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第238話 決して後ろを振り向くな



 「祈さま、血の臭いがします」


 獣人種であり、<白虎>の眷属でもある(すすぎ)琥珀こはくの嗅覚は、通常人類種のそれよりも遙かに優れている。


 遠くからの風に乗ってきたのであろう、その()()は噎せ返る程に濃厚で、どちらかと言えば、すでに血よりも臓物の臭いにも等しいものだった。


 「……これ、美美(メイメイ)の全然知らない臭いネ。魔物なのか、獣なのか。ホントさっぱりヨー」


 (ヤン)美龍(メイロン)も琥珀と同じ様に鼻をひくつかせながら首を傾げる。彼女は<青龍>の眷属であり、また他の種族より遙かに感覚器官が鋭く発達している。血の臭いを嗅ぎ分ける程度は、訳も無い。


 その美龍が言うのだ。『知らない』と。それは何を指すのか? 祈の脳裏に警鐘が鳴り響く。


 「だったら、ちょっと急いだ方が良いかな? 琥珀、美龍っ!」


 「「はい(是)」」


 祈の預かり知らぬ間に、すっかり参謀役へと収まっていた牙狼(がろ)(くろがね)が、苦心して編成してくれたのであろう”護衛”達をあっさりと置き去りにして、三人は風に乗って運ばれてくる血の臭いのする方へと一気に加速した。


 <五聖獣>の加護と祝福を受けた超越者たる三人にとって、”距離”などという”概念”は、すでに大した障害にもならぬ程に意味の薄いものとなっていた。


 三人の動きは、すでに”駆ける”というよりも”跳ぶ”と表現した方が、より現実に近しいのかも知れない。事実、空間の壁を跳び越えているのだから。


 (うん? 確かに私は、()()を知らない。何だろ……?)


 ”超人”以上の二人の嗅覚とは違い、祈の鼻は並程度だ。その代わり、祈は霊界に通じている眼と、常人には無い第六感が備わっている。


 その第六感に触れてきた()()は、祈の”悪い予感”を、正に肯定するモノだった。


 『腹が減った』


 『足りない。全然足りない』


 『食わせろ。もっと、もっと食わせろ』


 ……言うなれば、食欲。


 絶対に満たされる事の無い、焦燥にも似た飢餓。


 全ての生物は、当然、生きる為に食わねばならぬ。いや。最早、食う為に生きているのだと断言しても、決して間違いでは無いだろう。


 生きる為に背負わされた、生物の”原罪”。


 その様なモノと、不意に触れてしまった祈の精神世界を侵食するかの様に、主の意思を無視して一気に拡がりを見せ始めた。(たちま)ちに祈の口腔内は唾液によって満たされ、胃が中のモノを溶かし、滋養を取り出さんが為に(にわか)に動き腹の虫が鳴き出したのだ。


 (これっ! お前はほんに学ばぬ娘よな)


 (ありがと、助かった……)


 祈の中に棲まう”証の太刀”……邪竜の加護でもある額の紋様(サークレット)が輝き、急激に沸き上がってきた祈の”食欲”は、同様に急速に収まった。


 (お前の”権能”は感受性。それ故に、簡単に他へと染まってしまう。だから我は、お前に何度も言うた筈だぞえ? 心を鍛えよと。こんな低級なモノに簡単に引っ張られてくれるな)


 (本当にごめん、完全に油断してた……)


 「主さま。お腹の虫さん、凄い音させたネー?」


 「後でご馳走作ります。ですので、祈さま。今暫しのご辛抱を」


 「……ううう……恥ずかしい」


 盛大に鳴ってしまった腹の虫は、今更誤魔化しも効く筈はない。


 帝国貴族としての体面(メッキ)なぞ、この二人の従者の前ではすでに剥がれ落ちてはいるが、それでも、淑女としての体裁までをも失いたくはなかった。


 それも、もう今更の話になってしまったのだが。


 だからこそ、琥珀の白々しくも優しいフォローが、祈の胸に余計に深く刺さるのだ。


 (くそっ、もう絶対に許さないんだからっ!)


