第235話 孤独な戦い
「くそ、くそっ……痛ぇ……」
大きく開いた傷口から、大量の血が流れる。
大きく開いた傷口から、流れた血と同量の命が抜け落ちていく。
その確信は、”五”の心の内に恐怖という名の冷たき弱気の刃が首筋にピタりと当たってくる様な、そんな昏い絶望感が襲う。
生まれて初めて味わった屈辱は、文字通り命の危機と隣り合わせで。
”熊の”族長”赤兜”の子である6人兄弟の中でも、最強の肉体を誇っていた”五”の自尊心は、敗北感に激しく打ちのめされた。
「あかん。何やっても怯まへん奴なんか、どないせぇっちゅうンじゃっ!」
最初の不意打ちでやられてしまった場所が悪かった。左の脹ら脛の筋肉の力は、逃げ足に直結するというのに。
だから、全力で迎撃した。
地を這う敵を相手取った経験を”五”は持ってはいなかったが、”伊予の熊”は、生まれながらの蹂躙者だ。面当向かって闘えば、例えどんな魔物であろうが、まず負けはしない。
飛びかかってくる”蜥蜴”の頭を片手で掴み、握りつぶす。
足下へと食らい付こうとする”蜥蜴”の頭を、踏みつぶす。
”五”の足下には、頭を失くした”蜥蜴”達の死体が、血溜まりの内にみるみると積み上がっていく。
どれだけの”蜥蜴”を潰したのだろうか? 8以上の数を数えられぬ”五”には、もう解らない。
襲いかかって来る”蜥蜴”の顎は、当然、正面からだけではない。
むしろ、正面から迫り来ていた”蜥蜴”は、何時しか同族の屍に嬉々として食らい付き、”五”の存在を忘れてすらいた程だ。
正面の攻撃がほぼ無くなりはしたが、左右の、しかも上下から迫り来る捕食の顎は、”五”の精神力と体力を削り続けた。
細く細かい牙の並ぶ爬虫類の顎では、如何に噛む力が優れていようとそれだけでは、覚悟を決めた”熊”の強靱な皮膚を貫き通し、肉へと到達させるのは困難だろう。
だが、例え皮膚を貫く事ができぬとも、浅く斬る事はできる。
噛み付きさえすれば、自重で獲物の動きを封じる事はできる。
共食いを何とも思わぬ”獣”に、そんな仲間意識が在るとは”五”には到底思えなかったが、結果そうなってしまっているのだ。両の肩を、腕を噛まれ、その分だけ迎撃への対応が遅れる。
「っがあぁぁぁっ!!」
”五”は、力の限り咆えた。
腹の底から声を出し、噛み付いたままの”蜥蜴”を棍棒の如く振り回し、飛びかかってくる”蜥蜴”に向け強引に叩き付けた。鋭い爬虫類の牙が、強力な遠心力を得て”熊”の堅い皮膚を裂き痛みが走るが、もう形振り構ってはいられない。
衝撃で口を離してしまった”蜥蜴”は、”五”の血の臭いに反応した同族達の無慈悲な牙が一斉に突き立ち、瞬く間に骨すらも残す事無くその胃袋の内に消えていった。
「なんやっ? なんなん? こいつらぁ……」
最初から、戦いの高揚感なぞ”五”の中には一切無かった。
個々の”戦力”は下等な人類種より少しはマシ、その程度だ。数は多いが”熊”の戦士にとって、そんなもの大して問題ではない。
問題があるとすれば……
いくら殺そうが。
いくら潰そうが。
敵は、表情が全く変わらない。
攻撃速度が、全く変わらない。
何よりも、全然怯まない点だ。
圧倒的な暴力を見せつけてやったというのに、だ。野の獣ですらも、ここまで群れに損害が出ては、怖じ気づき、確実に引き下がる事だろう。
(傷付いた同族を”喰う”んや。そもそも”群れ”の意識なんて、こいつらの中にゃあらへんねやろなぁ……)
だが、”蜥蜴”のその”共食い”をも躊躇いも無く平気でやってのける”習性”のお陰で、”五”はこうして未だ生き残っているのも、また事実だ。
「大体、解った」
”蜥蜴”は目の前にある肉に喰らい付く。流石に、無傷の同族は襲わない様だが、それが致命傷を負ったり、獲物の血が付着すれば、忽ちに躊躇は無くなる。
なれば、生き残る為にやる事は、きっとこれしかないだろう。
肩口から噛み付かれて血まみれになった右腕を振るう。
頭を潰した”蜥蜴”の骸を、足下から”五”に噛み付こうとする”蜥蜴”の目の前に落とす。
”熊”の血を被った”蜥蜴”達は、忽ちに後続の”蜥蜴”達に喰らい付かれ、”蜥蜴”の骸に、周囲の”蜥蜴”達は、我先にと覆い被さる様に群がる。
「……今やっ!」
僅かに出来た寸隙を利用し、”五”は大地を蹴った。
終わる気配の無い戦いなぞ、全然楽しくなんかない。
ましてや、生まれて初めて眼前にまで差し迫った”死の気配”に、身体の芯から震え上がった。逃げ延びる機会が、今なのだと”五”は確信した。しなければならなかった。
その希望に縋り、必死に足を動かさねば、すぐにでも意識を失いかねない。そこまで”五”の気力と体力は、削ぎ落ちていたのだ。
筋肉の大半を持っていかれたとはいえ、左足の腱は繋がっている。痛みを無視さえすれば、まだ動かす事はできる。
全速力。とまではいかなくとも”五”は今出せる限りの最大の速度で、森の中を駆けた。
”蜥蜴”から、逃れる為に。
今すぐにでも、奴らが追い付き後ろから襲ってくるのでは?
そんな幻視に怯えながら、”五”は必死にバランスを失った左右の足を動かし続けた。
手足を振った分だけ、多くの血を失いながら。
永劫にも似た時間を必死に走る”五”の体力と生命力に、唐突に陰りが訪れた。血を失いすぎたのだ。
次第に視界に靄がかかり、全身の感覚と共に、体温を失っていく。
激しく脈動する心臓と、激しい呼吸音だけが、辛うじて”五の”意識を繋ぎ止めていた。
(……あかん……”四”姉、ごめん……ワイ、もう逢えへん……わぁ……)
その我慢もそこまで。
まるで泥濘の中に全身が沈み込んでしまう様な、どろりとした冷たい感覚を覚えた時には、”五”の意識は、深い闇の中に消えていった。
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