第196話 却下却下
「暫くお暇させていただきとぉございます」
「却下だ」
自業自得の深酒による二日酔いから復活を果たした光秀の業務は、直属の部下からの休業願いの却下から始まった。
未だ本調子ではないのか、顔色の良くない光秀は渋く濃く煎れた緑茶を手元に置き、しきりに胃の辺りを撫でていた。
(あんなの飲んでたら、よけいに胃を痛めるだけなのに…馬鹿なの? 絶対馬鹿だよね?)
辺りに漂う強い茶の香気に祈は顔を顰める。濃く煎れた茶は覚醒作用があるのは確かだが、それと同時に胃を痛めてしまうのは常識だ。これではどう考えても、荒れた胃に自らトドメを刺す様なものだ。
「光秀様、その様に濃く煎れた茶をお召しになっては駄目です。酒精で弱ったお身体に良くはありませぬ」
「…貴様、己の返答を聞いておったか? 却下だと言ったのだが」
祈はそれをあえて無視していたというのに、光秀はまた却下却下と繰り返した。
「…でしたら、理由をお訊ねしても?」
休暇願いの届け出は貴族の権利の一つであり、基本的に出した時点で受理される。慣例として正当な理由無き却下は、まずあり得ないものだ。
「ふん。貴様、死国へ征くつもりだろう? 己は言った筈だ、海魔の願いを『断れ』と」
「ええ、左様でござります。ですので、”帝国魔導局長”尾噛祈としてではなく、”一個人”の尾噛祈として、死国の地へ渡ろうと…」
兵達を連れず、ただ個人で行くだけなのだからそこに何の問題があるというのか? 帝国には何の負担も無いのだから、別に構わないだろう。祈はそう開き直ってみせたのだ。
「大問題だろ…そも、貴様は帝国にその名を列する”貴族”なのだぞ。貴様の一挙一動が、そのまま帝国の評判となる。それが解らぬ訳ではあるまい?」
光秀の言葉は、祈にとって嫌になるほどに正論だった。
如何にただの一個人だと称したとしても、祈の動いた”結果”が、後に噂として周囲に伝播する。その際に評判の善し悪しに拘わらず『あの帝国貴族の』が、祈の名前の先に嫌でも付いて回るのだ。
そして、海魔衆の”お願い”の通りに祈が動くのであれば、それは”陽帝国による死国攻略”という事実上の侵略行為を、光秀は認めてしまう事になるのだ。到底頷ける訳なぞ無い。
「ええ、左様にございます。ですから、私が死国に赴くのですよ」
死国は、海魔を筆頭に幾つもの”蛮族”が棲む修羅の地だ。そこを兵も伴わず征服せしめたらどうなるか?
修羅を征する程の戦鬼が帝国に存在するのだと大々的に喧伝できるのだ。しかも、帝国側に一切の金銭的負担も無く、だ。良い事ずくめではないか? そう祈は胸を反らし説明した。
「ふむ。確実に攻略が成功するのであれば、貴様の言う通り良い事づくめだな。だが、もし貴様が何らかの事情で敗走する羽目になった場合はどうだ? その矛先は、確実に帝国に向こう。半端に死国の蛮族を刺激し喧嘩を売ってしまった責任、それはどう取るつもりなのだ? 貴様も組織の長ならば、そのくらい解るだろう? 成功だけを考えるな。常に最悪の事態を想定せよ。この馬鹿ちんがっ!」
己は倉敷に来てからは、ずっと最悪の想定しかしておらんぞ? 辛そうに胃をさすりながら光秀は零した。
「認めよう。確かに貴様は”最強の駒”よ。規格外戦力と言っても良いだろう。それを活かすのならば、単騎の運用こそが一番なのだろうよ。だがな、そんな貴様でも不意を突かれれば傷も付こう。その身に何かあってからでは遅いのだ…貴様の娘は? 家は? 魔導士達は? 少しは考えよ…残される者の気持ちを」
大きく息を吐き、光秀は温くなった濃い緑茶を一気に煽る。それが余計に胃にダメージを与えるというのに。
「…己が満足できる返答を持って来い。そうしたら認めてやる」
光秀は手だけで、祈に退出を促した。話は終わりだということらしい。
祈は大人しくそれに従い、一礼をして光秀の執務室の戸を閉めた。
(…何も、言い返せなかったな…)
心の何処かで、光秀の事をただ血筋だけの愚か者だと軽視していた。蔑視していた。
だが、実際はどうだ?
