第41話 竜王
「あら。お帰りなさい、負け犬さん。ああ、これからは”負けアキ”と呼んであげようかしら?」
「いやいや、マグナリア殿。確かにこの御仁は惨めな負け犬にござるが、名前がそれと解る様に”俊犬”と呼んで差し上げるべきではござらんか? ああ、しかし哀れな犬っころでも、あんな間抜けな失敗はせんでしょうなぁ……」
「んじゃ、間を取って”馬鹿犬”って事で。ね、馬鹿犬ちゃん?」
「……てーかそれ、もうどこにも原型残ってねぇじゃんかよ」
がっくりと項垂れたまま自陣に戻ってきた俊明を待っていたのは、魂の兄弟達からの愛の罵倒であった。
自身で提案した『声を出したら負け』の規定を、自らが破るという恥を晒した為に、俊明は二人の罵倒に対し強く出る事ができないでいた。
例えばであるが、俊明の術中に嵌まってしまった牛頭の女術士の様に、激痛に耐え切れず、ついに声が漏れ出てしまった。
……と云う様なやむを得ない事情があれば、ここまで罵られる事なぞ無く、まだ救いはあっただろう。
だが、この”馬鹿犬”こと俊明さんは、相手にセクハラ三昧をしかけ、前後の見境すら無くす程にもの凄く興奮してしまい、ついつい奇声を挙げたのだ。
ただ欲望の赴くままHENTAI心を暴発させ、無意識にかました挙げ句の大失敗なのだ。誰もフォローする気など起きよう筈も無いのは、当然のことであろう。
「口答えは許さないわよ、この馬鹿の負け犬さん。あんな恥ずかしい負け方をする勇者なんか、あたし初めて見たわよ」
マグナリアは、俊明に対し本気で怒っている様であった。
三人は、呪術、剣術、魔術の各分野において、それぞれが”最強”を自負してきたのだ。その中の一人が、あんな何でも無い凡百のただの術士相手に、恥ずかしくも自爆によって負けたのだ。赦される筈など無い。
「然り。拙者も、負け犬殿への評価を改めねばなりますまい。かの様な者が、拙者達の”魂の長兄”かと思うと、拙者、恥ずかしさのあまり思わず自害したくなり申す」
よよよ。と、大げさに袖で涙を拭う仕草をしながら、武蔵はマグナリアに同調する。この際、徹底的にやってやろうという意図が、俊明の目からもよく解った。
「な、なぁ、祈。お前はこんな薄情な奴らみたいに、俺を虐めないよな? なっ?」
多勢に無勢。更に言えば、エロ身から出た恥錆である。反撃なぞできよう筈も無い俊明は、守護霊達にとって絶対者である祈に助けを求めた。
「お前の笑顔だけが、俺の救いだよ。マイスイートハニー」
最愛の娘の前に膝をつき、右手を差し出して、俊明は渾身の笑顔でキメてみせた。
「……ごめん、とっしー。正直言って、ドン引きした」
「ぐっはぁぁぁぁっ!」
最愛の娘からは、絶対零度の視線と、抑揚の全く無い平坦な声が漏れた。その思いがけない大ダメージに、俊明はその場に顔面から倒れこむ。
(あかん。この性癖の扉は、絶対に開いたらあかん奴やでぇ……)
しかし、そんな祈の言の葉の斬れ味に、ちょっと表現にするには難しく言い様の無い、僅かな快感の電流が背中を走る感覚に、俊明は自身に潜む性癖の扉の種類の多さと業の深さに、とてつもない恐怖を覚えるのであった。
「次っ副将戦! 双方の代表者、前へっ!」
「じゃ、行ってくんね」
「祈、無茶しちゃダメだからね? 危ないと思ったら迷うことなく棄権を言うんだよ?」
「イノリ、ガンガンやっちゃいなさい。あなたなら大丈夫」
「祈殿、冷静に相手を見る事が、肝要でござる。相手の力量を見極める事が、一対一の戦いにおいて、最も必要な事でござれば」
自陣に控える仲間達が、竜の娘へ次々に声をかける。
そのどれもを胸にしまい、祈は心強さに奮い立った。
「祈っ! 俺が言えた筋じゃないが、頑張れよっ! お前が今出せる一番強い式、四海竜王なら絶対勝てるからなっ。ああでも四海竜王からは一人だけ、北海黒竜王だけ喚べ。解ったな?」
俊明の言葉に、祈は分かったと頷いた。当然、その意味をしっかりと理解した上で。
牛頭の副将は、先ほどの女術士と同じ様な、ゆったりとした装束を身に纏った、痩せこけた険のある男であった。尾噛の陣地から、ちょこちょこと歩いてくる祈の姿を目にし、険しかった表情が僅かに緩み、憐憫の視線を竜の娘に向けた。
(姫として、今まで何不自由なく暮らせておっただろうに、両家の諍いに巻き込まれ、この様な場で見世物が如き扱いを受けようとは哀れなり……せめて、苦しませず直ぐに終わらせてやらねば……)
「あれが、尾噛の姫様だってよ……」
「ちっこくて可愛い。お人形さんみたい。本当にこんな所に来て、大丈夫なのかしら?」
「いくら英雄の家の娘っつったって、あんな年端もいかない娘っ子が本当に戦えるのか……?」
祈の姿を見た観客達は、皆が同様の感想を持っていた。
武家の娘だというが、戦いの心得はあるのか?
