第293話 元気な男の子です
その日、尾噛の邸宅にて。
新たな生命が、初めて声を挙げ泣いた。
「お慶び申し上げます、祟様。元気な男の子にござりまする」
「おおっ。何とも、何とも。祈よ、己の子を産んでくれて、本当に有り難う」
「いいえ、祟さま。その言葉こそ、私の方から申すべきにございましょう。貴方の子を産ませてくださり、ありがとうございまする」
これぞ生物の神秘と云うべきか。将又、ただの本能に基づく反射行動に過ぎぬのか。
赤子の口に、そっと乳房を近付けてみれば。
直ぐ様吸い付き、力の限り飲み始めた。
その様子を、少し離れた場所から遠慮勝ちに覗く様に佇む静を、夫婦は優しい表情で手招いた。
「ほら。おいで静。この子が、貴女の弟よ。さぁ、私達にこの子の名前、教えて頂戴」
「静よ、遠慮するでない。お前も、我らの愛すべき子なのだ。ほれ……」
「うっ、うん……」
────如何に自分が愛されているのか。
あれから何度も、二人からの想いを聞かされて。
その都度、嬉しさと気恥ずかしさが入り交じる、何ともふわふわとした感覚を覚え。
でも、それでも。
やはり、いざ此の場面に遭遇すれば。
消えることなく、心の奥底に潜んでいたらしい”不安”が。消えずにこうして鎌首を擡げてきたのだ。
「安心しろ……等とは。その様な無粋な言葉、父は吐きはせぬぞ。だが、これだけは覚えておいてくれ。お前に注ぐ愛は、今後も決して半分になったりはせぬ。むしろ、この子と合わせ倍よ。いいか? 倍だぞ、倍!」
「……ふふふっ、何それっ? 父さまったら、面白いことをっ!」
「ねぇ、本当に……でも、祟さま。たったの倍にございますか? 私を数に入れて戴けぬのでは、夫婦の今後を、少し考えていかねばなりませぬが?」
”最愛の妻”からの要求であれば。
祟は何でも応えてやるつもりだが。
「ぬっ?! 待て、祈よ。そもこもお前への愛は、元より減りはせぬ。それどころか青天井よっ! だから……」
”夫婦の今後”。再考せねばなるまい。
その様な言葉を妻の口から出て来るとは全く思ってなかった祟は。
滝のような冷や汗を流し、必死に弁明を始める。
「母さま。あまり父さまを苛めないであげて」
「だって。ここまで可愛い反応されると……ね? 静なら、絶対解ってくれると思ったんだけれどなぁ」
「……勘弁してくれ。己の寿命が、今ので確実に20年は縮んだぞ」
今の祟にとって。
最大の恐怖が、
『愛する家族に、愛想を尽かされてしまうこと』
なのだから、冗談でも絶対にやめて欲しいというのが本音だ。
特に、部下の文官が酒の席でふと漏らした……
「最近、娘も妻もわたしのことを無視するのです。しかも、”お母様。父のと私の着物を一緒に洗濯なんかしないで。臭いがうつるから絶対に嫌だ”と。それを妻は……」
その愚痴を聞き、祟は肝の芯から凍えたのだ。それは正に、酔いが一気に醒める程の”恐怖”だったのだ。
そんな”恐怖の未来”が、もし自身に降りかかりでもしたら。確実にその日の内に、祟は首を括るだろう。
「もう。母さま、冗談でもそんなこと言っちゃダメだよ? 父さま、絶対泣いちゃうモン」
「……うむ。己、さめざめと泣くぞ。それでも良いのかや?」
「ごめんて……」
愛されているという確かな自覚はあったが。
此処までだとは流石に思っていなかったらしく、頬を赤らめながらも祈は素直に二人に頭を下げた。
腹も満たされたのか、その様子を不思議そうに見つめる赤子の瞳には。三人の家族の、幸せそうな笑い顔が映っていた。
◇ ◆ ◇
男の子の名を、静は”真智”と付けた。
真の知恵へと到達できる様に。そして、その英知を遍く民に分かち与える徳を持った人物に育つ様に────
そんな願いを込めたのだと云う。
「我が娘ながら、ほんに良い名だ。これで一つの”義務”は果たした訳だの、祈や」
「……そうですね。”次代の尾噛”は、此で」
此の世界、此の時代と云うものは。
子が確実に生きて成人まで達する保障は無い。大体、その間に3割は死ぬ。その程度だ。
特に赤子なぞは、それこそ軽い風邪やら、ちょっとした下痢程度で簡単に命を落としてしまう。
決して油断はできない。
現代でこそ、産後すぐ赤子を産湯に浸けるのが常識だが、この時代、産湯は生後三日後辺りになる。
切った臍帯から感染症が引き起こる可能性を、経験則から避けていたのだろう。
男の子がひとり生まれたからと云って。家は安泰────とは、決していかないのだ。
「我ら夫婦の手があれば、恐らくは大丈夫だと思うが……」
「それでも、やはり不安は尽きませぬ。何分、我らにとっても初めて尽くしでございますし……」
祟の”言霊”に。祈の”魔術”と”呪術”が揃えば。
それが邪気、瘴気の類いに分するモノであれば、真智の身には何の心配も要らないはずだ。
だが、祈の言う通り。赤子からの育児は、二人とも初めての経験となるのだ。
経験豊富な女房に、乳母も確と揃えはしたが。
「心配せんでええさ。我が愛する孫を護るは、この”お婆ちゃま♡”の役目よ。我に全部任せるわいな☆」
「……要らないから。今すぐ帰って」
誤字脱字等ありましたら、ご指摘どうかよろしくお願いいたします。
評価、ブクマいただけたら大変嬉しいです。よろしくお願いします。
ついでに各種リアクションも一緒に戴けると、今後へより一層の励みとなります。




