第209話 弥勒の里の騒動
「……なっ?! 何故じゃ? なんで、あちしの言う事を聴かぬっ!」
百合音の号の下、嗾けた獣達によって、陽帝国を僭称する詐欺師共は、一瞬の内に肉と内腑を食われ、骨も残さず死ぬ。
そうなる筈だった。
……少なくとも、信楽百合音の頭の中に描いた未来図では、そうなる筈、であったのに。
何故か支配者である筈の百合音に向けて、獣達は一斉に殺意の牙を剥いた。この想定外の事態に、弥勒の者達の顔は蒼白になる。
「術の強度があまりにも低すぎる。こんなの、乗っ取ってくれって言ってる様なものじゃないか……」
祈は能面の如く感情の一切を消したまま、静かに紅玉色の視線を百合音を向けた。
「ま、まさか……きさん、この一瞬で、あちしの術を奪って、書き換えたというの……かえ?」
継続的に術の支配下に在る筈の、獣達の支配権の悉くを奪い、逆にこちらへ牙を向けてみせる。そんな芸当が可能なのか。その事実を認めるのには、百合音の中にある誇りが絶対に許さなかった。
「そのまさか、だよ。こんな”お粗末”な術式で、良くもまぁ……」
威張れたものだ。
百合音を冷ややかに見下ろす視線は、何時しか全てを貫き射殺す殺意の眼に変わった。
すでに祈の中では、弥勒衆は『この世に存在しない者達』になっていた。長である百合音が、帝国に対しどこまでも反抗的であり、これがまだ”侵略者”に対しての反骨心から来るものであるならば、まだ情状酌量の余地がある。だが、あの眼はどう見ても……
そして、もし仮に、百合音を味方として見た場合、使役術を書き換えられたその後の狼狽えぶりから判断するに、どうやら次善の策すら用意していない様だ。能力も判断力も低い上に、恐ろしく視野が狭い。この様な為体では、味方に引き入れた所で、足を引っ張るだけで得る物は無い。
ましてや、弥勒が誇る獣を使役する術…従獣術の完成度は、こうして瞬時に書き換えができてしまう程度のお粗末さだ。要らない。
他者を使役する術は、何時如何なる時であろうと、安全上、必ず”保険”を掛けておく事が基本だ。
例えば、”式”の術式には、必ず術者だけが知る公式が組み込まれている。術者よりも遙かに霊力、能力共に高い敵が相手の場合、強引に”式”ごと術を乗っ取ろうとしてくる可能性がある。それを完全に防ぐ事ができなくとも、時間稼ぎはできる。その間に術を解いてしまえば良いのだ。それに加えて式の”自壊”公式を組み込む者も居る。俊明は面倒でも必ずこの2つは入れろと常々祈に教えてきた。もし仮に式が反逆した場合を想定し、直ぐ様世界への影響力を無くす為だ。
弥勒の術には、それらの危険を一切想定されていないのか、”保険”が無い。だからこそ、祈は瞬時に使役術を書き換え、全ての獣達を掌握できたのだ。
だが、こんな不完全なものでも土佐衆の手に渡ってしまう可能性がある以上、捨て置く訳にはいかないのも事実だ。これが獣だけではなく、人に向けて使われた場合、一体どうなるのか……?
