第233話 いまからの選択
肉の焼ける香ばしい匂いが、満月の光すらをも通さぬ暗き深い森の中を漂う。
腹を空かせた旅人ならば……いや、腹を空かせてはいなくとも、この美味そうな匂いにきっと足を止めて、鼻をひくつかせてみせる事だろう。
森の中での野営で心がけねばならぬ事は、なるだけ『匂いを周囲に撒かない』事だ。
基本的に肉食獣とは、夜にこそ活発に動く。そこでこの様な”美味そうな匂い”を周囲にバラ撒けば、一体どうなるか?
……つまりは、そういう事だ。
旅の初心者ですら気に留めている筈であるこの”鉄則”を、肉が焼きあがる瞬間を今か今かと待ち望む女は全く知らない。
それどころか、態々獣が目の前に姿を現してくれるというなら、きっと全力で歓迎する事だろう。
メインディッシュの他に、おやつまでもが手に入る。そのまたとない機会になるのだから。
キラキラと滴り落ちる脂を眺め涎をたらしながら、肉が最高の状態に焼き上がる時を、女は身動ぎもせず、ただじっと待つ。
これは狼だろうか? 遠吠えが森の中を木霊する。
気の弱い見張り番ならば、不安感に押し潰されてしまうであろう獣の声を聞いても、女は特に気に留めはしない。
女の関心事は、闇鹿のもも肉の最高の焼き上がり。その一点だけだ。
待ち望むその瞬間が訪れた。女は懐に忍ばせていた粗塩の入った壷を取り出すと、その太い指に似合わぬ繊細な手付きで、炎に照らされた脂で輝く獣肉に振りかけた。
漸く待望のご馳走を前に、逸る気持ち抑えながらも両手でしっかり掴み、太い犬歯が目立つ大きな口を開けて豪快に齧り付く。
野生の獣の持つ独特の臭み、脂の旨味を口いっぱいに感じながら、歯の圧を押し返そうとする筋肉繊維を強引に顎の力で噛み断ち、力の限り咀嚼する。
「美味いな。”四”あ……ね……」
何時何時も側にいた筈の姉の名を、つい無意識の内に呼んでしまった。相手の居ない呼び掛けは、ただ虚しく空を震わせたのみで、当然返事なぞは無い。今はもう自分独りだけなのだと嫌でも現状を思い知らされ、”五”は顔いっぱいの渋面を作る。
「はぁ……寂しい……」
最初にあった筈の食欲の勢いは何処へやら。
空腹を訴え続け鳴る腹の虫を殊更無視し、この際生焼けでも全然構わぬと涎を垂らす獣の本能を頭から抑えつけながらも、焼き上がるその時を今か今かと待ち望んでいたというのに。
”五”が孤独を自覚してしまった途端、何故かご馳走である筈の闇鹿のもも肉が、急に味気ない物に思えてきた。
『なぁ……そろそろ、別行動にしよか? ”四”姉……』
その時は、きっとこれが最上の言葉なのだと、”五”はそう思っていた。
……思っていたのに。
「なんで、ワイはあんな事、”四”姉に言うてもうたんやろなぁ……?」
不意に涙が”五”の両目からポロリと零れ落ちた。
「あれ? なんや、これ……?」
最高の肉に、最高の焼き上がり。
そして、完璧な塩加減。
間違い無く美味い筈だ。
……その筈、なのに。
今晩のご馳走は、”熊”の獣人にとって妙に塩辛く感じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ふむ。これは……」
木簡に書き連ねられた文を眺め、漆黒の毛並みの、狼の特徴を色濃く持つ獣人の青年は低く唸った。
「ね、ね? 鉄様は、これ、どう思いますか?」
木片を握ったまま唸る鉄の様子に、祈の不安は少しだけ増す。この書簡に記された文の内容は、完全に祈達の想定外だったのだ。
「……この文だけでは、裏があるとは到底思えませんね。恐らくは……ですが、座して機を待つ間に、勝手に彼らの尻に火が付いたのでしょう」
「……勝手に?」
こてん。と、祈は首を横に傾げた。後ろに固く結いつけた白い髪の束が、重力に流される様にさらりと零れ落ちる。
「ええ。勝手に」
鉄は、祈と逆の方向に首を傾げてみせた。
木片に書かれた文は、土佐の頭目明神晴信の手によるものだ。
