ自身になんの瑕疵もなく、それでいてフォルトゥーナに陥れられる事のないように、エヴァ側に全く責がない状態でガスパールとの婚約が消えなければならない。
これが条件だ。
普通にやっては到底無理な話である。
しかし。
エヴァは少し笑ってしまった。
なんなら、ここ数回のループはその条件が絶対であることを確定させるために死んでいたと言っても過言ではないほどだ。
「そうなると、わたくしが卒業の日を越えるためには──」
*
目が覚めたこの日、エヴァはいつもどおりに制服に袖を通し、学園へ向かった。何度目かももはや数えてはいないが、入学式に出席しなければならない。経歴に要らない瑕をつけるわけにはいかない。
恙なく入学式を終えた後は、まずはガスパールの新入生代表の挨拶をねぎらう。
そうしていればあちらから勝手にやってくる。
「──うわっ! ご、ごめんなさい!」
シャルム子爵令嬢、フォルトゥーナが前方不注意でガスパールにぶつかってきた。
「無礼者! この方をどなたと心得る! このお方こそ──」
「やめろエヴァ。この学園においては全ての生徒は平等だ。私の身分など意味をなさない。
きみ、大丈夫かい? 怪我はない?」
ガスパールがフォルトゥーナに手を差し伸べるのを冷めた眼で見つめる。
身分が意味をなさないなど、道理を弁えない愚か者の戯言だ。
そんな事はループを繰り返す前の、まだ純粋だったエヴァにさえわかりきった事実だった。
現に、たった今ガスパール自身がエヴァの行動をその身分によって諌めてみせた。たったひと息の言葉の中でさえ矛盾している自身の言動を、この愚かな王子はどう考えているのか。
そう思ったが、今エヴァが浮かべている冷たい表情はおそらく一度目のときとそう変わりはないはずだ。あのときも、政略結婚とは言え婚約者の前で別の女性に気安く触れるガスパールの無神経さを冷めた眼で見ていた覚えがある。
そう、エヴァは表向きは一度目と同じルートを辿るつもりであった。
そうすれば細かい違いはあれどガスパールとフォルトゥーナはおおよそ同じ行動をするとわかっていたからだ。
それからも、エヴァはガスパールとフォルトゥーナが仲良くなっていくのを一番近くで見続けた。
もちろん常識の範囲内で可能な限りの注意はした。婚約者がいる男性とむやみに近付こうとするのは良くない行為だし、それを婚約者の目の前でしようとするのはどう考えてもおかしいからだ。
それに、これをするのとしないのではガスパールとフォルトゥーナの親密度の上がり方に差が出る。邪魔が出来るならした方が早く仲良くなるようなのだ。エヴァには理解できない感情だが、多少の障害があったほうが興奮するとかなのかもしれない。
学年がひとつ上がる頃には、ガスパールはフォルトゥーナと隠れて会うようになった。
ようやくその程度の知恵がついた、というよりは、そうするだけの親密さになったということだろう。2人きりになったところで何をしようとしているのかには興味はないが。
ともあれ重要なのは隠れて2人で会う事である。
ウェルス王立魔法学園は閉じられた世界だ。
ガスパールの言葉通り、一応名目上は世俗の身分は関係ないということになっている。
そしてそれをガスパールが信じる程度には、閉鎖された空間が用意されているという事でもある。
そんな閉じられた世界では、人目を避けた恋人が逢引できる場所など限られている。少ないわけではないが無限にあるわけでもない。時間によってそうなる場所もある。
また、いかに恋に狂っていようともガスパールもフォルトゥーナも一生徒に過ぎない。時間割からは逃げられない。王族として好成績を維持する必要があるガスパールは特にそうだ。
であれば、いつ、どこで彼らが逢引をするかなど容易に推測できる事になる。
いつ、というのは時間割から簡単に割り出せる。
どこで、というのは候補が多すぎて難しいが、これもある程度の時間をかければ誘導可能だ。
エヴァは2人の逢引が始まってから、使われていない教室や屋上、図書館などの逢引しやすい場所に頻繁に行ってそれを邪魔するようにした。
当たる確率はさほどでもないが、当たれば彼らは嫌な顔をしたし、その場でエヴァは苦言を呈した。
これをしばらく繰り返す事で、何度か当たった場所には彼らは行かなくなっていく。
そうしてさらに1年過ごし、運命の3年目を迎える。
いつもどおりであれば、あと1年もしないうちにエヴァは死ぬ。
タイミング的にはそろそろである。
そろそろ公爵が、目障りなフォルトゥーナ・シャルムの暗殺を計画するころだ。
これは必ず失敗し、かつエヴァの仕業とされるので、公爵が出した手紙は何としても届く前に処分しなければならない。
「──お嬢様。よろしいでしょうか」
「なに、マイラ」
マイラは幼い頃からエヴァの世話をしてくれている侍女だ。