 完全に八つ当たりになるであろう決意を胸に秘め、祈は二人を置いていくかの様に大きく跳んだ。



 ◇◆◇



 「くそ、ついに追い付かれてしもうたがか」


 「じゃが、見てみい。さっきより数は減っちゅうようやが」


 土佐衆筆頭の明神(みょうじん)晴信はるのぶが全力で構築した大地壁(アース・ウォール)を乗り越えてきたのか、はたまた迂回したのか。蜥蜴の群れは、少しずつ、少しずつ土佐衆の男達との距離を詰めてきていた。


 ふと後ろを振り向けば、すぐそこまで迫ってきた蜥蜴達の牙に、屈強な土佐の男達の肝は芯から凍えた。


 「……ここまでかよっ!」


 ありったけの生命力(プラーナ)を大地壁に注いだが為に、明神の足取りは”伊予の熊”である”五”を抱えたまま走る四人の男達よりも重かった。必死に足を動かしてはいるのだが、力が思う様に入っていかないのだ。


 (事を静観し過ぎたワシの失態じゃ。これはいかん。じゃが、このまま終わってたまるかよっ……)


 そもそもの発端こそが、晴信の慎重過ぎる性格によっての事態だが、彼は諦めも悪かった。このまま素直に蜥蜴に食われてやるつもりは彼の中では更々無い。


 (もうワシらの懐にゃ、食い物なんぞ残されちょらんがよ。いざとなったら”熊”を餌として捨て置く事も、考えちょかんとならんのやも知れん……)


 折角の貴重な対蜥蜴の”資料(サンプル)”であり、”証言者”たる”熊”を捨てる選択肢も視野に入れなくてはならない事態に、晴信の脳裏に少しの悔恨の念が過ぎる。


 しかし、それでも自分達が生き延びる事が出来なければ、ただ無意味な犬死にとなってしまうのだ。それだけは、絶対に避けねばならぬ。土佐の命運が、この後に控える”帝国”との交渉に掛かっているのだから。


 「じゃが、そんな外道をやっても持って数秒。やる意味があるのか、ちくっとも解らんのやけんどな……」


 『土佐の為』と、数々の鬼畜、外道の所行を指示してきた晴信だが、今回はその様な大義名分よりも、遙かに”我が身可愛さ”の面の方が強い。


 如何に今まで自身が周囲より”外道”の誹りを受けていると承知はしていても、これだけは決して我慢なぞできなかったのだ。そこが晴信の限界であり、潔癖な性格の表れでもあった。


 (……できる訳がない。ワシは”外道”ではあっても、"卑怯者”になんぞなりたくはないがやき……)


 残された生命力でも、もう一度壁を構築する事はできるだろう。晴信は覚悟を決めた。


 例え詠唱途中で食い付かれたとしても、自身の血肉によって数秒程度ならば蜥蜴共の足止めにはなるはずだ。


 「おまんらは走れ! 全力で駆けろっ! 決して後ろを振り向くなぞっ! この場、この地から、土佐の未来に繋がるがやき!」


 息は上がり、生命力はすでに枯渇寸前。初級魔術の詠唱すらも、恐らくは覚束無いだろう最悪の状態だ。


 それでも晴信には、意地があった。今まで貧しくも全力で”死国”という地獄を生き抜いてきた民を、土佐衆を率いてきたという意地が。


 「ワシゃきっと此処で死ぬる。じゃが、一匹でも多くのきさんらを連れて逝っちゃるがよ……」


 明神は両手を拡げ、周囲のマナを吸い上げる。


 呼吸が乱れているが為に、詠唱は最低限。きっと魔術の構築まで無傷ではいられないであろう事は、すでに覚悟の内だ。


 だから、晴信は大地壁を()()()()()()()()()のだ。


 「さぁ、蜥蜴ども。ワシの血肉を存分に喰らうがええがきに。じゃが、そんかわり一緒に地獄へと逝って貰うがきにっ!」


 蜥蜴達の飢えた牙が、晴信の肩に、足に突き刺さる。


 生命力が尽きかけて朦朧とする晴信の意識が、痛みによって覚醒される。魔術の構築に、少しだけ足りなかった生命力の代わりに、彼の身体から吹き出た血によって、それを補った。


 「大地壁よっ! さっきよりも高くっ! 大きくっ! そして、拡がれぇい!!」


 血液とは、生命の力そのものだ。


 万物の根源たるマナを燃焼する為の触媒として、これほどまでに適したモノは、もしかしたらこの世に存在しないのかも知れない。


 土佐の男達は、筆頭たる晴信の言を胸に、最後まで決して後ろを振り返る事は無かった。



誤字脱字がありましたらご指摘どうかよろしくお願いいたします。

評価、ブクマいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。

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