そんな人間の放つ言葉の一つ一つが、祈に深く刺さり抉ったのだ。
(なあ、祈)
(なぁに、とっしー?)
(…少しは、堪えたか?)
(…かなり、きた)
思い上がり、増上慢。言葉にしてしまえば、そんなもの。
だが、ここに来てそれを鋭く指摘する人間が現れるとは祈は思ってもみなかった。それも、心のどこかで侮蔑していたであろう人間からなのだ。
祈は、何の反論もできぬ程に完全に打ちのめされた。
(…そっか。なら、考えろ)
(うん。うん…)
局長だ、当主だ、母親だと踏ん反り返ってみたところで、自分は所詮数え14の小娘でしかないのだ。嫌と言う程に、それを思い知らされた。
「光秀様が納得できる答え、出さないとね…」
それがギリギリの及第点でも構わない。もともと祈は口が巧くないのだから。
八尋栄子に、この状況を何て説明しようか。まずそこから始めねばならぬ。
自室へと戻る祈の足取りは、酷く重かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
第五皇子の光雄が治める領域は、米子を越え今や鳥取にまで達していた。
「だが、ここらが限界だな。帝国の眼と手が届くギリギリだろう」
支配領域が拡大すれば、そこに関わる人間の数も一気に膨れ上がる。当然の事だ。
”獣の王国”による圧政は、短期間であったのだとしても、そこに住まう民に深刻なダメージを残した。
『餓死一歩手前』
そんな人間が、大多数を占めていたのだ。
現状、国土は従前の倍近くまでに膨れあがったのだが、その様な状況では得るものが何も無く、ただひたすらに資金と物資を吐き続ける格好になってしまっている帝国の懐には、当然ながら一銭も入ってはいない。
ただでさえ自らの首を絞め続けただけの拡大政策も、そろそろ帝国の資金が尽きる。ここらが潮時だろう。
まだ東の地にも無政府の空白状態が続いているのだと草の報告にはあるが、これ以上の拡大は自殺行為にしかならない。光雄はその先に居るであろう腹を空かせた人達を見捨てる事にした。
「所詮、人間は我が身が一番可愛いのだ。余計な扶養家族を抱えて、一体誰が支持するというのか…」
今在る領土の民達を満足させねば、足下から支配が崩れる。だからこれ以上の無理は絶対に冒さない。
「国境の壁は、岡山へと伸ばせ。恐らく光秀兄も、そこまでは進む筈だ」
もしその見当が外れていたとしても、それはそれで仕方が無い。そこまではこちらで抑えてやれば良いだけの事だ。
「…だが、まさか”海魔”を飼い慣らすとは…なぁ。予も驚いたぞ」
良くも悪くも”凡庸”だと思っていた腹違いの兄が、まさかまさかの予想外とも言える大成果を挙げるとは。光雄は片方の口の端を吊り上げ笑った。
帝の椅子に興味は無い。当然皇太子レースなんぞもどうでも良い。
だが、他人事だからこそ心から楽しめるものもある。
「さて。誰が皇帝の座に就くのかね? 光公兄か? 光秀兄か? …それとも…」
これから暫くは、つまらぬ内政が続く。
その紛らわしには丁度良い題材だ。
安楽椅子に深く腰掛け、光雄は思考の海へと意識を漂わせた。
誤字脱字があったらごめんなさい。
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