第229話 熊の姉妹
「うん。やっぱり塩があると違う。美味いな、”四”姉」
「そやねぇ、”五”」
如何に屈強な肉体を持つ”熊”の獣人だといえど、獰猛な魔猪を相手取るには、二人だけでは少々骨が折れる。
安全に狩りをするなら、魔猪に比べても危険の少ない走竜を狙う方が楽だ。
走竜の肉自体には、魔猪ほどの強烈な旨味は無く脂も少ないのだが、それでも大地を蹴り、走る為に良く発達した大腿部の筋肉は弾力に富んで、特に美味い部位だ。
そこに人間の集落に赴き、魔物肉との交換によって得た塩を一振りしただけで、その美味さは倍増する。お陰で二人の食欲は増し、焼けた端から、二人は肉に手を伸ばした。
そうしている内に、尾の部分まで含めたら全長八寸五分(約255cm)をも越える走竜丸々一頭分が、”熊”の姉妹の胃袋の中に消える。
「あかん。美味すぎて、全部喰ってしもうたわ」
「たまにはええのんとちゃう? ま、そん代わり少し腹ごなししたら、すぐにでも次を狩らんといけんねやけんど……」
人類種集落との”交易”は、思いの外上手くいった。
当初はいきなりの”熊”の出没に皆怯えはしたが、害が無いと解ると集落の人間達は、美味なる魔物肉を次々と持ってくる姉妹達に対し、次第に好意を持って接する様になっていったのだ。
未だ妹の”五”の中には、人類種に対する偏見(もしくは、”食糧”という意識か?)はあるが、貴重な”塩”の入手先と理解しているためか、”四”の方針に逆らう事はなかった。
”熊”の姉妹の取引先は、勿論一つだけでは無かった。
如何に魔物肉が人類種にとって、得る機会の少ない貴重品であったのだとしても、毎回同じ所に卸していてはその希少価値も次第に失われてしまう。
こちらの”戦力”を高く売りつける為には、なるだけ希少価値を長く保つ必要がある。”四”はその辺をしっかりと心得ていた。
”四”の行う狩りの方法は、”熊”の中でも特に異質だった。
獲物の頭部に向け、石を投げる。それだけだ。
熊の獣人の圧倒的な膂力から繰り出される投擲の威力は、人の扱う魔術すらをも超える程だ。
そこに”四”が誇る異常なまでの命中率があって、初めて成り立つ”怪異”である。
”五”も何度か真似をしてみた事はあるが、何とか当てる事はできたとしても獲物の身体を無為に傷つけてしまい、その後の食事では獣特有の臭みとの戦いに非情に難渋する羽目になってからは”四”の真似をやめた。
”熊”本来の狩りは、奇襲による一撃必殺だ。
背後から近付いて、頭部を破壊。もしくは頚を締めての窒息死狙いである。獲物を窒息させてしまうと、肉に血が入って臭みが増してしまうが、それが美味いのだと”熊”たちは思っているらしい。
だが”四”は血の味があまりお好みでないらしく、何時しか投石で獲物を仕留める様になっていったのだろうと”五”はみていた。
牙狼鋼が、伊予の熊たちを「トロい」と過去に評したが、それはただ単に鋼が疾過ぎるだけの話であり、”熊”の獣人の持つ身体能力は、獣の不意を突く程度には速度の面でもかなりのものなのである。
「んじゃ、さっさと”交換”用の獲物でも狩ろかいね、”五”?」
「せやな。”四”姉」
塩や香辛料が手に入ったならば、できれば次は衣服が欲しい。
如何に”熊”の蛮族だといえど、”四”と”五”は女だ。腹が満たされれば、次は綺麗になりたいと願うのを一体誰が批難できようか。
布を織る職人が住むという集落の情報は、すでに得ている。魔物肉ならば充分に”対価”に成り得るという事も確認済みだ。
「やっぱり狙うんは魔猪がええなぁ。あれならウチら二人分の布も、充分手に入るよって」
「そっかー。んじゃ、それ狙おう。ワテの鼻は特別やからな。すぐ見つけたるわ」
多少危険が伴ってしまうが、魔猪であれば、一頭だけでも代えを含む充分な衣服が手に入る。
ある程度の生活用品が纏まれば、何れは定住も視野に入れねばならぬだろうが、これからは次第に暖かくなっていくのだし、今はまだ気楽な狩猟生活でも良いだろう。”四”はこれからの生活に一切の不安を感じてはいなかった。
(ウチらの集落を全滅させたんが誰か、それは気になるけんど、そんだけの”恨み”を、ウチら買ってたからなぁ。何も言えへんわ……)
もし仮にそいつらが襲撃してきたら逃げてしまえばええ。そう”四”は考えていた。
この世は所詮弱肉強食。
勝てない相手から逃げてもそれは全然恥ではない。
死んでしまえば、結局はそれまでの命なのだから。
自尊心なんてものは、生きるために不要で邪魔でしかない。
”四”の思考は、余りにも生存に傾き特化し過ぎていた。熊の常識からは大幅にハズれた異端の存在。それが族長”赤兜”の長女であり、第六子の”四”だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「うまくいったな、”四”姉」
「せやね、”五”。子連れを見つけるとは、ホンマ、お前はんは偉いねぇ」
魔猪の子の肉は”熊”にとってもご馳走だ。
量が少ないのだけは難点だが、肉に臭みは全く無く、とても柔らかい。その上骨ごとイケるのだ。
こんな貴重な肉は滅多に当たらない。”五”は過去に一度だけ口にした子魔猪肉の芳醇な味わいを思い出し、涎を垂らした。
今回の成果は、成獣一頭に、子が三頭。成獣一頭だけでも、目的の品の”交換”は充分に賄える筈だ。
「……子はワイらで喰っちまおうぜ。”四”姉」
涎を啜りながら、”五”は今晩の飯の事で頭がいっぱいになっている様子だ。まだ色気より食い気なんだな、そう”四”はついつい残念な子を見る様な視線を”五”に向ける。
「せやね、子は”五”。お前はんが全部喰ってええ。ウチは今、布の方が嬉しや」
華美に着飾った艶やかな姿を見せる相手なぞは、今の”四”にはまだいない。
だが、女とは着飾ってみせてなんぼの生き物だ。そこに種族の美醜の価値基準による多少の違いがありはすれど、蛮族だの文明人だのという垣根は無い。
目的の職人の住む集落の近くにまで、姉妹の足は到達していた。
(……血の臭いが、する……?)