「学園でのことです。その、最近殿下を捕まえられていないとか」
学園は閉鎖された空間ではあるが、貴族は1人だけ侍女を連れて行く事が出来る。休憩中や食事中の世話をさせるためだ。
授業中は彼女たちは専用の控室に待機しており、そこで侍女だけの情報交換がされているらしい。
そこで聞いてきたのだろう。
「僭越ながら、殿下とフォルトゥーナ子爵令嬢は、旧校舎の池の近くで会っておられるのではないかと……」
エヴァが困っているときはこうして声をかけてくれ、さりげなくヒントをくれたりする。
しかし、エヴァは知っている。マイラは公爵がエヴァを監視し、行動を誘導するために用意した間者である事を。
間者というほど大したものでもないが、それ自体はごく当然のことだ。マイラの雇い主はエヴァではなく公爵だからだ。
とにかく、マイラが見たもの聞いたものは全て公爵も知っている。この助言も正確にはマイラの報告を受けた公爵が考えたものだろう。
だが、言われるまでもなくガスパールとフォルトゥーナの行き先などわかっている。そう誘導したのは他でもないエヴァである。
「……ありえないわ、マイラ。だって、旧校舎は立ち入りが禁止されているのよ。殿下は卒業後に立太子が予定されている、将来この国を背負って立つお方。まさかご自分から決まりを破るような真似などするはずがないわ。
それに、殿下をそこに探しに行くとなればわたくしも決まりを破る事になる。決まりが出来た理由を考えれば、公爵令嬢たるわたくしが軽々しくそのような場所に行くことなど元より出来ないけれど」
「決まりが出来た理由、ですか?」
「ええ。安全上の理由だと聞いているわ。そんな危ないところに行って、事故でも起きたら大変だもの」
しかしこれで、公爵がフォルトゥーナ子爵令嬢を疎ましく考えている事は確定した。
そして今回のマイラとの話で、エヴァがこれ以上手を打とうとしていない事も公爵に伝わるはずだ。
マイラが公爵に報告をするのは、決まってその日の終わりである。
であれば動くのは明日になるだろう。
日にちさえ確定してしまえば後は簡単だ。
公爵家から手紙の類が持ち出される時間は決まっている。
例の手紙の届け先が孤児院であり、その孤児院から孤児が手紙を運ぶこともわかっている。
エヴァは翌日、散歩に行きたいとマイラを伴って出かけ、不意をついて孤児院の近くでマイラを撒いた。
孤児院の子どもが暗殺貴族に手紙を運ぶのはこの時間だ。その際に通るルートも毎回同じであり、全て記憶している。
マイラを撒いた後、覚えたルートを逆走していき、みすぼらしいながらも精一杯まともな格好をしていると思われる孤児とぶつかった。これ以上貧相な格好をしていると不心得者の町民に孤児だとばれて余計なトラブルを引き寄せるからだろう。
ぶつかった孤児は服装同様のみすぼらしいカバンを落とし、中身をぶちまけた。ぶつかったときにエヴァがさり気なくカバンをはたき落としたからだが。
「ああ、ごめんなさい! わたくし、急いでいたもので」
落ちたカバンの中身を拾うふりをして、黒っぽい布に包まれた薄っぺらい何かをすり替えた。あれが問題の手紙だ。
そして謝る孤児に、自分は今家の者から逃げているから、これは口止め料だと銀貨を握らせ、先を急がせた。
それから少しして、エヴァはマイラに見つかった。
相当な剣幕で叱られてしまったが、マイラが叱るのは当然だ。信頼して預けている娘を一時とは言え見失ったなど、雇い主である公爵にしてみれば到底許せる事ではない。
マイラ自身の評価のためにもこの日のことはお互い秘密にしておくことに決め、散歩は切り上げて屋敷に帰った。
これでもう、このループですべきことはない。
人事を尽くして天命を待つ、というやつである。
駄目ならまた入学式からやり直すだけだ。
*
数日後、旧校舎の池にガスパール・ウェルス・レーグル第一王子とフォルトゥーナ・シャルム子爵令嬢の水死体が上がった。
当然大騒ぎになり、事件と事故の両面から捜査が進められたが、すぐに身分違いの愛に苦悩しての自殺と断定され、事件性は無いものとされた。
学園での2人の様子を知っていればそう違和感のある結末でもないが、エヴァにはほんの僅かにだが気になる点があった。国の捜査機関が学園内での人間関係について裏を取るには早すぎる気がする。この事態の収束には何か政治的な力が働いているように思われた。
エヴァが筆跡をコピーした公爵の手紙が何か影響したのかも知れない。
あわよくば没落覚悟で父も失脚させられるかと考えていたが、そううまくはいかなかったらしい。公爵もこれに懲りたら、邪魔になったら暗殺者を送るという安易な手段に頼るのはやめたほうがいい。
何度ループしても必ず失敗していたフォルトゥーナ・シャルムの暗殺だが、その理由についてもエヴァは知っていた。