紙を用いる帝国とは違い、土佐には未だ紙を生成する技術が無いのか、はたまた貧しさの為に使わないだけなのか。そこは解らないが、彼らが用いる通信の手段は、木片に文を記す”木簡”が主の様だ。
文の内容はとても回りくどく、あまりに迂遠な書き方であったのだが、簡単に要約してしまうとこうだ。
『我々土佐の者は、帝国に帰属する用意がある』
色々な工作を仕掛け、果ては他の集落から犠牲者を何人も出したかの張本人が、何の謝罪も悪びれも無く、そして何の見返りも無しに俺達を保護しろ。そう言ってきたのだ。
この文は、自ら頭を下げる様に見せかけただけで、ただ一方的に、食糧と庇護を要求してきた。充分に悪質なやり口だ。
「ですが、和睦交渉をしたいと持ちかけてきた側の人間の癖に、また随分と強気ですよね?」
「ですから、ですよ。交渉前に大きく出て、その後。徐々に条件を緩和していく。最初に出された条件に比べればマシだなって思わせてしまえば勝ちっていうそれです。まぁ、詐欺の手口ですがね」
だが、この交渉術は、”相手が必ず交渉の席に座ってくれる”という大前提があって、初めて成り立つものだ。
その事を、土佐の明神某さんは、ちゃんと理解できているのだろうか? 極端な話、帝国側は土佐衆を無視し続けていても、何の影響も痛痒も無いというのに。祈は訝しんだ。
「まぁ、その事に気が付いていない様子が、彼らの”尻に火が付いた”と、私が判断した所以です」
切羽詰まった状況であっても、少しでも優位な条件を、相手から引き出し勝ち取らねばならぬ。その逸る気持ちが前に出過ぎたが為の”ボロ”なのだと、鉄は断じた。
……もしくは、ただの馬鹿か。今までの彼らの反応を見ても、その可能性は捨てきれませんが。
そう鉄は、まるで残念な生徒を総評する教師の如き顔で続ける。
「少しだけ、彼らのお尻に灯った”火”ってのが、気になりますね?」
「海魔、弥勒は比較的豊かな土地柄のせいか、ピンと来ない所は確かにございますね」
土地が痩せているが、海に出る手段と技術を持つ海魔。
土地が比較的肥沃で、また充分な水資源もあり、二つの部族の食を何とか支える事のできる弥勒。
この二つの部族のあまりに特殊な事情だけを鑑みれば、確かに他の死国にある部族達の状況を推察するのは、やはり難しいのだろう。
だが、土佐は土地的にみても、北側に”熊”、東側に”天狗”に頭を抑えられていて、身動きが取り辛いのもまた事実だ。耕作面積を拡げられぬ以上、現状維持を選択した時点で、そのまま死に逝く事にもなりかねないのだ。
「ですが、まぁ。こちらが断るのも、恐らく向こうは折り込み済みでしょう。彼らは文の返事を待たずに”推参”してくる筈、ですよ」
”推参”とは、芸者どもが呼ばれもしていないのに、自ら磨いた芸を押し売る為に、場に無理矢理現れる行為を指す。
鉄のこの言葉は、明神某率いる土佐との交渉事の一切を、帝国側は望んでいないという明確な意思表示を含めた皮肉である。
「……面倒ですし、この際その人達を捕らえて闇に葬っちゃいます?」
「それも良いかな……なんて、少しだけ思ってしまったのは、内緒にしておいて下さい」
土佐の支配域はあまりに広大で、その癖、どこも似た様な状況の不毛の地だという。
加えて傘下に収める集落の数も多く、当然総人口は死国に在る集団の中でも、一番数が多い。
ぶっちゃけて言ってしまえば、このまま彼らの帰属を素直に認めた所で、大量の無駄飯食らいを背負わされるだけであり、帝国には何の益も無いのだ。
「ああ、考えれば考えるだけ……なんだか、ほんっとうに面倒臭い人達ですねぇ……」
こっちに向かって来る間に何らかの事故にでも遭って死んじゃえば良いのに。そんな不吉な台詞を、ついつい祈は吐いてしまった。
「……今のお言葉、この鉄、聞かなかった事にしておきます……」
……そのお気持ちは痛い程分かります。分かるんですが。
鉄は残念な生徒が自身の目の前にもいた事に、深い溜息を吐いた。
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