第204話 雪舞う集落
鈍色の空から、氷の結晶達がこぼれ落ちてきた。
「ううっ寒い…今日が当番なんて、本当にツイてねぇなぁ」
身体の芯から凍える冷気を伴った風は、幾重にも厚く着ぶくれた防寒具の隙間から入り込み、そこから熱と一緒に見回り兵の気力と体力を根こそぎ奪っていく。
雪だけでなく、今にもそのまま地上に落ちてきそうな鉛色の空を見上げ、忌々しげに兵の一人がボヤいた。そんな事に何の意味も無い事は、彼も自覚をしていたが。
海魔の本拠地である”高松”の地は、牙狼鋼率いる歩兵200名が、海魔衆筆頭の八尋栄子の求めに応じ、防衛の為に陣を布いた。
「我慢しろ。もうちょっとで交代だ…」
何度も何度も諫めては繰り返される同僚のボヤきにうんざりしながら、もう一人の兵は根気深く周囲の警戒を続ける。いかに海魔衆が帝国の傘下に入ったとはいえ、この集落の中では、自分達こそが”異邦人”であり、僅かな隙が命取りになりかねない。鉄の訓示を彼は忠実に守っていた。
狐の特性を持つ獣人が住人の大半を占めてはいるが、通常人類種も何割か集落には存在する。もしかしたらその中に敵(?)に通じる草が混じっていたとしても、異邦人たる帝国兵には区別が付かないのだから、緊張を解けと言われてもできる訳がない。
…問題は、同僚がその事実に全く気が付いていない事だが。
(もし草らしき人物の影を見つけたとしても、絶対に騒ぐなと言われたが…本当に大丈夫なんだろうか?)
如何に自分が一兵卒の無力な存在であるとはいえ、真っ当に職務に忠実である事を誇りにする兵には、この命令が理解できなかった。
戦とは、相手への情報の量で勝敗が大きく左右すると、以前の部隊に居た上司から聞いた事がある。もし敵方の草がこの集落の民として混じっているのであれば、ここの情報は全て筒抜けではないか!
「畜生、やたら寒いと思ったら、どんどん積もってきやがる。こりゃあ夜になる前に、一面真っ白だなぁ…」
(…本来ならば、すでに本国に帰投していた筈なのに、何故この様な異郷の地に俺は在るのだろうか?)
心の隙間に湧いた疑問は不安の種を芽吹かせ、ついぞ芽吹いた不安は、何時しか恐怖の花を咲かせる。
「おい、突っ立ってないでさっさと帰ろうぜ?」
「あ、ああ…そうだな」
訝しげに見つめてくる同僚になんとか返事をし、兵は踵を返す。
何となく背後から視線を感じるのはきっとの気のせいだよなと、何度も自分に言い聞かせながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「しかし、今日はホントに冷えるぜぇ…」
勢いよく湯気を立てる酒器に、鋼は一掬いの雪を落とした。
真の酒呑み達は、絶対この方法を邪道だと罵るだろうが、適温の温燗にするならば、これが一番手っ取り早い。
帝国一の蟒蛇で知られる牙狼兄弟は、酒好きではあるが、”真の酒呑み”では決して無い。
彼らにとって酒とは心地よく酔えるかどうかで味は二の次。酒精さえ入っていればそれで良く、この世界には存在しないが、工業用アルコールでもきっと喜んで呑み干してしまうことだろう。
「その癖して熱燗にはしねーのかよ、兄者」
鋼の副官であり、弟でもある鉄は溜息交じりに兄貴の雑な所行についついツッコミを入れた。
「……俺は猫舌なンだよ」
身体を芯から温めるならば、確かに湯気が立ち上る酒精が一番なんだろう。だが、悲しいかな鋼は極度の猫舌だ。
”尾噛の嬢ちゃん”がもたらした美味なる数々の魔物肉を堪能した”肉の祭典”でも、焼き上がって美味そうな香ばしい脂の匂いを放つ肉を前に、まるで飼い主から『待て』を言い渡された忠実なる犬の心境で、冷めきるまで彼は酒を舐める様にして待った程だ。熱々の方が美味いのは判っていても、これが猫舌人間にとって悲しく辛い所だ。
「…難儀だな、兄者…」
鉄は酒がたっぷり入った瓶に直接湯飲みを差し入れ、酒を掬って一気に呑み干した。彼にとって酒とは冷やでやるものであり、燗やお湯割り等は口にしない。
「…けっ、燗で咽せる奴にゃ言われたかねぇ」
…どうやら、そういう事らしい。
「悪かったなぁ。どうせ俺ぁ、酒呑みじゃねーよ畜生」
拗ねる様に鉄は湯飲みの中身を空けた。瓶の中身は、それ一杯だけで前後不覚になる人間も出る程に強い酒なのだが、牙狼兄弟にはそんなのは全然関係無い。
「…それは良いけどよ、何でお前ぇはあんな指示出したンだ?」
「あん? あんなって、何だよ兄者?」
