第227話 海魔の里に戻って
梅の花が散り、桜の蕾みが色付き始めた頃、漸く祈達は海魔衆の本拠地である”高松”に戻ってきた。
弥勒、鳴門の両部族の合力を得る事ができた今、死国の地の半分近くが帝国傘下に入った形になる。
「できれば、夏は本国の新居で迎えたいモンだけれどね」
「……どげんやろねぇ。もう一悶着ありそうやけんど?」
散々ゴネにゴネまくって、費用の一切合切を帝国に押し付けてやった新居の完成を見る事も無く、こうして未だ絶賛境界更新中の”帝国最果ての地”に、祈達はトバされてしまった訳で。
”新築”が、”築浅”である内に果たして戻れるのだろうか? そこがかなり怪しくなってきている所に、祈は少しだけ焦りがあった。
「私は、新しい畳の匂いを、胸いっぱいに嗅ぎたいのにさぁ」
「祈さま、それは倉敷で充分に堪能したではありませんか?」
少しぬるめの緑茶を主に差し出し、雪琥珀は疑問に思った事を素直に訊ねる。
皆が手を合わせて造り上げた”新倉敷”の街は、それこそ出来たてのホヤホヤで、どこも新築のピカピカだった。当然、内装及び全ての畳は新床である。どの屋敷も、イ草独特の瑞々しい香りが、部屋中に満ちていたのだ。
「んなこたーない。”我が家”と”職場”は、全然違うよー」
もう全然解ってないナーと、祈は人差し指を立て、友人兼、従者兼、最高の右腕に対し偉そうに講釈を垂れた。
「……ほぉ? お前しゃん、そん割には、ばりダラけとった気がするっちゃけど?」
その”職場”で、祈がまるで”自宅”レベルでダラけていた様子を、鳳蒼は何度も目撃していた。
蒼だけではない。琥珀も、楊美龍も。それどころか側付きの女房衆達の誰もがその様子を目撃しては、彼女たちからばっちりと窘められていたのだ。
「だって、だって、たまには、休息が必要、じゃないさぁ……」
確かに倉敷の街では、祈達に休息の時間がほとんど無かったのは、まぎれもない事実だ。
到着と同時に蛮族の来襲に、その討伐。焼け野原からの復興……と、祈達は忙しく働いた。だから、そのくらいは見逃してくれよ。そう祈は主張したのだ。
「そん”たまに”ん頻度が、ばり凄かったんな、なんでかなぁ?」
蒼が作業の合間に一息吐きに休憩室に行くと、そこには必ず祈が畳の上で大の字になって寝ていたのだから、追求の圧を彼女が弱める筈もない。
というか、仮にも帝国貴族の一端に連なる年頃の娘……いや、当主が、よりによってはしたなくも畳の上で大の字になって寝ている等とは……側付きの女房衆達が立場を忘れて主を叱るのも、無理らしからぬ話であろう。
「……蒼さまの仰る通りですよ、祈さまぁ?」
「……反省、します……」
養女である静の前では、祈は完璧な淑女を演じて(弥勒の里でそのメッキもほぼ剥がれてしまったのだが)いたせいもあってか、娘の眼が届かない所では、その反動も大きく極限までダラけ力を抜いていたのだ。
「でもでもぉ、そういう事でしたら、もし仮に帝都のお屋敷にお戻りになられたとしても、祈さまはずっと気を抜く事もできず緊張しっぱなし……で、いないといけないのでは?」
帝都の一角に在る新”尾噛邸”には、当然、親娘で住む。
自称:母(or祖母)の邪竜の権能によって、静は実の母が亡くなった辺りから、自身が死する直前までの昏き不幸の記憶を全て抹消されている。
今の静は、数え6の頃の記憶までしか持ち合わせていないし、実際の精神年齢も、ほぼその年かさ辺りに在るだろう。
その年頃の子供というものは、”母親”という存在に頼り、甘えてみせるのは至極自然の事であり、そうなれば愛娘の目は常に母に向くのも必然であろう。そこに、母である祈の心安まる時間などは存在する訳が無い。琥珀の指摘したのは、まさにそこにあった。
「……そうだ。その通りだ、琥珀……」
琥珀に指摘されるまで、その事実に全く気が付く事のなかった自称:母は、力無く膝から崩れ落ちた。
娘である静には、常々”淑女たれ。”そう偉そうに説教しているそんな母が、はしたなくダラけた姿を娘に見せられる筈も無い。
「……てか、その為の、美龍だよね……」
「おい、母親。自然に育児放棄ば宣言するんやなかったい……」
見た目は完璧。でもその中身は心底残念な友人が、凄く残念な言葉を吐いた事に、蒼は盛大に溜息を漏らした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……そう、ですか。鉄様、ご報告ありがとうございます」
祈が海魔の里を留守にしていた間の報告書を携えて、牙狼鋼の弟であり、参謀の鉄が軍の仮宿舎に現れた。
死国駐留の帝国軍の筆頭は、その任を光秀によって指名された祈である。
軍の行動、それによる損耗、物資の手配、その状況……全ての情報は、筆頭職に在る祈の下に集約されねばならない。その”仕事”を負うのは、鉄率いる参謀部だ。
「はっ。報告書に詳細を記しておりますが、今一度のご説明は、必要でありましょうや?」
「いいえ、大丈夫です。鋼様率いる”狼牙隊”は、充分にその職務を全うしている。そう、私は認識しております」
当初の予定よりも祈の帰還が大幅に遅れた事もあり、報告書の束の厚みは途轍もないものになっていた。
祈はその束の厚みをそっと指で測りながら、内心頭を抱えていた。今からこれを、最後まで読まなきゃならんのか……と。
書き記した当の本人から内容の説明を受ける方が遙かに話は早いのだろうが、しかしそれではその間の鉄の仕事が全て止まってしまう。
楽が出来るならそれに飛びつきたい気持ちは確かにあるが、だからと言ってその為に他人に余計な迷惑をかける訳にはいかない。その位の分別は、祈も付けているつもりだ。
「……祈様。少しだけお時間、いただけませんか?」
「はい? 良いですよー」
持ち上げるだけで、そのあまりの重量に難儀する書の項を次々にめくりながら、祈は鉄の問いに頷いた。
「その……”伊予”の件、なのですが……」
「ああ、お疲れ様でした。大変、だったみたいですね? その辺は、ウチの魔導士達から聞き及んでおりますよー」
”食の軍師”、”孤独の美食家”との二つ名を持った、参謀職を長く勤めている鉄の認めた報告書は、細かな部分にまで気を遣った完璧な物である。
細かな数字から、そこに至るまでの様々な視点からの考察を踏まえたこれらの書は、指揮官にとっては後の戦略にも活かせるだろう得難いものだ。
……ただし、それをしっかりと読み込んで把握できれば。という大前提が必要であるのだが。
「……え?」
「え……?」
二人は互いの顔を見合わせ、視線を交わす。
「……それだけ、でございましょうか?」
「……てゆか、それ以外に何を言えと?」
さも意外そうな鉄の反応に、祈は小首を傾げて応じるしかなかった。
(この人は、私に何を言って欲しかったの、かな?)