もしあったとして、あんな小さな子供が、大人相手に満足に戦えるのか?
誰彼憚らず、血を見に来たとは決して言えない。けど実際見たいから来た訳だが……でも、だからと言って、こんな年端もいかない娘の傷つく姿なんか見たくないぞ……
どう想像しても、あの様な小さな体躯の子供。尾噛の娘が勝つなんて映像が、思い浮かばないのだ。観客席の誰もが、娘が為す術も無く血の海に沈むという惨劇の結末を、脳裏に思い描き、ぶるりと身を震わせる。
「尾噛が長女、祈と申します。よろしくお願いしますね」
祈は主審と、対戦相手に丁寧にお辞儀をし、笑顔で挨拶をした。
どんな人にも、必ず挨拶をすること。みんなと仲良くする為には、その人その人を良く知る事。その為には、挨拶は絶対に欠かせないのよ。そう祀梨から教わってきたのを、祈は常に実践していたのだ。
「牛頭が副将、船斗と申す。悪い事は言わぬ。今すぐ棄権する事をお勧めする。私の扱う術は、一切の手加減ができぬのでな……」
船斗が使うのは、精霊召喚術。彼は精霊使いであった。あらかじめ契約した精霊に、マナを使い仮初めの肉体を与え使役し、戦う珍しい術である。
精霊使いは、契約した精霊の格によってその強さに大きな開きがあるが、精霊使いの手によって受肉した精霊の力は、たとえ下級精霊であっても一般の魔術士のそれを超える場合が非常に多い。
だが、攻撃の精度や強さ、標的を細かく指示せねばならず、使役する精霊の種類によっては知能の差があまりにもあるが故に、意思伝達とそのタイムラグという難点があり扱い難い。その為、術士の中でもかなりマイナーな系統であった。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。『何事もやってみろ。ダメならそれまでだ』……なんて、私の師匠達は、常々言ってますので」
祈はニッコリ微笑みながら、船斗の気遣いに感謝していた。嫌味ではなく、本心から心配してくれているのが解ったからだ。そして、師匠達の言葉も本当の事である。ただ、口ではそう言いながらも、常に内心ハラハラし通しで、何かありそうならば、即座に手を出す過保護っぷりであるのだが。
「……そうか。ならば仕方ない。怪我をしても恨まんでくれよ」
船斗は覚悟を決めた。例え裏で”小娘如きに何本気出してんだい”と蔑まれようとも、仕えた家命には全力で応えるのが、自分の仕事であるのだと。
「それでは、双方、勝利条件の提示はあるか?」
「ごめんなさい。思いつかなかったんで、ありません」
「こっちも、無い」
律儀に謝る祈の姿に、ついつい頬が緩む主審と船斗であったが、これはいかんと気を引き締め直し、活っ! と気合いを入れるのであった。
「それでは、いざ、尋常に勝負!」
「出ろ! 水の精よ!」
開始と共に、船斗は腰に下げた壷の蓋を開き、自身の契約精霊を喚び出した。船斗は水の精と契約していた。”天女”という呼称に相応しい、美しい女性の姿の水妖である。
「我が召喚の声に応じ出でよ! 北海黒竜王、敖順!!」
祈は今現在の能力で使役できる最大の式を喚ぶ。もしこの戦いに敗れたら、おそらく祈は意識を失ったまま死ぬ事になるだろう。それほどまでに膨大な霊力を、竜王は要求し、喰らうのだ。
竜の娘の霊力を喰らい、闇より昏き鱗を身に纏いし、四海に封ぜられた竜王の一人がその長大な姿を現し、召喚者の娘を護るが如く身をくねらせ、殺意の光を船斗に向けた。
お伽噺や、噂でしか耳にした事が無く、空想上の生物である……そう思っていたはずの竜が、今目の前に、頭の中で思い描いていた通りの姿で、闘技場の中央にいる。