「……なんか、食欲をそそられる匂いが……あれ? なぁなぁ、”四”姉。人って、血ぃ呑んだりするっけか?」
「する訳あらへん。血なんかで喜ぶんは、死国では”熊”だけや」
妹の問いに”四”は今までに無いほどに語気を強め、否定の言葉を口にした。
(血の臭いは、嫌いや。嫌でもウチは”獣”なんやと自覚させられるから……っ)
その想いを口にする事は、今までもこれからも決して無いだろう。そう”四”は思っている。妹の”五”は”熊”である自分に何の躊躇いも屈託も無い。それを否定するなんて姉としての立場上、絶対にできないからだ。
「だけんど、これはどう見ても異常や。はよ向かってみぃひんと」
「……そうかなぁ? 何か危険があるんやったら、ここは様子見した方が良くね?」
”五”の主張は尤もだ。身の安全を第一に考えるならば、それが正しい。
”四”は妹の意見に頷いてはみせたが、それでも不安に思う感情が翼を拡げ、精神をじりじりと苛む。
「うん。”五”の言うんは正しいとウチも思う。けんど、何か悪い予感がするんよ。ウチだけでも、ちょっと確認してくるよって」
「ちょっ、おい待てって”四”姉っ!」
結局”五”も、姉の後ろを着いて駆けだす。
集落に近付くにつれ、血の臭いは濃く、強くなっていく。
当初は『食欲が…』等と、暢気な言葉を口にしていた”五”だったが、噎せ返る程に強まった血の臭いを鼻に直接浴び、終には顔を顰めた。
「なんや。誰もおらへん。血ぃだけが周りに……」
集落は何者かの手によって荒らされたのか、戸は破れ、一部壁が崩れてしまった建物もある。
そして、夥しい血痕……いや、もうこれは血の海と言ってしまった方が正しいだろうそれを見て、”四”は顔を覆った。
血の海の中に残されたものは、これは頭皮の一部だろうか? 長い髪の毛やら、腕の一部、掌やらが散乱していた。
”五”の表現を借りれば『喰いにくい所だけ残した』といった所だ。
「これは酷い。一体、ここで何があったんやろか……」
「こりゃあかん、生き残りがおるかすらもわからんでぇ……」
世間一般で”魔物”に分類される生物は、人を襲い、喰らうのだとされている。
だが、集落にまで降りてきて、人を襲う様な”魔物”は早々いない。痛い目に遭う事を理解しているからだ。
なのに、この集落は、魔物によって襲撃を受けたというのか? あり得ない筈の結論に、姉妹は顔を見合わせた。
「こりゃ、もう服は諦めるしかない」
「……せや、ねぇ……」
何度もあった”交流”によって、多少人への偏見が薄れてきていた”五”だが、根本の価値観が変わらぬ限りは、気持ちに変化は現れる訳も無い。どこか打ちひしがれた”四”とは違い、実にあっけらかんとしていた。
だが、”五”の言う事は一々尤もだ。ここはもう全滅した集落だ。そう思わねばならぬのだろう。それでも未だ諦めきれない”四”は、ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。
「……うん? ”五”、何か聞こえない?」
「……ああ、聞こえるな”四”姉。これは……子供やろか?」
微かに聞こえる声へ、導かれる様に、誘われる様に。
姉妹の足は、一つの完全に崩れてしまった建物の方へと向いた。
”五”が崩れた屋根をむんずと掴み、遠くへ放り投げると、そこには頭から血を流した男の子が一人蹲っていた。
「……ボン、そこで何してはるん?」
「……お母さんが、お家に隠れてなさいって。そしたら、いきなり真っ暗になって……怖くて、怖くて……」
子供はずっと泣きじゃくっていたのだろう。眼は真っ赤に腫れ上がり、嗚咽は未だ収まらなかった。
「そかぁ。でも、お母さん見当たらへんよってな? 見つかるまで、ウチと一緒に行こか?」
”四”は優しく微笑み、男の子に向けて大きな掌を差し出した。”熊”の中で比較的小柄な”四”でも、その身の丈は七尺(約210cm)近くはある。山を見上げる様な形になっている男の子は、それでも大きな掌を泣きながら掴む。生きる意思は、そこに在るのだ。
「へぇ、”四”姉。それ、非常食にでもするンごっ!?」
姉は無言で、妹の鳩尾に力一杯に肘を打って黙らせる。
「阿呆なこと言いなはんな。そんな事ウチがする訳あらへんわ。母親が見つかるまで、このボンはウチが育てたるさかい!」
「うげぇ……マジかいなっ?!」
いきなりの姉の衝撃の発言に、妹は腹を抱えて悶絶したまま驚きを露わにした。
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