第210話 弥勒の里の風呂
「ふいぃぃぃぃ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……あったまるぅ」
「祈さま。流石にその声は、淑女としてどうかと……」
ずっと待ち望んでいた風呂の心地よさに、ほんの少しだけ自身が女だという現実を忘れてしまっていた事に祈は暫し反省した。
「かあさま。おふろ、わたしにはちょっとあついの……」
祈には丁度良くとも、静にとってはかなり我慢が必要な熱さの湯を前に、湯船に入れず半べそをかいていた。
「ああっ、ごめんね静ちゃん。今から調節するからねっ」
祈は子供と大人の間に横たわる”丁度良い温度”の差違を完全に失念していた。どれだけ余裕が無かったんだと反省事ばかりが増え、暫し自己嫌悪に陥った。
一時の宿として、祈達が通された建物は、弥勒の筆頭家である信楽に次ぐ親方衆の内の一人の屋敷だ。
湯殿を所望した”使者様”の為に、集落の中でも一番の湯殿があるこの家が選ばれたのだという。それだけ弥勒の人々は、祈の怒りを畏れたのだろう証左だと言える。
「ああああああああ……」
「これっ、静さま。そんな祈さまのダメな所まで真似をしてはいけませんっ!」
「……琥珀。後で説教ね?」
「うひぃっ」
集落一番の湯殿との評判は確かで、三人が一緒に入浴しても湯船にはまだまだ余裕があった。これならば、静の為に美龍を呼んでも良かったのかも知れないと、祈は少しだけ後悔する。
「ひぃー、ふぅー、みぃー、よぉー、いつ、むぅー……」
真剣になって指折り数える静を後ろから優しく抱きかかえ、祈は大きく息を吐いた。
(静が寝ていたから良かったものの……あの時、もし、この子の意識があったとしたら……)
祈は怒りに任せ、人を殺めるその寸前まで行った。
母が他人を殺める。
その様子を、娘の両眼に様々と見せつける。そんな可能性すらあったのだ。
死国の地は、言うなれば戦場だ。
何時かはきっと、祈自らの手によって敵兵を殺さねばならない瞬間が訪れるだろう。その時に、静は祈の事をどう思うのだろうか?
その事を軽く想像しただけで、急に鉛の塊を呑み込んだかの様な重さを胃の辺りに感じるのだ。
静は、祈’の魂魄と融合する前に、自らの人生によって、人の生死とはどういうものなのかをすでに学んでいた。
だが、自然死と殺人は、その内容が全く異なる。
生き残るためには、人が、人を殺めねばならない。
戦場での、その常識を、彼女はどう受け止めるのだろうか?
祈自身、その答えを未だ持ち合わせてはいないというのに。
守護霊でもある武蔵による荒療治お陰で、戦場で殺す覚悟と死ぬ覚悟はとうにできたつもりだ。だが、明確な答えを持ち合わせていない以上、それはただ単に思考停止、責任回避に過ぎないのだとも言える。だからこそ、祈は自身をより”尾噛”であろうとしているのかも知れない。
その点、”尾噛”の考え方は酷く単純だ。
敵対者は、絶対に殺す。嘲る者は、惨たらしく殺す。この2点だけだ。深く悩む必要は全く無い。眼前の敵を、ただ悉く斬り捨てるだけで良いのだ。
(……ご先祖様もきっと、悩みに悩んだんだろうなぁ……だから、こんな逃げが……)
「かあさま」
愛娘の声によって、祈は現実に引き戻された。どうやら己の内面宇宙へと身を委ね過ぎていたらしい。静はすでに数え終えていた様だ。
「うん? どうしたのかな?」
「……のぼせた……」
「うわわっ。ごめんね、静ちゃんっ!」
茹で蛸の如く赤い顔の静を見て、祈は慌てて娘を湯船から抱き上げた。完全に逆上せてしまっている様だ。
「琥珀っ、お水、お水っ!」
「は、はいぃっ」
弥勒の里に来てからというもの、反省する事ばかりが増えていく。
祈は自分の頭を、思いっきり力の限りに叩いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……で。貴様一体何のつもりで、ここに推参したというのか?」
風呂から上がれば、食事の予定だった筈だ。
なのに、祈の目の前には食彩を載せた膳は無く、在るのは黒くずんぐりとした丸い尾を持つ獣人の娘と、七つの尾を持った獣人の女性の、平伏した姿だった。
推参とは、呼ばれもしていないのに、強引に自らの芸を押し売りする者を表す言葉だ。目の前に平伏する娘を、祈は呼んでいない。当然、当てつけタップリの皮肉である。
「疾く失せよ。我はもう、貴様に用なぞ無いわっ!」
信楽百合音の姿を、それと見ただけで、燻っていた怒りが沸々と込み上げてくるのを自覚した。祈は不快感を少しも隠す事無く、百合音を拒絶してみせた。
「かあさま……?」
今までに無い母の激しい感情の発露に驚き、怯えた様な表情を浮かべた娘の様子を認識した祈は、今日一番の後悔をする事となった。
(くそっ。こいつ、一体何の嫌がらせでっ……!)
祈達を詐欺師と罵り、使役術で支配した獣達を嗾けてきた時点で、祈の中において信楽百合音という人物は、もうこの世に居ない者として扱われていた。祈の想像の中で、百合音は何度も殺されていたのだ。
そんな死人の突然の襲来のせいで、よもやこんな状況に陥るとは……
怒りに任せ、百合音をこの場から追い出すのはとても簡単だ。
だが、これ以上愛娘を怯えさせる様な真似は絶対にできない。先程の静の怯えた表情を思い出すだけで、祈の心は瀕死にまで追い込まれてしまったのだから。
祈は琥珀に向け、手で静を退出させる様に指示を出す。
この場に娘を同席させる事は、母の評価を著しく下げるだけで得る物は何も無い。今日一緒の布団で寝てくれるのか、それすらもすでに怪しく思えた程だ。これ以上娘の前で醜態を晒し、嫌われる訳にはいかないのだ。
「……はぁぁぁぁぁぁ……」
娘の姿が襖の奥に消えたのを確認してから、その場にどかりと音を立てて座る。
身体の内から焦がすかの様な怒りの焔を鎮めるために、祈は大きく大きく息を吐いた。
「……貴様。ほんっとに、我を怒らす天才だな。もう少しでその首、無ぉなっておったぞ?」
祈の偽りざる本音が、ポロッと漏れた。その意味を理解してか、平伏したままの百合音が、その身体ごとピクりと跳ねた。
「……まぁ、もう良いや。八尋様、それに信楽様。これで漸く……ちゃんとお話ができます、よね?」
百合音を許すかをまだ決めていないが、不興を覚悟して同席した栄子の体面を潰してしまう訳にもいかない。ここは”大人”にならねばならない場面なのだ。祈は心を落ち着け、なるだけ自然な笑顔が出る様に意識する。
「はっ、はいっ! 尾噛様には、あらためてご挨拶を。あちしが弥勒が筆頭、信楽百合音でございますっ」
百合音は必死になって、額を何度も畳に打ち付けた。どうやらこちらに対する恐怖は、未だ拭えてはいない様だ。
(……ああ。しかし、おなか、空いたなぁ……)
話は後にして、先にご飯くれよ。
その言葉をグッと堪え、祈は努めて笑顔を保った。
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