暗殺は学園内で実行され、その際に必ず側にいるガスパールが身を挺して庇うからだ。
さすがに自国の王子を仕事に巻き込むわけにはいかない暗殺者は、それ故にしくじる事になる。
しかし、最初から王子自身が標的であればその限りではない。子爵令嬢ごときが巻き込まれたところで暗殺者は気にしない。
エヴァがすり替えた手紙は、公爵が書いた手紙の標的を王子に切り替え、さらに成功率を上げるために旧校舎の池という場所の指定までしてやっていた。これでしくじるようなら足を洗った方がいい。
学園は長期休講になり、国中が喪に服す事になった。
若い二人の想いが暴走した結果であるとして、シャルム子爵家には表向きは何のお咎めもなかったが、傷心であろう子爵に仕事を押し付けることは出来ないと王都での任を解かれた。事実上の懲戒解雇だ。そして領地を持たない子爵にとって、職を失うことは一族の死に等しい。彼らの話はすぐに聞かなくなった。
半年に渡る休講が明けると、ほどなく卒業式の日になった。
3年次の授業の殆どは受けられていないが、重要なのは学問を学ぶ事ではなく学園に通ったという事実だ。卒業式は略式になったが滞りなく執り行われた。
ただし、例年であれば式の後に予定されていたプロムナードは無くなった。
ここを五体満足で乗り越える事が一種の目標であったエヴァは少々寂しく思えてしまった。
しかし重要なのはプロムナードではない。
卒業式の日を越えてもエヴァが生き残っていることである。
この日、体感的には何十年か、下手をしたら何百年かぶりに、エヴァは心からの笑顔を浮かべた。
*
婚約者が居なくなってしまったエヴァだったが、何か瑕疵があってそうなったわけではない。相手が勝手に死んだだけだ。
もちろん相手が別の令嬢との心中によって命を落としたというのは十分すぎるほどの醜聞ではあるものの、これをあげつらう場合は他ならない当事者である王家をも中傷することにつながる。
そのため貴族社会ではそれを何かの理由にするものは居なかった。
ゆえに卒業後、エヴァも普通にもう一度誰かと婚約をする必要があったのだが、その決定権はエヴァにはない。相手を決めるのは父である公爵だ。
エヴァとしては、前回のように頭の軽い相手でない事を祈るばかりである。
卒業式の日を越えた今、エヴァが死亡した場合にあの巻き戻りが起きるかどうかはわからない。
次はもう失敗できない。
しかし何となくだが、エヴァは自分の相手となる家に心当たりがあった。
公爵である生家は貴族の中ではトップの権勢を誇っている。皆が口を噤んでいるとはいえ、第一王子が醜聞によって命を落とした事で王家の求心力も低下しており、相対的にプレシアンス公爵家の権力はさらに増していた。
そんな情勢だが、公爵のアキレス腱になりうる貴族家がひとつだけある。
裏で暗殺稼業を営むプリツィエ伯爵家だ。
あの家には公爵の筆跡で書かれた、第一王子暗殺依頼の手紙が残っているはずだ。手紙の内容自体は符牒を使った当たり障りの無いものになっているのだが、事実を知り、多少なりとも証拠を持っているというのはそれだけで公爵にとって頭の痛い事だろう。
事件の後プレシアンス公爵家が勢力を強めたのも、暗殺を公爵が計画した事の裏付けになる。
プリツィエ伯爵の子息はエヴァと同い年であり、魔法学園にも通っていた。これはよく知っている。なにしろ以前に何度も彼に殺されたからだ。暗殺者関連の調査には力を入れざるを得なかったため、エヴァの死因の中でも彼がトップを独走している。もはや親の顔より見た死神だ。
また、フォルトゥーナの暗殺が毎回学園で行なわれようとしていたのも、実行犯が学園内に居たからだった。普通に考えれば、怪しまれずに学園に溶け込めるのであれば学園内で事故に見せかけて殺すのが一番難易度が低い。エヴァと違ってチャンスが一度しかない彼らは、毎回必ず最も成功率が高い方法を選び、そして失敗していた。
もし、公爵がエヴァとプリツィエ伯爵令息との婚約をすすめれば、プリツィエ家の裏稼業を知らない者が聞けば眉をひそめる組み合わせになるだろう。公爵と伯爵ではかなり権力に差があるためだ。
知っている者が聞けばあからさますぎるカップルだが、知っていて今も生き残っているような者であればこの先も誰かに言うことはないはずだ。
どうなるかはわからないが、この予想はそう的外れではないような気がしている。
プリツィエ伯爵令息であれば、主体性に乏しいところは気にはなるが頭も顔も悪くない。
もし、女主人としてプリツィエ伯爵家を仕切る事が出来れば、将来は面白い事になるかもしれない。
壊れきったエヴァの心が少しだけ弾んだ。
そうなるとしたら、今から楽しみだ。
エヴァの家名からすると、ループではなく別の能力なのかもしれません。