第319話 秘密指令
その日、楊 美龍の一日の始まりは最悪だった。
「申し訳ありませぬ。美龍様の膳の主菜が……」
まだ新人の女房が、美龍のお膳ごと落としてしまい、何も残っておらぬ。そう云うのだ。
飯と汁。それに副菜の漬け菜は、家人用として大量に作ってある。だが、同僚たる雪 琥珀同様、美龍の燃費は頗る悪く、他の家人と同じ物だけでは、到底昼餉の時間まで腹が保たない。
その為、内容が魚、肉のどちらであれ。大きめの主菜の皿が別に必ず付く。
「哎呀……何か他に無いのカ?」
「申し訳ありませぬ。生憎他にあるのは、明太子くらいで……」
「哎呀」
辛子明太子は、琥珀の大好物で。その自腹を切ってまで、常に確保しているものだ。当然、その承諾を得ず、余人が勝手に扱って良いものではない。
「ああ。鶏卵でしたら、幾つか出せる。かと」
「……それは今、美美の為に使ってしまっても大丈夫な奴カ?」
この時代、この世界に於いて。
鶏卵は、かなりの贅沢品であり、それ故に特別な日に出される事の多い食材でもある。
「それはっ……」
女房のこの反応を見て、美龍は半ば諦めるかの様に大きく溜息を付いた。
ここで無駄にごねても女房達が困るだけで、一向に腹が膨れはしないのは明らかだ。
しかも、無理に代替の食糧を求めてみたとて、結局のところ他人の腹が減る結果に繋がるのであれば、無駄に方々に怨みを買ってしまうだけで何の意味もない。
「解ったヨー。仕方無いから、その分美美用の漬け菜とお櫃は、何時もよりマシマシで宜しくネ」
動物性タンパク質が補えなくとも、それと同等の熱量を摂取すれば、少なくとも昼餉まで保つだろう。その判断で美龍は女房に告げる。
どうしても足りなければ、少し足を拡げ海に行けば良い。
(そうだ。今日は一日、釣り糸を垂れて過ごすのも良いネー)
『幸せになりたければ、釣りを覚えろ』
嘗て中央大陸には、その様な格言があったと訊く。
一日中じっとしている、だなんて。
この言葉を聞いた当時、美龍は自身はどうにも耐えられそうにないし、全然幸せになれる訳もない。そう思っていたのだが。
「釣ったお魚をどうやっテ食べようカ? それ想像するだけで、わりと幸せ感じるネ☆」
釣りたての魚を、その場で捌いて食べる。
その様子を少し妄想してみただけで、白米の消費がマッハだ。
「主菜は全然要らなかったーヨ。想像だけで、お米の消費が捗るネ♡」
釣り竿と針は。
それを休日の趣味とする祟に云えば、上等な物が手に入るはずだ。
ただ、ひとり息子の真智が生まれてからは。その趣味自体が”息子”に移り、トンとご無沙汰の様だが。
「まぁ、だかラ遠慮無く訊ける訳ヨ。もし壊してしまってモ、きっと無問題ネ☆」
────そんな訳あるかい。
そんな独り言にしては、やたら大きな声を聞いた女房達は。一斉に心の中でツッコミを入れたが、今までの経緯もあり、美龍に対して強く言えない。全員、聞き流す事にした様だ。
(御屋形様、申し訳ありませぬ。私達のせいで……)
”地頭”祟は。
釣り好きが講じて、釣り道具を自作するほどに嵌まっていたのだ。
さて。その様な人間の道具を、素人同然の、しかも道具に頓着しない人間が扱えばどうなるか?