祈の中で真っ先に浮かんだ疑問はそれ。目の前の狼の獣人から、何を求められているのか解らない以上、祈の方に返す言葉は無い。
「……この様な事を祈様に申し上げるのは不遜、不敬と捉えられても仕方ありませぬが、我が”帝国軍”は軍にございます。当然、そこには確固たる”軍規”が存在する訳でして……」
鉄は、ここで一度言葉を切って大きく咳払いをした。ちゃんと覚悟を決めねばならぬ場面、その思いを込めて。
「兄、鋼が率いる我らが”狼牙隊”は、此度の”伊予攻略”において、この軍規を著しく損ねてしまいました。祈様。貴女様への決裁、それを求めず我々は”暴走”したのですっ!」
一息にそこまで言い切ると、鉄は執務室の椅子に座る祈に対して、首の根が見える角度にまで深々と頭を下げてみせた。
「……それで?」
「”狼牙隊”に対する軍規違反の罪咎は、誠に勝手ながら、我が首一つで収めていただきたく存じます。決して、決して、我が隊士、我が兄へ何の類の及びませぬ様、ご安堵願い奉りまする」
今すぐ俺の首を斬ってくれ。それで場を収め、全てチャラにしろ。鉄は、祈に対してそう言い切ったのだ。
確かに、鋼達は祈に何の報告も断りも無しに”伊予攻略”を行った。しかも、その住人を虐殺し尽くしての上で、だ。
これを帝国の定めた軍規に照らし合わせてみれば、極刑もやむなし。その通りだ。
だが、どの様な経緯を辿りそうなってしまったのか……その事情は、全て部下達から祈の耳に入っている。
熊どもの生態を聞いた限り、祈も鋼と同様の指示を出す。出さねばならぬ筈だ。
人を好んで食うけだものどもと、人がどうして共存なぞができようか?
だからこそ、祈は鉄に対しはっきりと言わねばならない。
「鉄様。貴方は、少しだけ思い違いをなさっておいでの様ですね」
「は?」
「軍規、それは確かに必要でしょう。ならず者の間にすら、彼らを縛る掟が存在すると聞きます。ですが、時には瞬きの判断が必要な場面もございましょう。判断の是非を問われる時間、貴方様はずっと座して待つというのですか? その機を失うやも知れぬ時に……」
「そんな訳はございませぬっ! ただ座して見るのみで機を逸するなど、それは愚将のする行いでございます」
「ほら。でしたら、此度の伊予の一件は、正にそれでございましょうに。捕虜を捉え、迅速に事を成したからこその”戦果”。帝から賜りし軍を預かる私は、賞賛を惜しみませぬ」
望まぬ遭遇戦から、間を開けず軍を編成しての強襲。その事実だけを見れば、そう評価しようと思えば出来なくも無い。
だが、それが詭弁なのだと、鉄は知っている。
「貴方様の気性では難しいのでございましょうが、それでご納得なさいませ」
祈が鋼の立場であったら、同様に一族皆殺しを決めただろう。
だが、それを最後まで見届け、完遂できるかは話は別だ。
多分、祈は途中で当初の目的をねじ曲げて妥協してしまう筈だ。そんな弱い自分が心の奥に存在するのを、どうしても否定できないでいるのだ。
だから、祈は牙狼達の”独断”を責めるつもりは一切無かった。
「それに……さきほど鋼様もこちらにいらしてたんですよ?」
「へ? 兄者が??」
「ええ。あの人も、『俺が強く命令しただけだから、あいつらを叱らないでやってくれや。全部俺っちが悪いって事で、ひとつよろしく』って……もう本当に、貴方達兄弟はっ!」
鋼の口調を真似てみて、祈は大きな口を開けて笑った。
兄弟共々考え方が同じで、その癖、互いが互いをかばい合って。
兄弟って良いな。そう祈は心の底から思った。
(兄様、今頃何してるのかなぁ……?)
遙か遠くに在る懐かしき兄の姿を思い浮かべて。
早く帝都に帰りたい。祈はそう思った。
誤字脱字がありましたらご指摘どうかよろしくお願いいたします。
評価、ブクマいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。




