戦略・戦術についての少考
頭冴えまくって寝付けなかったのでいっそ考え事を文章にしてみました。
戦術・戦略とは結局のところ目の前の戦いに対していかにすれば合理的に勝利できるか、というものであり、それを身につけるにはいくつもの例題を頭に入れるしかなく、戦術・戦略そのものについての理論は存在しない。無論、古今東西の戦に共通する要素はあるし、それを抽出・昇華したものが孫子である。
これらは私個人の考えだが、孫子の文中にも「その戦い勝つや繰り返さずして形に無窮に応ず(一度勝った戦術でも同じものは使わず、その度ごとに新たな戦術を練る)」とある。
また、戦争とは政治の中にあるものであり、戦争のみを取り出して扱うことはできない(孫子でも“道”すなわち正しい政治を行うことが勝利への第一歩だと説いている)。政治もまた戦争と同じく例題の積み重ねであり、どちらも学ぼうと思えば歴史書を紐解くしかない。歴史とは結局のところ人類の行ってきた政治と戦争の物語であるのだから。
ゆえに、ここでも例題をもとにし、他の戦にも適応できるよう自身の考えを展開しようと思う。
例題1 ハンニバル・バルカ
ハンニバルが得意としたのは中央の歩兵が相手を抑えている間に両翼の騎兵を敵の左右および背後に展開し、包囲壊滅するというもの。ハンニバルの代表的な戦いはトレッビアの戦い、トラジメーノの戦い、カンネの会戦、ザマの会戦の四つだろう。前から三つはハンニバルの勝利に終わった戦いだが、どれもその時々の状況(彼我の軍勢、地形など)を加味した上でいかにすれば得意の包囲壊滅戦に持っていけるか、ということを着眼に戦略を練り、成功したものである。四つめは敗北だが、この時の敗因は敵将のスキピオがハンニバル流の戦術(中央の歩兵と左右の騎兵を使っての包囲壊滅戦)を展開したのに対し、ハンニバルは優秀な騎兵を持っていなかったがためにハンニバル流の戦術を使えなかったことにある。というのも、ハンニバルは同盟関係のヌミディア王国から騎兵を借りていたのだが、政略によってスキピオがヌミディア国王を味方につけていたからだ。これを見ても、戦争と政治は切ってもきれない関係にあることがわかる。
例題2 アレクサンドロス大王
人類史上最強の武将。彼の戦は彼自身の言葉が端的に表している。アレクサンドロスいわく、戦いとは激動の状態である、ゆえに戦場でのすべての出来事は劇的になされねばならない。
彼は常に先手を打ち、相手を混乱に陥れて主導権を奪い、その勢いのままに勝利を手にした。
それまでは騎兵は貴族の乗るお飾りでしかなかったが、その機動力に着目し、歩兵と合わせて戦術的に活用したのも勝因のひとつだ。またギリシア人は多民族を蛮族と見下す傾向があったが、彼はでギリシア人以外の民を差別せず、国柄もバラバラな兵たちを圧倒的なカリスマでまとめあげ、敗れた敵にも寛容さを発揮した。
例題3 古代ローマ
ローマの戦いの特徴としては、戦い方がマニュアル化されていた事、兵站を重視したこと、政治と戦争がコンコルディアを成していたことの三つだ。
それまでの世界ではアレクサンドロスやキュロス2世といった逸材が出ても、その戦いは個人の才能によるものであり、個人が死ねば忘れられてしまった。しかしローマはスキピオがハンニバルの戦術を徹底的に解析、模倣し、さらにそのスキピオの戦い方を他の武将も真似したことによって、戦い方そのものがマニュアル化される。一度マニュアルが確立されれば、凡将でもそれに従えばそれなりの勝利を収めることができる。
また兵站をラテン語ではアルテというが、これのそもそもの意味は人間の成す“技”のすべてだ。政治、外交、補給(糧食、武器、人員)、すべてをひっくるめてアルテであり、ローマの武将はこれらすべてを頭に置いてストラテジアを練っていた。現在ではシビリアンコントロール、すなわち軍事は政治の隷属下にあることを是とするも、ローマの首脳部は政治も軍事も精通した人たちであり、政治と軍事の二つはどちらかが一方を押さえつけるのではなくどちらもが活かされるような調和を成していた。
すべての道はローマに通ずとまで言わしめたローマ街道網も、そもそもは軍団の移動のために作られたものだ。新たな地を得ればまず街道を通すのがローマの国策であり、整備されたインフラは物品の流通を促進、経済にまで好影響を及ぼす。
かように、戦争とは政治、経済と切っても切り離せぬものではない。しかしてそのことを理解し、国策として法制化し、完全に実行し得た国家はローマだけである。