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第199話 腹芸



「ぐぅぅ…胃が、痛い…」


世間一般で言う二日酔いに効果のある薬は無いという。


海を隔てた中央大陸では、古代から酒好きどもが日夜研究を重ねてきたらしいが、日々の体調によっては大幅に左右されるモノである以上、あまり成果は挙がっていないのが現状だ。


酒呑みの永遠の夢である二日酔い予防の薬も、当然存在なぞはしない。怪し気な薬丸が世間に色々と出回ってはいるが、所詮プラセボ効果が関の山だった。


では、世の酔っ払い共はどうしているのか?


強いて上げれば水を多く飲み、体内に留まる酒精を無理矢理体外に排出する事が経験則上、一番良い(マシ)であるとされている。ただし、この方法は胃痛の対処としての効果は全く無い。


お陰で様で、光秀(みつひで)の胃は、擬音で表現すると”シクシク”、”ムカムカ”…がエンドレスで繰り返されている。所謂、胃痛、胸焼けの症状が果てなく続いているのだ。


この様な状況では、固形物は口にできない。それどころか緑茶の芳香にすら、酒精を過剰に摂取し弱りきった身体は猛烈な拒絶反応を示した。


光秀の手元にある湯飲みには白湯が入っていた。もうそれ以外、身体が受け付けてくれないのだ。


「もう(おれ)は酒なんぞ呑まんぞ…絶対。絶対だ…」


度重なる暴飲暴食によって酷使され続けた胃は、持ち主へと猛抗議を繰り返す。光秀は宥める様に、その辺りをしきりに撫でた。”手当て”とは良く言ったモノで、手を当てている間は苦痛が幾分か和らいだ。


鳩尾の辺りを撫でる方に気を取られ一向に進まない事務仕事に嫌気が差し、ついに光秀は筆を置いた。


まだ潤沢とはいかないまでも、入ってくる食糧や医薬品の中から僅かながらにでも備蓄の方へと回せる様になってきた。ここ倉敷で満足して統治軍の足を止めてしまえば、後は何も考えずとも文官が勝手に全てを決めてしまうだろうし、決済印を捺すだけの楽なお仕事となる筈だ。


異母弟の光雄(みつお)は鳥取にまで支配領域を延ばしたというが、そこまでやりきる体力が果たして帝国に残っているのか光秀は甚だ疑問だった。


「まぁ、彼奴がやれると判断したのだから、恐らくは大丈夫なのだろうが…はて。己も岡山まで獲ってしまうべきか?」


海魔衆の存在によって、今の安定があるのは紛れもない事実だ。この先も変わらずこの関係が続くのであれば、岡山…その先の明石辺りにまで支配域を拡げてしまうのも当然有りだろう。


「…厭くまでも、この関係が続けば。だがな…」


一瞬だけ、光秀の脳裏に尾噛の女当主の顔が()ぎる。


少々キツく言い過ぎたかと多少の後悔はあるが、ああはっきりと言わねば、勝手に一人で暴走した事だろう。あの小娘を牽制するには、釘を刺す程度では全然足りない。もっと太く、もっとゴツい…それこそ槍で縫い付けてしまわねば聞かないのだから仕方が無い。


「ま、あれで引き下がるのならば、所詮その程度の話よの…」


すっかり水に戻ってしまった湯飲みの中身を口にし、事務作業で凝り固まった背筋を伸ばして、紅の翼を大きく拡げる。


「本当に、嫌になる。自覚が無くとも、己のこの言葉一つ一つに責任と、毒が常に混じるのだからな…」


皇族の証でもある紅色の翼を視界に収め、光秀は憎々しげに呟く。


高貴な生まれというのは、つまりは一種の呪いだ。己の発言の一つ一つに、裏があり、罠がある。例え本人にその自覚が無くとも、そこには必ず含まれてしまうのだ。


「…さて。あの小娘は己の本意に気付くかの? …ま、無理か」


尾噛の女当主は深く物事を考えぬ。本当に、彼女の頭の中は酷く単純(シンプル)だ。力尽くで押し通れるか、押し通さねばならないか。その二つだけだ。


力ある存在だからこそ許される呆れた単純さだが、それが今回は仇となる。こんな腹芸は、陰湿な宮廷世界を生きた人間にとっては、それこそ初級編程度の問題でしかないのだが、恐らく彼女では答えに行き着く事は無理だろう。だからこそ光秀は、態とそれを祈にぶつけてやったのだが。


それでも…何かしらの答えを彼女が出すのであれば…そんな期待に似た何かを、ほんの少しだけ胸に抱いて。


「今日一日だけは待ってやる。早く来い、尾噛よ…」


胃の辺りを何度も何度もさすりながら、光秀は執務室の椅子に背を預けた。



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「…と、いう訳にござります。八尋(やひろ)様には申し訳ありませぬが、今暫し、お時間賜りますよう…」