術の効果が、祈の想像通りであると仮定した場合、かけられた者は、術と自身の意思の葛藤の板挟みの末、心が死んでしまうだろう。
集落に入る前は、弥勒の長になるだけ今後は使わない様にと、そう言い聞かせるつもりであったが、肝心の弥勒は、帝国に従うつもりが端から無い以上、もう術を知る者全員を亡き者にした方が手っ取り早い。
「さて。先程、我は言うたよな? 『そこな穢らわしき獣共を我に嗾けてみせよ。我が生き残った暁には、薄汚い貴様のその命、無いものと思え』……と。貴様、信楽の百合音と申したか。当然、死ぬる覚悟は、できておるのだろうな?」
祈は右手を挙げ、百合音達を囲う包囲網を一気に狭めた。百合音とその脇を固める兵士達は、迫り来る”死”という名の恐怖に、口角から泡を吹き始める。
当初の予定と大幅に変わってしまったが、祈の中では、そんなものもうどうでも良くなっていた。妥協の末、後世まで侮られるくらいならば、恐怖で縛り、末代まで恨まれる不快感の方が遙かにマシだ。それが”尾噛”の根本的な思考である。
「お、お待ち下されっ! 尾噛様、妾の命を差し出しまする故、どうか、百合音の命だけは……こっ、此度の百合音の無礼、海魔筆頭の妾の粗末な命如きでは足らぬやも知れませぬが、なにとぞ、なにとぞっ!」
今まさに振り下ろそうとしていた右手を栄子に縋り付かれ、祈の身体が大きく傾いた。
「……八尋様。帝国に弓を向けし賊を討つ、その邪魔を、なさらないでいただけませぬでしょうか?」
「いいえ、退きませぬ。信楽の百合音は、妾と杯を交わした義妹でござりまする。言うなれば、妾の半身。絶対に退く訳にはまいりませぬっ!」
賊の討伐を邪魔するならば、お前も同罪だぞ? 祈は、そう言外に臭わせた。なのに、栄子は一歩も退かなかった。
「この際、はっきりと申しましょう。貴女様のお命一つでは、我が内腑の底より沸き上がる焔を収めるには、全然足りませぬ。”尾噛”は、武の家系。嘲りには、死を持って応えてやらねばなりませぬ」
こんな寒い山の中を、一日掛けて震えながらここまで歩いて来て。
漸く着いたかと思えば、面会予定者から詐欺師とまで言われて。
絶対に、許せる訳が無い。祈は、本気で腹を立てていたのだ。
それに……
「弥勒の者共は、未だ私に頭を下げておりませぬ。貴女様の紡ぐ言の葉への聞く耳を、どうして持てましょうや?」
殺意を孕んだ獣の牙は、腰を抜かしへたり込んだ百合音達の鼻先の、その寸前にまで近付いていた、咽せる様な、饐えた血生臭き吐息が、百合音達の恐怖を更に煽る。
もう祈の命令が無くとも、獣達はこのまま喰らいに行ってしまいそうな、そんな間合いだ。百合音の両脇に控えていた護衛の兵は、限界だったのだろう。すでに気を失っていた。
「……百合音っ! 今すぐ尾噛様に謝罪なさいっ!」
「あ……うぁ……」
必死に訴える栄子の声が全く聞こえていないのか、百合音は恐怖に身を震わせ、完全に固まっていた。尻餅をついた地面からは、湯気が立っていた。どうやら失禁してしまったらしい。
「……他人に嗾ける事に一切の躊躇いが無い癖に、いざそれが己に向けられれば、恐怖で漏らすか。興が削がれた。貴様は、殺す価値も無い……」
祈は栄子に抱えられた右手をそのままに、獣達に解散を命じた。集落から離れた時点で、術の支配から完全に解ける様に細工もしてある。集落の防備は無くなってしまうが、使役術の術式が外部に漏れてしまう方が、よっぽど集落にとっては害が大きくなるだろう。
(……ま、もう弥勒がどうなろうが、私にとっては正直知ったことじゃないんだけれどね……)
百合音を殺す事をやめはしたが、弥勒を帝国傘下に組み込む線を、祈は自身の考えの中から完全に消してしまっていた。精々、土佐衆と壮絶に噛み付き合えば良いとすら、今は思っていたのだ。
「尾噛様は、湯を所望しております。早う用意なさいっ!」
