第230話 見当違いの頭脳戦
「……何じゃと? それは間違いやなかがか?」
土佐衆の頭、明神晴信は、物見の報告に耳を疑った。
信じられない。いや、信じたくはない……と言った方が正解か。近い将来で起こり得る”可能性”の中でも、一番高く、かつ一番あって欲しくはなかった事象が、とうとう起こったのだ。
『伊予の”熊”が、土佐の領域に侵入し、数多の集落を回っている』
過去にも領域の”境”辺りの集落が”熊”どもの襲来によって壊滅の憂き目に遭ってはいたが、精々数年に一度の事だと、晴信は割り切っていた。
”熊”の能力は、あまりにも圧倒的で脅威だ。それこそ、脆弱な人の力程度では、対処のしようが無い。
彼らを”自然災害”の一つだと諦め、集落単位の人数を細かく区切り、とにかく被害を最小限に留める程度の対策しか、晴信はしてこなかった。
もしかしたら、それが裏目に出たのやも知れぬ。
『伊予の境に近い幾つかの集落と連絡が取れない』
……やられたとみて、間違い無いだろう。
彼らは人を”奴隷”の如くコキ使い、最終的に喰らう。”熊”は土佐の領域を”狩り場”に定めたのかも知れない。
もしそうなのであれば、土佐の選択は二通りしかない。
”熊”と正面から戦うか、”熊”から逃げるか。
だが、逃げるという選択肢は、そもそもあり得ない。晴信は頭を振った。
(待ちぃや。一体、ワシらは何処へ逃ぐれば良いっちゃ? こんガリガリに痩せたクソッタレな土地にしがみつかんぎ、やっちょれんっつぅがきに……)
そもそも移住できる土地があるというならば、こんな所で無駄に汗水を垂れ流し、必死に生きる必要など無い。
正面きって戦うという選択肢も、当然まずあり得ない。晴信は額に掌を押し当て、低く唸った。
(勝ちゅる訳なんぞなか。ワシらにゃ、狸の様な不可思議な術も無か。んで天狗の様な呪術も無かがよ……)
晴信は弥勒の持つ従魔術に眼をつけ、強引にその秘密を探ろうとした。だが、この策は失敗に終わっている。
そのせいで、弥勒に放った”草”のほぼ大半を喪うという手痛いしっぺ返しを喰らう羽目になった。
(……それだけやったらまだええが……)
その失策により、弥勒に、その同盟者たる海魔と、両部族を支配下に置いたという”帝国”からも『敵対者』の認定を土佐は受けてしまった。
(あかん。こりゃもう、手詰まりじゃ……)
今更彼らに向け素直に頭を下げてみた所で、まずは信じて貰えぬだろう。交渉の卓に着いてもらうだけで、相当の苦労と時間を要する事は明白だ。
その間も、獣欲に駆られた”熊”どもの手によって土佐の領域は削られ続け、結果”土佐”の支配を受け付けなくなる集落が多く出る……そんな最悪な未来すらも充分にあり得るのだ。
「じゃが、やらんよりかマシじゃ……」
”熊”の対処だけでも頭が痛いというのに、暖かくなってきた以上、そろそろ”蜥蜴”どもが冬眠から目覚め、動き始めてもおかしくはない。
そして、この2年の内に”蜥蜴”どもは確実に行動を起こす。過去の記録と照らし合わせてみても、この”予測”は、大きく外れる事は無い筈だ。
”熊”と”蜥蜴”。この獰猛な二種の獣人が相手では、どう足掻いても土佐の地に生きる人類種に未来はない。
「今年ン実りは、全て諦めにゃならんがか……ま、それでもええきに。ワシらは、絶対に生き残っちゃる。生くてさえおれば、負けた事にゃならんち。ワシらの、勝ちじゃあ」
先人が遺した”記録”。そこに書かれた信じられぬ”事象”が、もし本当に起こるというのならば……
集落の”頭”としての誇りなんぞをかなぐり捨ててでも、この土地を、そこに住む民を、絶対に護らねばならぬ。
頭を下げる程度ならば、幾らでも下げてやる。首を差し出せと言うのなら、喜んで差し出してやる。それで土佐が生き残れるというのなら。
