第52話 邪竜
とぐろを巻く邪竜へ意識を向け、跳躍し、渾身の力で殴りつける。だが、黒く滑った輝きを放つ邪竜の鱗には、傷一つ付くことは無かった。
その結果に、祈は特に動じる事は無かった。予想通りであったからだ。
次に、幼い頃に兄から聞いた伝承を、そのまま試してみた。
大きく口を開け、邪竜の尾に噛み付く。
嫌な音と共に、歯が欠けたのではないかという位にあまりに堅い衝撃が、祈の上顎と下顎を襲う。
(無理っ! こんなの絶対に無理っ、歯が欠けちゃう。堅すぎる、よくこんなのを噛みちぎったね、根性ありすぎるよ初代様っ)
ならばと、次は素早く印を結んでから、祈は最初に殴った様に、もう一度同じ所を殴りつける。
先ほどとは打って変わり、祈の打撃は邪竜の鱗を吹き飛ばし、その下の皮膚に拳大の小さな穴を穿った。手元に呪符の無い状態ではあるが、自身の拳にできる限りの呪を込めて放ったのだ。
邪竜は全く予想だにしていなかった娘の痛烈な打撃に、たまらず苦悶の声を挙げた。
打撃とは、自身の体重がものを言う。同じ年頃の娘と比べても、祈は身長も低く、当然体重も軽い。多少鍛えた所で、この拳の軽さは早々に補えるものではない。ならば、それを補うには、他から力を拝借するしかない。
速さがそうだ。武蔵が以前闘技場で見せた拳圧を飛ばす技の正体は、音速をも超える速さが生み出した衝撃波だ。だが、そこまでの速さは、祈にはまだ出せもしないし、もし仮に出せたとしても、まだ出来上がってもいない身体が、その反動に耐えられもしない。
だから祈は、拳に破邪の呪を纏い殴りつけてみたのだ。その試みは成功したと言えよう。
「くぬっ、小癪な技をつかいよる。我の美しい肉体を傷つけた事、後悔させてやる」
邪竜は祈に向け口を開き、憎々しげに咆えた。その衝撃波は、太陽の無い、彼岸の空に風穴を開ける程の威力をみせた。祈は間際に邪竜の背後に跳び、それを難なく回避していたのだが、途轍もないその威力を目の当たりにし、血の気が失せる。
アレを喰らえば、確実に跡形も無く消滅する。それを嫌でも理解させられたのだ。
「何が美しい肉体だ。お前、自己評価が高過ぎるんだよ!」
だが、そんな弱気を、祈は一瞬で投げ捨てた。こいつはかあさまの思い出を穢した。謝っても絶対に許さない。
九字を切り、邪竜に向けて呪を飛ばす。祈の強力な念の網が、邪竜の顎を幾重にも縛り付け、強引に締め上げる。捕縛呪の応用だ。
蔵での出来事の失敗を繰り返さない為にと、祈は自身のできる事の引き出しを数多く求めた。
俊明から学んだ呪術は、とにかく種類が多く、やれる事の幅が広かった。そしてまた応用がよく利いた。ただ、強力な呪の行使には、予めそれ専用に認めた呪符が必要であったり、確実に決められた手順の印を結ぶ等の細かい制約はあったが、マナの無い所での戦闘を想定すれば、これを学ばない手は無かった。
顎を中心に縛り上げられ、僅かの隙間も口を開くことが叶わなくなった邪竜は、辺り構わず雷光を無差別にばら捲く。的が小さ過ぎるための苦肉の策であろうか。
雷光をかい潜って眉間に跳び、破邪の拳を何度も何度も邪竜に叩き付ける。邪竜の額が割れ、血飛沫が上がる。
祈は、殴った。
殴った。
殴った。
殴った。
もう一度印を結び、両手に呪を纏う。そして、また殴った。
返り血などお構いなしに、祈はその作業を、機械的に続けた。
彼我の体格差が過ぎた愚に今更気付いたのか、邪竜は自身の身体の大きさを一気に縮める。鼻面に馬乗りになって額を割る冷酷な作業を続けていた祈の手をすり抜け、キツく縛り上げられていた呪からも邪竜は逃れた。
「おのれおのれおのれ、駆流の血族め……ここまで我の前に立ちはだかるか」
悔しさに歯噛みする様に、邪竜は咆えた。
魂の弱った小娘なぞ、すぐに圧倒できた筈だ。なのにそうならない事に苛立ちを覚えたのか、邪竜は黒い雷を喚び、それを全身に纏った。
黒き雷と化した邪竜は、祈に向け矢の如く飛びかかる。高速で迫る雷の突進を、跳躍して躱し続ける。そのあまりの速度に、祈は印を結ぶ余裕すら見いだせなかった。
どのくらいそれが続いただろうか? 祈の目から見ても、邪竜の傷はすでに癒えている様に映った。
祈の全身を赤く染めていた夥しい返り血は、それと気が付いた時には、何故か全て無くなっていた。
その喉奥に刺さった魚の小骨の様な違和感に、祈は言い様の無い不安を覚えた。
(何だろう? よく判んないけど、おかしい……殴った時の手応えもそうだけど、呪の反動も無さ過ぎる気が……)
考えてみたら、此処は彼岸ではないのだ。ならば、何処なのだろう?
