第59話 牛田戦
「敵軍、確認できました」
「まだ見つかってはいないな? よし、戦闘準備。魔術士達よ、風の守りを」
代々、尾噛は武門の家である。だが、当代の望は魔術の有用性をもしっかりと認識していた。
今まで”冷や飯食い”だの”穀潰し”だのと散々に後ろ指を刺されてきた魔術部門の有用性を示し、家内の認識を改める為にと、今回の行軍に彼らを全員連れてきていた。
魔術師達は、山林からの生命力溢れる豊富なマナを用いて全軍に風の守りをかけた。これで敵軍から飛来する矢は、ある程度を防ぐ事ができるだろう。それは本当に僅かな差と言ってしまえばそれまでのものでしかない。だが、その僅かな差によって、自軍の生還率が少しでも上がるのであれば、端からやらない手は無いのだ。
「では、手筈通りに。行くぞ。全軍突撃だっ!」
望の号により、尾噛軍は、正に矢の如く牛田の陣へ突撃を開始した。
「敵、我が軍の後背より突如現れましたっ!」
「何っ?! 何故後ろからっ?」
牛田軍は、混乱の極みにあった。尾噛の動きが想定していたものと全く違っていた為である。そもそも、此処は敵地の真っ只中なのだ。斥候を放ち、索敵を密にする事こそが、軍を管理する上で重要なのである。それを怠り、勝手に敵軍の動きを決めてかかっていたのだから、ここに葉の限界があったのだと言えよう。
敵軍の後背に食らいついた尾噛軍は、混乱の中未だ指揮系統が回復していない牛田の軍を存分に蹂躙した。目の前の敵を槍で貫き、馬で蹴殺し、斧で頭を叩き割る。
新兵達には『目の前の味方に付いていくだけで良い。ただ、駈けよ』とだけ指示を徹底させた。兎に角生き残れ。それだけだ。
混乱の内に、敵軍を喰らうだけ喰らう。数の上では圧倒的にこちらが不利なのだ。騎兵で敵軍をかき回し、歩兵で射かける。これを徹底させねば、尾噛軍は途中で息切れを起こしてしまうだろう。
牛田の軍は未だ混乱の極みにあり、指揮系統は死んだままだが、その中の傭兵達は流石に歴戦を生き抜いた兵である。互いにフォローをしあい、尾噛の苛烈な攻撃をなんとか凌いみせた。
最初の突撃を凌いでしまえば、後はただの乱戦となる。そうなってしまえば、騎馬の優位性も消え失せ、数で有利な牛田の勝利は確実だろう。
突撃の勢いを殺された騎兵は、複数の傭兵達の刃によって倒された。戦の空気に呑まれてしまった新兵も、最後は同様の道を辿る事となった。
辺りは血の臭いに覆われた。近くの川は、尾噛と牛田双方の流した血により、真っ赤に染まっていく。
「そろそろ敵の混乱が収まる頃です。私達も仕掛けましょう」
祈は同盟者に呼びかけると、自身の式の兵団に指令を送った。
「へいへい。んじゃ、お前達。いくぞ?」
猛も自身の残存兵に向け、号令を発した。
あの時、祈は猛の支配する兵たちを眠らせるだけに留めた。
その後、猛が尾噛と同盟を結んだ事を説明し、そのまま味方になる様に仕向けたのである。その兵達を一カ所に集め盾として浪費しようとした葉の浅はかな考えは、結果そのまま自身に突きつけられる剣呑な刃と化したのだ。
「敵、我が軍の後背に突如現れましたっ!」
「後背って、どっちだよっ?!」
未だ混乱の続く葉である。このまま指を咥えて見ているだけにもいかないのだが、情報が錯綜し過ぎていて、何を指示すべきか判らないのだ。
「そいば、アタシ達も動くとすると」
牛田の混乱は、戦利品と糧食を一カ所に纏めた荷車付近にも伝わってきていた。
天翼人の姉妹は、囚われた子供達の中に紛れていたのだ。
「わたくし達の”役割”は、子供達を戦場から安全に離脱させる事。間違っても戦おう等とは思わない様に」
ちょっとくらい暴れても良いよな。と思っていた蒼は、姉からの図太い釘に刺し貫かれて、がっくりと肩を落とした。
「っかー。ウチん姉が厳しかばい……」
「ホント頼むぜ。俺だけじゃ、この数の”お守り”なんか無理だからな」
一馬も蒼に釘を刺す。この場に常識人を自称する二人がいる限り、蒼は自由に動く事は叶わない。蒼は観念した様に、天を見上げた。
「こんおっさんも言うならしかたなかよな……ああ、戦場でん活躍したかったとばい」
懐からヒトガタを取り出す。三人は念を込め、鉄の兵を数多く喚びだした。
「もうダメだ。逃げるぞ、撤退するぞっ!」
葉は、軍を建て直す事を放棄した。
良い様に敵の騎兵に蹂躙され、千々に引き割かれた軍は、後は矢によって確実に数を減らされる。傭兵達が持ちこたえたかに思えた矢先に、別働隊が現れ背面を切り崩されたのだ。ここからどう挽回できるというのか。まだ数が残っている内に、この場を離脱する方が賢明の筈だ。