晴信にとって”勝利”とは、土佐の民が繁栄する事だ。
言い換えれば、一族滅亡の憂き目、その境に在る今ならば、生き残りさえすれば、滅亡さえしなければ”勝ち”とも言える。
だから、晴信の考え方は非情に単純だ。どこかの庇護……いや、今は隷属する羽目になったのだとしても、生き残れば”勝ち”なのだから。
「誰ぞあるっ! ワシは決めた。今から海魔ン所に行く。”手土産”を用意しぃ!」
こうなりゃ愚直に頭を下げ続けるしか、手は無い。
ヘタに小細工を弄した所で、最初から疑いの眼で向かって来られては、ただ自分の立場を悪くするだけだ。
「最初から”ワシは死ぬ”。そう思っちょれば、なぁんも怖いモンは無い……ただ、成るようにしか、ならんき」
慌ただしく動き回る文官達を眺めながら粗末な酒を呑む内に、晴信は何だか妙に腹の底から笑いが込み上げて来るのを自覚した。
「ワシが狂った訳やないな。これが、”覚悟”っちゅう奴がか?」
『戦場で生き残るには?』
そんな話を幼き頃に、剣術の師から聞かされたのを、晴信は何とは無しに思い出していた。
「戦場に在って、今の自分は”死人”だと思わねばなりませぬ。”死人”は、決して何者にも恐怖しませぬ。何事にも狼狽えませぬ。戦場という尋常ならざる場の刹那の内では、この死人の”覚悟”の無い者から死にまする。死にたくなくば、先に”死人”になりませぃ」
その時は、何の頓智だと訝しんだものだが、今なら何となく師の伝えたかった言葉が解る様な気がする。
もう自分がすでに死んだものだと思えば、その覚悟さえあれば、何事にも瞬時に対処できる。そういう事なのだろう。師の訓示を活かすのは、正に今だ。
「人数は、最低限でええ。ワシのおらん間、国境にも兵を置け。これも最低限じゃ。ええな?」
まずはできる事から。その一歩から始めよう。晴信は杯になみなみと注がれた不味い酒を一気に呑み干した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……鋼様?」
「ンだよ、嬢ちゃん?」
「なんか、怒って、ます?」
「……ンな訳ねーよ。悪いが、少し黙っててくれ」
幼子と変わらぬ程に小さな体躯の白髪の竜の娘が、長身の狼の獣人の顔を、下から覗き込む。
不躾なまでに真っ直ぐな童女の視線に耐えかねたのか、銀髪の狼人はぷいと顔を背けた。
「……鉄様?」
「何でしょう、祈さま?」
「やっぱり、怒って、ません?」
「……いいえ、決してそんな事は。ですが、申し訳ありません。今は私、祈さまのお相手はできませんので……」
兄と同じ様に下から顔を覗き込んでみるが、黒髪の狼人も、童女の視線からぷいと顔を背ける。
「ほらぁー。お二人とも、やっぱり怒ってるぅー」
「「怒ってねぇ(ません)って!」」
兄弟の強い否定の声が、綺麗にハモった。
「……そりゃ、確かに今の俺らは余裕ねぇよ? だがよぉ、だからって、嬢ちゃんに向かって怒るってのは、流石に違うだろ?」
「……そうですとも。ですが、できれば、お相手をしたくない。というのも、我らの本音でして……」
兄弟はそれぞれ、祈を傷つけない様に、言葉を選びながら、自らの想いを伝えようとはしてくれている様だ。その想いは空回りして上手くいかず、結局は直接的な物言いになっている事にすら、気付いてはいなかったが。
「だから、それを怒っているって、言うんじゃないんですか?」
祈の決めた”罰”は、二人にとって致命傷にも成り得る程に覿面の効果を発揮した。日々の楽しみを失った二人の表情からは何時しか笑みが消え、やがて険が刺し、それを通り越した今では、ほぼ能面に等しき”無”の状態になっていた。
『上司の顔が、すごく、すごく怖いんです……助けて下さい』