守護霊達との魂の連結が外れているのは確かではある、この様な景色の国があるのか知らないが、多少遠くに離れていたとしても、その気配を見失う事なぞあり得ない。少なくとも、現実世界ではないだろう。
……まさか。
邪竜の突進を跳躍で躱し、その後もう一度跳躍し、大きく距離を開ける。
そして、自身の尾の先端をもう一度検めた。透明な鱗の刃は、確かに見当たらない。
ならば。
刃のあるだろうその箇所に指を向ける。そこには確かに、覚えのある冷たい感触があった。証の太刀は、身体から離れていないという事だ。
この場所だけではなく、全てがまやかしであるのか。未だ確信には至らないが、祈はそれに賭けた。
自身に向け、破夢の呪をかける為に印を結ぶ。全てが幻覚であるのならば、これで脱する事ができる。ただの勘違いなら、この隙に雷竜の突進を喰らうだろう。
果たして……
祈は賭けに勝った。大当たりだった。
破夢の呪が成った途端、周囲の景色の全てが消え失せ、辺りは暗闇に包まれたのだ。
祈の目の前には、これは邪竜であろうか? 一人の少女が佇んでいた。
黒髪で褐色の肌をしていたが、それ以外は祈と瓜二つの少女だ。
「ほう。漸く気付きおったか、駆流の裔よ。お前、我の事を『頭が悪過ぎる』と評したが、お前の方こそ残念な頭をしておった様じゃな」
人を小馬鹿にする様な目付きと声色に、祈はイラッとした。だが、邪竜に何も言い返せなかった。確かにヒントはあったのだ。
「お前は確かに、無手においても、我に傷を付ける程の異常なまでの力を持っておる。じゃが、何事にも浅慮が過ぎるの。自身の力に振り回されておる様では、宝の持ち腐れというもの。お前はあまりにも未熟じゃ」
だから、まだ主とは認められぬ。そう邪竜は言った。
「生まれたての断末魔とは、例え神が創り出した結界をも貫きかねん。アレを防ぐには、確固たる”己が意思の力”しかないのは、お前も承知していた筈。何故、あの様な暴挙に出たのじゃ?」
牛田の陣地に煉獄を撃ち込んだ事を、邪竜は指しているのだろうというのはすぐに察することができた。だが祈は、その問いについては、何も言えなかった。
ただの衝動だったと片付けるのには、あまりにも恨みの念が深く、尾噛の民達の仇討ちのつもりだったと言うには、あまりに偽善で嘘臭い気がした。何故かと問われる答えには、理由がどれも弱いのでは? と、祈は感じてしまっていたのだ。
「お前は、度重なる鎮魂によって、昇天させた魂達の意識に引っ張られ過ぎた。お前は確かに、あれ等人の軍に強い恨みを抱いたのであろう。じゃが、実際に襲われ、殺された人々の意識に深く関わり過ぎた。お前がそれと気付かぬ内に、猛烈な殺意を抱く様に仕向けられておったのじゃ」
邪竜の少女は、祈の額に右の人差し指を這わせる。少女の指が触れた箇所は、サークレットの様な形の金色の幾何学模様が浮かび上がる。
「お前は未熟が過ぎる。死人達に同情をするなとは言わぬ。じゃが、簡単にそれに引っ張られる為体では、お前は近い内に、今回と同様の事を繰り返し、何れ破滅の刻を迎えようて。此度はその寸前で、お前の心を切り離すので精一杯じゃったよ……良いか? 心を鍛えよ。我はこうして、お前の魂への抵抗力をつけてやることしか、もうしてやれぬのでな……」
「何で、あなたはここまでしてくれるの……?」
先ほどまでの強烈な殺意の視線は、完全に幻覚であった。それは理解できた。だが、祈には邪竜にここまでの愛情を向けられる覚えが無かった。戸惑いが過ぎた。
「お前は、我の血によって生まれ変わった駆流の裔じゃからの。我が子も同然じゃ。どうしてそれを害せようか……」
駆流は邪竜の血を浴び、竜鱗人にその身体を作り替えられた。その後太刀の加護によって、更に肉体を竜のそれへと近付けたのだという。その血を受け継いでいる祈は、邪竜にとっては血を分けた家族も同然なのだ。無償の愛を向けて当然の存在なのだと。
祈はたまらず、邪竜の少女をその腕に抱きしめた。どうしてその様な行動に出たのか、祈自身も判らない。でも、胸の奥から込み上げる深い感謝を示すためには、こうせずにはいられなかった。
「さて、そろそろお前の守護者達が痺れを切らす頃じゃろう。彼奴等は少々甘やかしすぎじゃ。じゃからこうなったのじゃと、後でキツく叱ってやらねばのぅ」
祈の頭を撫で、邪竜の少女は淡く微笑む。
「今回限りじゃ。もう我は、二度と手を貸さぬぞえ。お前が我の真の主になれるか、それは未知数じゃ。鍛えよ、我を真に望むのであれば。じゃが、その様な時が来ぬ方が、お前は幸せかも知れぬがな……」
祈の周囲を光が包む。ここから出る時が来た様だ。
「ありがとう。私は絶対に、あなたを手にしてみせる。だから、ずっと私を見守っててね……」
邪竜の少女は、光と共に消えゆく裔の少女に手を振ってみせた。
心の世界の奥底から、現実世界へと、祈の意識は浮上する。
今度こそ、”尾噛の地”を、護る為に。
誤字脱字あったらごめんなさい。