「ですが、今の我が軍は両面を挟まれております。逃げるとは何処へ?」
「まだ完全に包囲された訳じゃないだろっ?! 開いてる方にだよっ!」
そういう意味では、少なくとも葉は馬鹿ではなかった。ただ、見積もりが甘く、現状への認識が薄かっただけに過ぎないのだ。一軍の将としては、これほど致命的なものもない訳ではあるが。
「”戦利品”の回収だけは絶対に忘れるなよ? そのために荷車に一纏めにしてンだからな?」
戦に負けるのはもう仕方が無い。この状況から挽回なぞ不可能なのだから。
だが、戦利品まで手元から失っては、今回の行軍の意味すらも完全に失われてしまう。葉としては、それだけは避けねばならなかった。
「新たな敵襲っ! 糧食、戦利品が燃えていますっ!!」
「なんだってぇぇぇぇぇ?!」
希望を絶望に変えたその報告に、葉は自身の足下が崩れる錯覚に囚われた。
一方的な殺戮が始まった。
牛田の正規兵は、尾噛騎兵の終わりなく繰り返される突撃に対応できずその身を引き裂かれた。
牛田の傭兵達は、いくら傷つけても平然と向かってくる不気味な兵達に完全に戦意を挫かれた。
何もできないまま、みるみる内にやせ細っていく自軍の様子に、ついに葉は観念をした。
「降伏だ。早く、降伏すると伝えよっ! 俺はまだ死にたくない。死にたくないんだ」
牛田降伏の報は、戦場を瞬く間に駆け巡り、抵抗は散漫になっていった。
葉と側近は捕らえられ、望の前にその姿を現した。
「尾噛が頭、望だ。よくも我が領を、好き勝手に荒らしてくれたな?」
軍の降伏は受けた。受けたが、お前は絶対に殺すぞ? 殺気に溢れる望の目は、そう雄弁に語っていた。
帝国の序列では、牛田家と尾噛家は一応同格に在る。であれば、一方は当主。また一方は、ただの次男坊でしかないのだ。差は歴然といえよう。
「も、申し訳ありませぬ…我が領は民が飢え、どうしようもない状況でございましたので……」
牛田の民が飢えていたのは本当である。だが、どうして飢えていたかまでを、葉は言及しなかった。
少しの嘘の中に本音を混ぜるのが、交渉事での基本である。今この場で自身を救えるのは、自身の弁論のみだ。望の眼光を目の当たりにし、葉は勝ち目の無い戦いに身を投じる他無かったのだ。
「……ほぉ。貴公は数多の傭兵を雇う豊富な資金を持ちながら、民を飢えから救う為、我が領を侵したと? これはこれは異な事を」
望の声は全てを凍らさんとする絶対零度にあった。誠実の欠片も無い葉の弁論に、一切の容赦なぞを与える余地すらも無かったのだ。
一目見た時、ただの若造だ。いくらでも付け入れられる。
そう思っていた葉は、自分の人を見る目の無さを徹底的に思い知らされる事になる。
望の側には、そもそも最初から”牛田の将は絶対に殺す”という選択肢しか存在しない。開始位置がすでに終わっている事を葉はまだ解っていないのだ。これが牛田葉という男の限界があった。
「もう少しまともな話を聞けるかと思ったが。所詮、ただの野盗でしかなかったか……」
深い深い溜息を、尾噛の頭はついた。
この様な愚かな者のせいで、尾噛に住む多くの民が犠牲になったのか。
望はやるせなさに、その頂点を貫いた怒りすら急速に萎んでしまうのを自覚した。こうなってはもうダメだ。言葉を交わす意味すらも感じない。
「もういい。貴公は此処で去ね。首だけは牛田に届けてやる」
話は終わりだ。望は葉に一瞥をくれる事無くその場をあとにした。同じ場所同じ空気を吸う事すら煩わしい。葉には嫌悪感しかなかったのだ。
「えっ? 待ってっ……なんで? まだ、俺はっ」
弁論を重ねて、尾噛の孺子を言いくるめる予定であったのに、早々に打ち切られてしまった。
葉は事態の急転に付いていけなかった。
「兄者、もう諦めろ。アンタが俺を処刑した時と同じさ。もう受け入れるしかない」
「へ? なっ、ななななな……」
弟である猛の姿を見た葉は、完全に思考が停止してしまった。
あの時確実に殺した筈だ。間違い無く首を検分したのだ。なぜその弟が生きていて、目の前に立っているのだ?
混乱の極みに在る葉の反応は、数度、瞬きをしたのみだった。
「牛田は俺がもらおう。兄者は安心して旅立ってくれ……俺を殺した罪、ちゃんと地獄で償ってくれよな?」
弟の霊が俺を地獄へ堕とそうとしている。
葉は絶叫した。
死の恐怖をも超える恐怖が、目の前にいたのだ。
その声を聞いた猛は嬉しそうに頷き、その場を離れた。
『もう二度と、兄と逢う事はない』
……その事に、深い満足を覚えながら。
誤字脱字があったらごめんなさい。