尾噛陣営の一部を除く闘技場にいる全ての人間が、その殺意溢るる畏るべき異界の美に、言葉を亡くしていた。
「ぐぅっ……何という威圧感。これが、竜というやつなのか」
船斗は竜王から放たれる強烈な殺意と、その存在感に、身体の底から凍える様な畏怖を覚えた。
そして今この場で攻撃を命じたとしても、水の精は絶対に応じる事は無いだろうとも確信していた。使役者である船斗同様、完全に怯えきってしまっているのだ。『格の違い』などと表現するのも馬鹿らしい状態である。
黒竜王はこの闘技場にいる全ての人間に向け、咆吼をあげた。
その声だけで闘技場全体が震え、天井の岩板が軋み、照明が揺れた。もしここで竜王が少しでも本気を出したら、この場にいる人間全てが助かる事は無いだろう。だが、誰もが未体験の恐怖によって、声を出す事も、身じろぎ一つ取る事もできなかったのだ。
「……このまま、続け、ますか?」
式を維持するだけでも、今の祈にはかなりの苦痛であった。それほどまでに竜王とは大食いで、さらに制御が難しかったのだ。だが、それでも目の前の牛頭の副将と、その使役精霊を殺す猶予は充分にある。降伏せねばやるしかない。その為の確認である。
「……勝てぬ。棄権する」
船斗は観念した。相手に向けるべき戦意を、恐怖によって完全に喪失したのだ。こうなってはもう戦えぬ。
「勝者、尾噛!」
主審の勝利宣言の声を聞き、集中を解いた祈は、竜王に帰還を命じる。敖順はその命に従い、契約者に労りの眼を向けながら、何も言わず消えていった。
「ただいまぁ。ああ、つかれた……」
「おかえり、イノリちゃん」
「祈殿、お帰りなさいでござる。拙者、読み物で知っただけでしたが、四海竜王とは、ほんに大きゅうござったなぁ」
「だから、一人だけ喚べって言ったのさ。全員喚んだら、その身体に全員押しつぶされて死ぬしかないからな。後、なんで黒竜王って指定したかっていうと、南海紅竜王は人嫌いが酷くて、こんな大人数の人間がいる所に喚んだら、まず皆殺しするまで暴れる。んで、西海白竜王はやんちゃな上にチョーシこきでな? 祈みたいな小さな子供が召喚したら、舐めてかかって命令を聞かない可能性がある。んで、一番厄介なのが東海青竜王だ。こいつ四人いっぺんに喚んだ時は、召喚者の為に残り三人にしっかり指示するんだけど 何故か一人だけで喚ぶと何をしでかすか解らない。怒りのスイッチがどこにあるか判んねぇんだあいつ。だから、一番大人しく内向的な黒竜王をって消去法だったのさ」
「……そんな扱い難いのを指示しちゃダメでしょうに。もっとマシなのなかったの?」
「いやぁ、この国でなら、竜王使うのが一番かなって。だってよ”竜殺しの英雄”の末裔の娘が、人前で竜を使役してみせたんだぜ? もう誰も逆らおうなんて考えないだろうさ」
薄い額をピシャピシャと叩きながら、俊明は愉快だと笑う。もうこれで尾噛家を馬鹿にする奴は、この国に居なくなるだろう。何せ、長女を怒らせたら竜王が飛んでくるという事実を世間に示したのだ。これが当主ならばどうなることか。噂が噂を呼び、尾ひれだけでなく、背びれ胸びれは、最低限付くであろう。楽しい未来が予想できるというものだ。
「祈、お疲れ様。後は僕だけだね。全てに決着を付けてくるよ」
「うん。兄様、頑張って」
最愛の妹の激励を受け、尾噛の頭、望が席を立った。
一人しか出しませんでしたが、四海竜王の名は『西遊記』準拠です。
誤字脱字あったらごめんなさい。