そんな投書が祈の執務室に幾通も届けられて、漸く事の重大さに気付き、こうやって”視察”の名を借りた様子見に来たのだ。
「いや、違うな。後悔はしてるが、怒ってなんかいねぇよ」
「その通りです。余裕が無いのは、否定しませんが…ね?」
酒は呑めて当たり前。特にこの冬の間は、二人とも酒量が何時もより遙かに多くなっていた為に、その差異に、今苦しんでいるのだという。
「……ごめんなさい。ちょっと、厳しすぎたかも……」
新倉敷の地で新年を迎えた祈は、とうとう数え15の成人となっていた。
漸く酒を許される歳にはなったが、未だ一口も酒を口にしてはいない。だから、酒呑みである二人の気持ちは全然解らない。どうしてもと罰を求める二人に丁度良いと思ったのだが、どうやら重すぎた様だ。
「ああ、確かになぁ。これは俺達にとっちゃ”死ね”と言われるのに等しいモンだ」
「兄者、流石にそれはねーわ……いやいや、祈さま。私達の罪咎から言えば、この程度の罰で収めて戴き、有り難く思います」
鉄が恭しく頭を下げるが、全くの無表情での動作を目の当たりにし、祈は投書を行った人達の気持ちが痛い程良く解った。物凄く怖かった。
「まぁ、ちょっと罰を軽減しますから……それより、お二人にお訊きしたい事がありましたので、私がこうして参った次第です」
伊予の熊という脅威が無くなった以上、死国攻略の半分以上は、すでに成したと見て良い。そこで、残る”土佐”への対応、その協議だ。
海魔の里には、土佐の”草”が幾人も潜伏している。その全てを帝国は把握している訳ではないが、ある程度の絞り込みは済んでいる。
「ああ、それな。伊予の陥落、この情報は秘する様に、命令した」
「それは何故でしょうか? 伊予の熊。彼らの戦闘力は、かなりのものであったと聞き及んでおります。それを完封して退けた帝国の”戦闘力”、喧伝するのも手、ではござりませぬか?」
畏れられる敵に比べ、より強大な力を誇示して見せれば、それだけで相手の戦意を挫く事も可能な筈だ。それにより無血開城が成るならば、話は早い。そう祈は考えていた。
「確かに、それも一つの手、ではございますが、どうにも土佐の将は、座して見る。見過ぎるきらいがございます。であれば、もうどうしようも無い状況になってしまうまで、情報を封じる方が楽なのでは? と思いまして……」
虚偽の情報を混ぜなくとも、細かく情報を小出しにしてやるだけで相手は勝手に深読みし、一つの情報を一々吟味しては思考の迷路に嵌まり込む。そうこうしている間に、刻々と状況が変化するというのに。
「ま、あとは勝手に自滅って奴だな。途中で間違いに気付き、こっちに頭ぁ下げに来たらギリギリ及第点ってぇ所か」
何も手出しして来ないってンなら、それはそれでこちらは構わねぇがな。そう鋼が、つるりとした能面のままの無表情で言う。やっぱり異常に怖かった。
「なるほど。理解いたしました……ごめんなさい。お二人の”禁酒令”は今、この時をもって解きます。下から、物凄い数の苦情があったので……」
「……ホントか、嬢ちゃん?!」
「有り難き幸せっ! 我らはどこまでも祈さまに付いていく所存。これからもよろしくお願い申し上げまするっ!」
……たかがお酒だけでここまで人は変わるものなのか。
ただ無表情のまま淡々と仕事をする姿を見るだけで、ここまで怖いのだという事は、嫌でも理解できた。
投書を見た時、鼻で笑った自分を盛大に叱りつけてやりたい。今日、夢に見てしまうやも知れないのだから。
(うん。私はお酒を絶対に呑まない、ぞ!)
酒で失敗する姿を見るのは、倉敷の地に在る上司だけで沢山だ。
禁酒令を解いてやっただけで大はしゃぎの兄弟を見て、祈は盛大に溜息を吐いた。
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