第211話 弥勒の里の夕餉
「ああ、美味しい……」
『空腹は、最高の調味料だ』
これを最初に言った者は、誰なのだろうか?
それは解らないが、全くその通りだ。そう祈は思う。雑多な根菜類と、少しばかりのキノコに、雑穀が入っただけの粗末な塩味の汁が、こんなにも美味いとは。
あれから結局、空腹を抱えたまま、祈は海魔の長、八尋栄子と、弥勒の長、信楽百合音の二人と、延々と話し合う羽目になった。
まさか二刻(四時間)近くも拘束されるなどとは、全くもって思ってもみなかった。空腹に耐えかねて降参しなかったら、まだまだ続いたのかも知れない。そう思っただけで、祈はぶるり震えた。
「本当に申し訳……」
空腹に任せ忙しなく箸を動かす祈の様子に、栄子は額を畳に擦りつける様に何度も頭を下げた。
一度思い込んだら、納得するまで梃子でも絶対に動かない。どうやら栄子は、そんな難儀な性格をしている様だ。巻き込まれる者は、本当にたまったものではないだろう。
「そんなのはもう良いからさ、おかわり頂戴」
長時間にも及ぶ腹を割った問答のせいか、祈の言動から装飾の類いの一切が無くなっていた。栄子に対して、礼儀と共に遠慮が無くなったのだ。
それもその筈、『腹が減った!』とキレた時点で、今更何を取り繕れと言うのか。
帝国が誇る最強の駒、”黒曜の姫将軍”の正体は、見目麗しき高貴な女性ではなく、ただのやさぐれ欠食児童だったのだと、自ら喧伝してしまったというのに。
こうなっては、開き直ってしまうしか最早手はない。
「ははっ。すぐに……」
突き出された椀を、百合音は両手で恭しく受け取った。
折角”使者様”が、無礼を見逃し話し合いに応じてくれたのだというのに、自分達の都合を押し付けまた怒らせてしまった。これ以上”使者様”の機嫌を損ねては、本当に命が危うい。百合音はもう気が気では無かった。
「だから、もうそれ良いから。変に畏まられても、私が困るんだってば」
対外的には祈の立場の方が、一部族の長である彼女達よりも上位になる。だが、今は私的な集まりに過ぎないのだから気にするな。そう祈は言うのだ。
ふと会話が途切れた瞬きの静寂に、タイミング良く盛大に鳴った腹の虫。
ああも帝国貴族として、そして淑女として、あってはならない醜態を晒してしまったのだから、祈にとっては本当に今更の話である。というか本来ならば、その場に居る人間全ての首を刎ねてでも隠さねばならない程の醜態なのだ。
かけるだけの恥はかいた。だから、もう礼儀を繕う必要も無い。そういう事だ。
「うん。やっぱり美味しい……」
二杯目には、祈も味わう余裕が出てきた。
出汁がしっかりしているのだろうか、旨味がたっぷりとあるし、雑穀のぷちぷちとした食感もたまらない。
「祈ちゃまにそう言って貰えて嬉しや。これは、あちしの得意料理だわいな」
「へぇ……」
初対面の時にあった危うい険は、もう影も無い。今の屈託の無い笑顔を見る限り、どうやらこちらが百合音の素の様だ。この真っ直ぐな性根ならば、後背を任せても恐らくは大丈夫だろう。祈は安堵の溜息を漏らした。
聞けば弥勒の集落は、不毛な死国の地に在って、類を見ない程に豊かな土地であるらしい。
水資源は他所に比べれば豊富にあり、土地も充分に肥えている。海魔衆が水産物や、他国との交易や略奪で得た資源を弥勒衆に都合し、弥勒衆はどうしても不足しがちな農産物や畜産物を海魔衆にもたらす。そんな互助の関係が、過去からずっと続いているのだという。
他の集落に卸しても充分に賄える生産力が、弥勒にはある。
だからこそ、人類種の集まりである土佐衆に、弥勒は執拗に狙われているのだとも。
「……でも、弥勒の里までには、かなりの距離があるんじゃ?」
「その程度で諦めてくれる様な奴等なら、最初から妾も合力は頼まぬよ。奴らは欲深く、そして陰湿じゃ。奪える物がある限り、必ず狙ぉてくる」
「人間共があちきの集落に来る為には、天狗共の勢力圏を抜けてこねばならぬのだが、困った事に、天狗共は余所者が土地を行き来しておっても、全然頓着せんのだわいな……」
天狗の”鳴門衆”の支配域は、土佐衆に次ぐ程に広大な面積を誇る。だが、その土地の大半が山林であるが為に全く労力に見合わないのだろう、殆ど監視の眼が無いと言っても良い。栄子が言うには、そもそも天狗の関心事は、土地に無さそうであるのだが。
「……まぁ、さっきも言ったけれど、この集落にも草が何人も居るっぽいし、ねぇ?」
態々時間をかけてまで集落に根付く様に草を放ってきているのだから、前々から周到に侵略する腹積もりだったのは、確かなのだろう。
それに、草を紛れ込ませている事が発覚する危険を冒してでも、弥勒の従獣術を狙ってきたという事は、今の戦略に手詰まり感を覚えての強引な一手だったのでは、とも推察ができる。
「……これは……近いの、かな?」
胡座をかき箸を咥え、祈は直感をそのまま口にした。
はしたないと怒られても為様が無い。
貴族の振る舞いにもあるまじき粗野で乱暴な仕草だったが、これが妙に似合っていた。一瞬だが、百合音はそんな祈の姿に見惚れてしまっていた。
「……恐らくは」
「だわいな」
長く続いた話し合いの最中に、祈は百合音に今後の従獣術の使用を禁じたのだが、今の海魔も弥勒も、戦力が絶対的に足りない以上、背に腹は替えられない。
「はぁ、仕方無いかぁ……あの術、後で私がちょっと手を加えるからさ、これからはそっちを使ってね」
こんな術、二度と使わせたくはない。
それが祈の本音だが、そんな甘い事も言っていられないところが現状だ。
だから、やるからには、可及的に速やかに。
そして、執拗かつ、徹底的に。
土佐衆とは、一度くらいはぶつかって凹ませてやるべきだろう。もしかしたら、その後の話し合いが簡単になるかも知れないし。
もしこちらの予想が外れ、何もしてこないのであれば、その間に紛れ込んだ草を炙りだしてやれば良いのだ。
ただ指を咥えて見ているつもりは、祈の中には端から無い。そもそも、待つのは性に合わないのだから。
「うん。こちらの基本方針は、そんな感じで」
すっかり温くなってしまった椀の中身を、祈は一気に掻き込んだ。良い料理は、冷めても美味い。
「やはり祈様は、恐ろしいお方じゃのぉ」
「だわいな」
あの土佐衆相手に、事も無げに凹ませる。そう豪語するだけの実力を目の前の娘が持っている事を、二人は嫌と言う程に思い知らされている。
だからこそ、恐ろしい。
「二人とも酷いなー。もう一杯、おかわり頂戴♡」
腹が減っては、戦はできぬ。
これからその準備を急いでせねばならないのだから、ここでたらふく食うに限る。遅すぎた夕飯は、すでに夜食も兼ねていた。
(それが全部腹の肉になっても、俺は知らんからな?)
(うっさい、とっしー!)
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