祈は栄子(えいこ)に深く白い頭を下げた。


自分から言い出した事をすぐさま翻さねばならぬのは祈にとっても業腹だったが、これは自身で撒いた種であり芽吹いた因果である。自身の手で刈り取らねばならぬのは至極当たり前の事だ。


「尾噛様、お顔を上げてくださいまし…無理を承知の願いでございます。妾にその様な事をなさっては…」


形式上、海魔衆と帝国は対等の契約を結んではいるが、実際は祈の力に屈服しての隷属である。祈が頭を下げる道理は一切無い。そう栄子は考えている。


確かにここで帝国の合力を得る事ができねば、飛竜(ワイバーン)という絶対的戦力の無き今の海魔衆では死国(しこく)内の安全保障は成り立たない。


讃岐にいる狸達に頭を下げれば、多少の戦力を割いてくれるだろう。彼らの操る呪術は海魔よりも優れている。人間相手ならば問題は無い筈だ。問題は…熊と蜥蜴だ。白兵戦に持ち込まれてしまえば、肉体の差がそのまま戦力の差となる。そうなっては狐も狸も勝てる道理が無い。


(…ここで移住のお願いをしてしまうのも手か)


栄子は脳内で算盤を弾いた。狸を見捨てる形になってしまい少々体裁が悪いが、一族の安全を考えるならば、恐らくこれが最善手だろう。


「今日中には何とかいたします。八尋様、暫しお待ちをっ」


「えっ? あっ…」


さて、どう切り出そうか?


そう考えている内に、祈は即座に一礼し場を離れてしまった。栄子が声を掛ける間も無く…


(しもぉた…どうしてこう、妾は間が悪いのじゃ…)


肩の高さにまで上げた右手が虚しく空を掴む。栄子は祈が忙しなく閉めた襖を見つめ、その状態のまま暫しの間固まった。



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「取りあえず、今できるケジメは付けてきました」


栄子の逗留する宿を辞し、祈は牙狼(がろ)(はがね)(くろがね)が待つ茶屋に駆け込んだ。


「おっし。んじゃ、嬢ちゃん。倉敷の領主様(あの馬鹿野郎)の所へ行くとすっか」


「ちょっと待てよ兄者…祈様、喉が渇いた事でしょう。一服、茶でも…」


鉄が気を利かせ、祈の為に椅子を引く。


場には勢いが必要な時も確かにある。だが、急いては事を仕損じるともいう。ここらで一端小休止するという選択も、決して悪く無い筈だ。


「じゃあ、お言葉に甘えて…勿論、鋼様の驕り…ですよね?」


「っかー! 嬢ちゃんよ。お前さん、俺より俸禄良い筈だろうがよ…」


「それはどうか解りませんけれど、私には娘がおりますし、これから嫁入り道具の工面とか、色々と倹約しないといけませんので」


鉄の勧められるままに、祈は腰を降ろす。


その眼前には、空になった酒器が机の上に大量に積まれ、祈は軽く目眩を覚えた。


(私が八尋様と面会していたほんの少しの間に、どれだけ呑んだんだ。この蟒蛇(うわばみ)兄弟は…)


兄弟の吐く息からは、酒精が多分に含まれているのだろう。この席に居るだけでくらくらと酔いそうになる。だが、彼らの表情や所作には一切()()が表れない。祈は戦慄を隠せなかった。


「ま。それくらいはな、兄者? だが、そろそろ独り身のままって訳にもいかねーだろうよ、俺らもさ」


独り身の今は自由に使える銭が多いんだから、ケチケチ言うな。鉄は兄のぼやきを諫める。


とはいえ、そろそろ牙狼の血を後世に残せと(おおとり)(しょう)からの圧力(プレッシャー)もある。本国に戻ったら、翼持つおっさんがいそいそと幾つかの縁談話を持ってくる可能性は高いのだ。腹を括る必要がある。


「ああ、本当にめんどくせぇ…好きな時に酒を呑んで、好きな時に女を抱く。それで一日が終わっていた時が懐かしいや」


嘆きながらも、鋼は酒を一気に煽る。鯨飲とはこの事を言うのだろう。祈は眼を剥いた。


「…ああ、ウチの兄者はホンっとに心底クズだぜぇ…」


兄と同様に、弟も徳利に直接口を付けて盛大に喉を鳴らす。引き締まった肉体の何処に、空になった酒器の容量に見合った酒が消えたのか? 祈は不思議でならなかった。


「あはははは…」


噎せ返る程の強烈な酒精の臭いに、祈はもう笑うしかなかった。



誤字脱字がありましたらご指摘どうかよろしくお願いいたします。

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