女房達は。
遠く無い未来に起こる出来事に思いを馳せ、そして想像上の自身の主へと深く頭を垂れた。
◇ ◆ ◇
「ごめん、美龍。暫くの間、静に付いててくれない?」
釣り道具を借りようと、祟の下へと赴いてみたら。
祈に、そうお願いされてしまった。
祟と祈は夫婦なのだから、食事を一緒に摂っていて何の不思議も無い。
だが、今日一日の自由が、何気無いその一言で崩れ去るとは。
美龍は思ってもみなかったのだ。
「……ダメだった? ごめん。美龍にも予定あったよね、今の忘れて。翠にお願いするから大丈夫だよ」
美龍本人は、”主従”なのだと云う思いから、最低限の節度を持って祈と接しているつもりだが。
祈の方には、あまりその感覚は無い様で。わりと”家族”のそれに近い態度だ。
「あ、ああああ。主さま大丈夫ヨーっ。美美、この処ズッと暇で暇で。余りに暇過ぎるカラ、祟様に釣り道具借りに来ただけネ。お仕事くれるなラ、それで無問題ヨーっ!」
一瞬曇った美龍の表情を察し、そのお願いを引っ込めようとするものだから。逆に美龍の方が慌ててしまったと云う。
とはいえ。腹の中が、
『釣った魚でお腹をいっぱいにするヨ!』
で、今日一日の行動を決めていた美龍にとっては。
まるで振って湧いた”想定外”に抗議するかの様に、腹の虫が盛大に鳴いた。
◇ ◆ ◇
「……ってナ訳で。とうぶん金魚の糞が決定したカラ。そのつもりでいてチョーよ?」
「ぇー……」
貴族の子女としては。今わりとしてはイケない表情をした静はと云うと。
小さい頃から、ほぼずっと近くにいて何でも相談できた”お姉さん”役の美龍が、正式に”側付き”となったその事実に。
(嫌だなぁ。なんだか”監視”されてるみたいで)
その肌感覚から来る”予感”は。
『静がやらかさないか、側で視ていて欲しいの。特に、あの”死にたがり”とは絶対接触禁止で』
(……なんて、主さまから云われたケレど。やっぱり逃げとクべきだったーヨ。これ、絶対貧乏くじっテ奴ヨー)
地獄巡りの最中に”閻魔裁き”を受けて身に付けた、人並みの”霊感”による賜物で。
そもそも、”魔の尾噛”の娘である静を相手に。物怖じせず、はっきり物申せる人間なんて此の"倉敷”の都に早々居はしない。
此度の一件、何故美龍に白羽の矢が立ったのかと云えば。
丁度思い付いた時、その場に居合わせてしまったから。
と云う理由こそが一番だったのだが、特に定められた仕事も無く、日中わりとブラブラしている人間は……の、所謂消去法だったのも確かに在る。
「本当に。今日という日は、始まりから美美碌なメに遭って無いヨー」
いや、想像上のお魚たちはとても美味であったし、それをオカズに頬張った白米は何時もよりも甘さを感じ、幸せも同時に噛み締めたものだが。
「……? メー、どったの??」
「なんでもないから、全然気にしないでイーよ。ちょっと、人生について検めて思う事案があっただけヨ……」
人生お気楽極楽。
美味しい白米さえあれば、それで幸せ。
そう常々、周りに言って憚りもしなかった美龍だけれど。
(まさか、本当に周りからそう思われてたノカと思うと。少しは真面目ぶった方が良かったーヨ)
そんな消極的でつまらない理由だけで、この重要かつ面倒な任務を任されてしまうとは。
流石の美龍も、全然思ってもみなかったのだ。
目下の問題は。
「ね、ね? メーはさ、あの傷だらけだった兵隊さんのこと、何か知らない?」
現在、接触絶対禁止の指令が出ている、件の彼への対応に付いてどうするか? だ。
「美美、何も聞いて無いヨー。そんな気になるナラ、貴女のお母さまに直接訊くべきネ」
実際、美龍は”死にたがり”に付いて、詳しい事情は祈から何も聞いてはいない。
自身が、彼に欠片も興味が湧かなかった……ただそれだけに過ぎないが。
「そっかー。私さ、あの兵隊さんのこと、一目見た時からすっごく気になっちゃってさぁ。これが”一目惚れ”って奴なんだろうなって」
「うっへ」
いつも近くで面倒を見てきた娘の、”女の顔”を見てしまうとは。
その視覚的衝撃の程は。
(参ったネ。これ、軽く心的外傷モノヨー。特に、”お姉さん”として生きてきただけに。わりと……)
主たる祈の時にあったそれよりも。
今回は完全なる”不意討ち”だっただけに。
「美美、急に用事を思い出したくなったカラ、今日は此処までにするヨ。おやすみなさいネ」
「待って、メー。まだお昼にもなってないってばっ!」
一度寝て起きたら。
不幸だった一日が、変わるカモ知れない。
そう願っていたい美龍だった。
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