事の成り行きを、息を潜めて見守っていた集落の者達へと、しかと聞こえる様に、琥珀は大きく声を挙げた。”帝国の使者”である尾噛に逆らえばどうなるか……それは長が身をもって分かり易く示したのだ。もう弥勒の集落に住まう者達に、逆らう気力は無い筈だ。
これ以上の”使者”への無礼は許されない。”使者様”がもしその気であれば、あの時にすでに皆殺しの目にあっていた筈だ。
俺達は、見逃して貰えたのだ。そして、次は無い。
命の危険を覚えた集落の者達は、我先と競う様に祈達の下へと馳せ参じ、頭を垂れた。
「我らは、一時の宿を求めます。案内を」
「ははっ。湯を含め、すぐにご用意いたしますっ」
地に座したままの弥勒の長を殊更無視し、祈達は案内と共に、集落の中へと入っていった。
◇◆◇
「尾噛め……あちきの術を……こんな簡単に……ちくしょう……」
一族の自信の源であり、”力”の象徴であった使役術を、こうも容易く乗っ取って、書き換えて……
眼前に迫った”死”への根源的な恐怖は、身動ぐ事も、声を出す事すらも許されなかった。まさか、敵前で失禁してしまうとは。
挙げ句……
『殺す価値も無い』
そう断じられてしまっては、百合音はもう立ち上がる事は出来なかった。生き恥を晒すとは、このことだ。
「……百合音……」
「……栄子、ちん……?」
すっかり股間が冷え切ったまま地に座した百合音の顔を覗き込む様に、栄子は屈む。小便が少し臭うが、そんな事は関係無い。百合音は大事な幼馴染みであり、義妹だ。生きて手を握る事ができた事を、素直に喜ぶべきなのだろう。
尾噛祈の気性を、栄子は良く理解していたつもりだった。
だが、それはつもりでしか無かったのを、思い知らされた。
恐らく、祈の怒りは収まっていない筈だろう。ひょっとしなくとも、この集落で一泊したら、そのまま海魔の里へ戻ってしまう事も、充分考えられる。その場合、海魔衆は弥勒衆を見捨てねばならないのだ。そうなっては、弥勒衆の死国での命運はここで尽きる。
「……馬鹿者め。何故、あの様な事をしでかしたのじゃ。妾の寿命が100年は縮まったぞ……」
「……ごめん、栄子ちん。あの尾噛某に、栄子ちんが取られる様な気がして……」
栄子からの書簡にあった尾噛某は、竜を操り、飛竜、海竜を悉く征したとあった。
なまじ自身が優れている為か、他者を褒め称える事が滅多に無い栄子が、である。百合音は、書簡に数行記述があっただけの、まだ会った事すらも無い尾噛某に嫉妬した。
だから、意地悪しようとした。
使役術でチョイと軽く嗾けて脅してやれば、すぐに化けの皮が剥げる筈だ。そう考えた。
栄子の前で恥をかかせてやって、どちらが有用なのか、見せつけてやれば良い。そう思った。
だが、どうなったのかと言えば、百合音は”死”を垣間見る羽目になった。しかも、集落の者達全員に知られる程の大恥をかいて。
「あの書簡は、尾噛様を誉める。そんなつもりで書いた訳では無いわ、たわけが。尾噛様の危険性をお主に理解させる為に送ったのじゃ」
「うえぇぇ?!」
考えてみれば、確かに飛竜と海竜相手に大立ち回りできる様な人間なぞ、想像もつかない。
そして、その様な人間相手に喧嘩を売ればどうなるか……
漸く合点がいった百合音は、己の浅はかさに今すぐにでも死にたくなる思いだった。
「……百合音よ、まだ終わっておらぬぞ。この一件で尾噛様は、弥勒を見放した筈じゃ。このままでは、妾もお主を助ける事ができぬ……」
臣下として従属した以上、栄子は祈の意思決定に絶対従わねばならない。
祈が、弥勒衆を『不要』と言えば、もう栄子は、百合音達を擁護する事ができないのだ。
「弥勒衆の命運、全て今後のお主の行動如何にかかっておる。解っておろうな?」
「なんと……あちき、とんでもないことしでかしてたのかぁ……」
今思えば本当につまらぬ理由で、帝国に敵対してみせた事に、百合音は大きな頭を抱えて後悔する羽目になった。
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