第195話 私ならば可能ですよ。
「…粗茶ですが」
「おお、すまぬの」
八女の茶は、帝国内でも最高級に位置する一大ブランドだ。如何に祈が帝国軍部の中に在って高い地位にあるとはいえ、常飲するには少しばかり贅沢が過ぎる。当然、これは来客用のとっておきだ。
八尋栄子は、暫し香気を楽しんだ後に、浅緑色の液体を少し口に含んだ。
(…これは良い茶じゃ。妾の様な者に、有り難い事じゃ)
客に出すにしてもこれほどの甘味と旨味を持った恐らくは高級な茶葉だろう…を、惜しげも無く使うという事は、少なくとも尾噛祈という人物は、海魔衆を軽んじてはいないという確かな証左なのだろう。例えそれが、呼びもしなかった押しかけの客だったのだとしても。栄子は改めて気を引き締める。
栄子の目的は、先日の新年会でお願いした帝国による”死国”の地の完全統治。その念押しだ。
もしそれが叶わなくとも、死国の地において海魔衆を安堵するという言質が、祈本人の口から引き出せれば言う事は無い。そもそもこの”お願い”の最大の狙いが、海魔衆の安全保障なのだから。
(ま、些か虫の良すぎる話じゃがな…)
今の海魔衆は、ただ帝国に要求するばかりで返すものが無い。その自覚が栄子にある。そもそも海魔は、すでに帝国との間に雇用関係が成立しているのだ。今更『一族全て永久の忠誠を捧げる』などと宣った所で、その関係に大きな変化は無い。謂わば”言うだけならタダ”という酷いペテンだ。
死国とは、まさに文字通り、”死の国”だ。山野の獣を狩り、それを喰らうだけでは、人は生きてはいけぬ。穀物が、野菜が、生活に必要な様々な雑貨が、必ず要る。
少ない平野を補う様に山地を切り開いて、無理矢理に棚田を作っては耕作をする。陰りはするが降らない雨をただひたすらに待ち望み、恨めしげに曇天を睨む日々は精神を削り続けた。
天候の影響を受けにくい作物を見つけては、畑に植え育てる。
内海を渡り他の街と交易を重ねる事で、何とか生活に必要な最低限の雑貨を買い揃える。海賊稼業だけで食っていける訳はないのだから。
そうやって切り詰めに切り詰めて得た食糧と財貨を狙う輩が、周囲には居るのだ。
狸は良い。数少なき親しき隣人として、現在海魔衆とは協力関係に在る。
天狗もまぁ良い。彼らは何かの道を極めんと勝手に生き急いているだけだ。他を見下し、一切の関係を持とうとはしない。こちらから要らぬちょっかいを出さず、ただ放っておけば何の障害にもならぬ筈だ。
問題は人だ。奴等は本当にどうしようもない。性は狡猾、大した力なぞ持ってはいないが、とにかく数が多くそれだけでも脅威だ。その数を、何故に生産へと向けぬのか本当に不思議でならない。
熊も問題だ。奴等は無駄に肉体が強くしぶとい。飛竜を操る術があるからこそ、奴等に対抗できてはいたが、飛竜の無い現状では一番危険な存在やも知れぬ。
危険と言えば、蜥蜴にも警戒を怠る訳にはいかぬ。奴等は生きた災害だ。対抗はできるが、被害を考えず特攻してくるから非常に厄介だ。できれば後顧の憂い無き様、完全に滅ぼしてしまいたいが、奴等は定まった住処を持たぬ。殲滅は難しいだろう。
考えれば考える程、死国という土地は厄介なのだなと、改めて栄子は思い知る羽目となった。
(…もういっその事、死国を捨てて倉敷の近くに土地を借り一族諸共移住してしまおうか?)