もう一度、湯飲みの中を酒で満たした鉄は、兄の方へ顔を向ける。
「だからよ、草を見つけても放置しろって奴…」
冷やと違って出来上がるまで時間のかかる燗は、ぐいぐいと呑む訳にもいかず、鋼は次が暖まるまで舐める様に酒を嗜む。目の前でガンガン呑む弟を恨めしそうに眺めながら。
「誰も放置しろとは言ってねぇ。騒ぐなって言ったンだよ」
その事を知ってか知らずが、鉄はカパカパと湯飲みを干しては、瓶から酒を掬い上げた。
「……多分だが、名前まで聞いちゃいねぇが土佐だっけか? の人間族は、以前から何人もの草をこの集落に放っている筈だ。八尋様もそれに気付いてはいらっしゃるが、まだ特定できていない」
「なら、何で騒ぐなって言ったんだ? そんな奴がいるなら、発見次第捕らえちまった方が話が早ぇだろうが」
現場の指揮官として敵方にこちらの情報が全て筒抜けという状態なぞ、一番あってはならぬ。当然、その様な状況下での戦は、戦闘以前にもう負けも同然だ。
「逆だよ、兄者。確かに戦では、より多くの情報を持った方が勝ちだ。でも、こちらから流す情報を操作しちまえば色々と状況を有利にできるんだ。特にこの方法ならば、相手が阿呆でない方が、より上手くいく」
瓶に入った酒も残り僅かなのか、鉄は腕を出来る限り伸ばし湯飲みに酒を満たしながら兄の疑問に答えた。
少なくとも敵方の将は、こちらに草を潜ませる程度に頭が回るのは判った。ならば、それを逆に利用して引っかき回してやれば良い。
土佐の人族が、海魔の頭領が言っていた通りの奴らであるならば、ここで一度痛い目を見せた方が良いに決まっている。
時間をかければかけただけ、防衛の備えができるこちら側が有利になるのだ。
「まぁ、見てなって。兄者は呑んでるだけで良い様にしてやっから」
追加の酒を取りに行く為、鉄は寒風吹きすさぶ外へと身を乗り出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…ほうか。栄子ちん来るのかやっ!」
狸の特性を色濃く持つ獣人…弥勒衆筆頭の信楽百合音は、幼馴染み来訪の報に嬉しそうに身を乗り出した。
姉妹同然として同じ時を共に暮らしてきた姉貴分が、この地に遊びに来る。
当時の記憶を呼び覚まし、楽しかった日々を懐かしむ様に、百合音は目を閉じ薄い胸の前で両手を組んだ。
高松に在る海魔の集落とは、定期的に物資と情報のやり取りがある。今回の報も、その定期便で届けられたものだ。
海魔衆の集落とは距離が離れているが、そんなものは弥勒の里の人間には大した障害にはならぬ。野の獣を支配し、使役する。身体の小さな狸人なれば、その背に乗った所で、野の獣の行動に些かの重しにもならぬのだ。
弥勒衆が独自に持つ獣を使役する術体系は、この死国の地に生きる間に培われた、謂わば”武器”だ。
そして、人間に対して使役術は効かぬが、その応用となる幻術は覿面に効く。
この弥勒の集落を荒らしにきた蛮族共に何度も煮え湯を飲ませてやった自負が、百合音達にはある。
海魔の持つ飛竜や海竜を支配する術も、元を質せば弥勒衆の合力があって漸く成立したものに過ぎない。
だが、それによって栄子率いる海魔衆が死国と内海周辺において絶対的な戦力を示したのは確かだ。
それで良い。
そう百合音は思っていた。この不毛な死国の地に縛られて生きるのは、弥勒衆の自分達だけで良いのだと。
八尋の一族の中で一番の霊力と尾の数を誇る栄子は、海魔を率いる立場になってからずっと多忙なのか、あれから一切讃岐の地を訪れる事は無くなってしまった。
寂しいなと百合音は思うが、一族を率いる立場ならば、これも致し方なし。
自身も以前とは違い、集落を束ねる頭だ。彼女の気持ちも何となく解る気がする。
そこにきて、急ではあるが栄子来訪の報なのだ。喜ばない訳はない。
喜色満面に、百合音は栄子からの文を拡げる。流れる様な綺麗な文字は、栄子の書だとすぐに判る。
最初の数行を読んでいた間は百合音の相好が蕩ける様に崩れていたが、読み進めていく内にその表情が険しく鬼気迫るものに段々と変わっていくのを目の当たりにした百合音の側女達は、我先に争う様に部屋から逃げ出していた。
「……何じゃ? この帝国の”尾噛”某とやらは? わちしの栄子ちんに、何をしたのかや?」
大事な筈の栄子の筆の書をくしゃりと握り潰し、百合音の尻尾は毛を怒りに逆立てた。
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