ちょっとした思い付きだったが、かなり良い案に栄子は思えてきた。そちらの”お願い”の方が、存外すんなりと通る気すらしてくる。
何せ、帝国は焼け野原だった倉敷の地に一月足らずで、どこぞの国の都かと見紛うばかりの巨大な街を築いてみせたのだから。
現状、倉敷周辺に空いた土地はいくらでも在る。あの魔導士達が少し本気を出せば、その程度の開墾すら訳はないだろう。
(うむ、妾ってば完全にはやまった。こちらの方がよほど良いお願いではないか…)
生まれ育った土地を捨てる。これに抵抗を覚える者は、当然少なくはないだろう。だが、一族の未来を考えるならば、他の蛮族の影に怯えたまま実りの少なき土地にしがみつくより、遙かにこちらの方が良い筈だ。死国統治の件を断られた場合の次善の策として一考にすべきだろう。
そうと腹が決まってしまえば、急に栄子は気が楽になった。
思えば、最初の”お願い”はあまりにも無茶が過ぎた。如何に尾噛祈が強大な武力を持っていようと、彼女は帝国の一介の将に過ぎぬ。最終的な判断は帝しかあり得ない。厭くまでも”海魔衆宗主の願い”を帝にそうと伝える程度しかできないのだから。
移住の件ならば、恐らくは統治の為に遣わされた紅の翼を持つ青年が処理するだろう。その程度の権限くらいは持っている筈だ。
「うむ。美味い…」
ここにきて栄子は漸く、茶の甘味を存分に愉しむ余裕が出てきた様だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…八尋様、貴女のお願いですが、帝国としての返答は『否』でございます」
「…理由をお訊きしても?」
予想通りの祈の返答に、栄子は溜息も出なかった。覚悟していた事とはいえ、ここまで予想通りだと落胆すらもできぬ。せめて帝国側の本音を訊きたい。その思いで栄子は返した。
「米子…今は鳥取にまで達しましたか。そこから倉敷、その周辺の土地を得た今、帝国の”国土”は従前のほぼ倍となりました。その管理と統治で手一杯…そういうことです」
無理に死国の地を得たとしても、帝国にとって労力に全然見合わぬ。祈はそう言い切る訳にはいかなかった。目の前に座すのは、その住人なのだから。
「海魔衆以外の、全ての死国の住人を”説得”する為の兵力を捻出できない。お恥ずかしい話ではございますが、今の帝国の力とは、その程度なのです」
目を伏せながら、祈は帝国の現状を包み隠さず栄子に晒した。
『それで帝国を見限るというのなら、決断はどうぞお早めに』
口にこそ出さないが、祈は態度でそう栄子に言っている様なものだった。
祈は海魔衆を完全に信用していた。だからこそ正直に、何も飾る事なく、帝国の今の戦力では死国攻略は無理なのだと伝えた。
「…有り難うございます。我ら如きに、正直に帝国の現状を…」
祈の言いたい事は、栄子に充分に伝わっていた。その程度で見限るなどと思われるのは心外だが、こちらを心配しての心遣いだと思えば、栄子も腹が立たない。
「帝国の力では、死国の統一なぞ無理です。それはこの地の統治者、第四皇子でもあらせられる光秀様も、お認めになっております」
「…でありましょうな」
この地の代官として統治を任ぜられる様な人間だ。現状戦力と必要戦力の差、その程度の判断もできぬ馬鹿では決してなれない。栄子も頷いた。
死国の地は広い。
そして、広大な土地の大半が山野である以上、大多数の兵を展開する事も難しい。そうなれば、少数精鋭にならざるを得ない。栄子達の眼から見て、帝国兵の装備は他国よりも遙かに上質だ。ただ、それを扱う兵の質は、正直あまり良くは無い様であるのだが…
資金的な面から見ても、時間的な側面から言っても、その様な”少数精鋭”と呼べる様な兵達を捻出する余裕が、今の帝国にない。祈の言わんとする所はそういう事なのだ。
「…ですが、私ならば、それも可能でございます」
「…はい?」
一族の移住。それをどのタイミングで言うべきか悩んでいた栄子にとって、祈の言葉は冗談にしか聞こえなかった。
「…尾噛様、い、今なんと…?」
「ええ。ですから、私ならば可能ですよと」
祈は静かに湯飲みを傾け、茶を一口含み唇を湿らせた。
「死国に棲まう全ての者を”説得”できる戦力を、すぐにでも捻出して差し上げましょう。そう言ってます」
薄紅色に染まる艶やかな唇に残った水分を指でそっと拭い、祈は淡く微笑んだ。
「その代わり、死国統一が成った暁には、貴女様が以前私に誓って下さった様に、帝への永久の忠誠を…なにとぞ、よしなに…」
(ああ。やはりこの娘に敵対した我ら海魔が愚かだったのだ…)
事も無げに死国統一を個人の力で成すと言い切った時の竜の娘の微笑み。それを目の当たりにした栄子は、正に背筋が凍る思いだった。
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