第175話 記憶の旅2
「お…怨怨怨怨…オオオオオォォォォォ…」
娘の魂の内に封ぜられていた”悪意”が、祈の呪によって崩れていく。
如何に、かの”大魔王”のかたちを成していようとも。
如何に、かの”大魔王”の権能を模していようとも。
すでに祈の敵ではなかった。
「…お前、もう太刀の合力なぞ、要らぬのではないか、の?」
「冗談っ! 私は証の太刀を手にするのを、まだ諦めてないんだかんね」
多少は手こずるかと邪竜は覚悟を決めて挑んだのだが、いざ蓋を開けてみれば手を出す余地の一切も無く、祈が一人で大魔王を瞬殺してみせた。
彼我の戦力差を完全に見誤った。そう言ってしまえば、本当にそれだけの話でしかない。
だが、邪竜は釈然としない何かが、胸中の底で残り火の様に燻るのを自覚してしまった。
まさか、何があっても、それこそ我が身を差し出してでも絶対に護る。そのつもりでいた筈の娘が、自身をも遙かに超える能力を身に宿しているなどとは…
祈の親を自称する邪竜にとって、それは嬉しいと想う気持ちがある反面、悔しさで歯噛みしそうになる程の忸怩たる想いもあるのだ。
(…認めたくは、ない。じゃが、これが現実よな…)
半ば自爆した祈の命を守る為、一時的に精神世界”まやかしの彼岸”へと魂を隔離したが、祈の能力はその時すでに駆流を超えていたのだ。そうと思えば、この結果は当然であったのかも知れない。
「…黒いモヤが晴れていく…」
「今のは、娘の内に入り込み、積み重なり淀んだ”人の悪意”よ。決して外に出すまいと、己が身の内に封じ込めておったのじゃろう」
「え? 封じ込めて…って…」
邪竜の言葉の意味が判らず、祈は反芻する。
他人から差し向けられる”悪意”とは、向けた本人にそのつもりが無くとも、向けられた者の内で成長し、折り重なっては身に重しを載せ縛りつける。そしてやがては化生へと変化する”呪い”と化す場合すらもある。
(それを己が身の内に封じ込める…? あり得ないっ! そんな事をしたって何の意味も無い。ただ自滅するだけじゃないかっ!)
身の内で淀み、次第に大きくなっていく”悪意”。
それを発散する発想も、術も一切持たぬ娘は、内から膨れあがり、やがて外に飛び出し暴れようとする正体不明のこれを、己の内に閉じ込める事しか考え付かなかったのだろう。
祈達がここで祓わなければ、近い内に娘は膨れあがった”悪意”に呑まれたか、もしくは…
「少なくとも、あの娘の自我は、無ぅなっておったじゃろう…の」
「…はぁ。私、母親失格だぁ…何も気付かなかったんだもん…」
娘の日々の反応に多少の引っかかりを感じてはいたが、それだけだった祈は、がっくりと両肩を落とした。娘との付き合い方を、もう一度見直さねばならないだろう。
「そう悲観せんでもええさ。あの娘は”怒る”という感情を、まだ良く分かっておらぬ。そもそもの原因は、そこよ」
負の感情として捉えられがちな”怒り”。
往々にしてネガティブなイメージに引っ張られるが、それは全く必要の無いものではない。”怒り”の感情は、身の内にそれと知らず溜まり続ける心の澱を、外に吐き出す立派な役割があるのだ。
「あの娘は確かに母に愛されて、祝福されて生きてきた。”怒り”を知らぬのは、幸せであった何よりの証じゃ。じゃが…」
母親の死後、父親から常日頃行われる度重なる暴行によって、幸せであった頃の全てが無意味に消えた。
大人の男性が持つ絶対的な、圧倒的な暴力の前には、幼き命なぞ吹けば飛んでしまう芥子粒同然の、頼り無い存在でしかない。
娘が父親からの理不尽に対し”怒り”を覚える事も出来ず、圧倒的な暴力の前に屈し、絶望に打ちのめされてしまった。
その後、売られた娼館での生活で、幾重にも”悪意”を浴びた。その理不尽にすら”怒り”という発散する術を持たず、ただその身の内に溜め込んで…
”廃棄”された娘のその後の記憶は、野の獣以上に凄惨で酷いものであった。
暴行によって負った傷の内から身が腐り、死病による痛みが娘の寿命と、壊れてしまった筈の精神をも蝕んだ。
盗みを働く事なぞ思い付く訳も無く、路地裏でただ一人、空腹と全身に走る死病の痛みで身を捩る事しかできない、思考を放棄し、半ば生ける屍として過ごす時間。
(…もうダメ…)
限界を迎えた娘の意識が途絶える寸前、恐らくは<破邪聖光印>だろう目映き聖なる光に包まれ、娘は漸くお迎えが来てくれたのだと歓喜した。
「ここで記憶が途絶えたか。恐らくは…」
「…だね。ここでこの子本来の”自我”は、喰われてしまった…」
次に娘が目を覚ましたのは、内に潜り込んだ大魔王が消滅した後の時間だろうか? 光が消え、漸く目が慣れてきた頃。路地裏からの景色を、娘は何の感情も持たずただ呆然と見ていた。
ほんの僅かの、一時であっても大魔王の仮の依り代となった娘の身体は、ギリギリで生き存えた。生き残ってしまったのだ。その光景を目の当たりにし、二人は獰猛に唸った。
「何たる皮肉か。かの”大魔王”がたまらず娘の内に潜り込んだからこそ、肉体だけが生き残る機会を得てしもうたとは…の」
「この後、もし、この場に私が居合わせなかったら…もし、あの子を拾ってこなかったら…ああ、嫌だ。考えたくない」
娘は何の感情も湧かなかった。
ただ、目の前の光景を、そのまま見ているだけの存在でしかなかった。
今までの記憶は、ある。
全身を鈍く苛む痛みも、痺れも、感じる。
だが、それだけだ。
そこからは、何の思考も、感情も湧かない。
ただ、現実が在る。ただ、それだけだ。
ただ見ているだけ。そんな娘の視界に、突然光が射した。
四人の娘の姿が目に飛び込んできた。
感情の無い筈の娘の視線は、その内の一人に釘付けとなった。
娘の記憶から、その時の感情を二人は全く読み取れなかった。
ただ…
(あのひかりは、わたしをたすけてくれる。おかあさまとおなじ、やさしいひかり…)
その直感だけが、”意思”を持たぬ筈の、娘の身体を突き動かした。痛みで鈍くなった身体の内から力が出て来る。
これが生存本能というものなのだろうか? 生きる”意思”は無い。無かった筈だ。
…なのに。
人のかたちをした光に向け、娘は手を伸ばす。
そして、祈の右袖をしっかと掴み、言の葉を掠れながらも絞り出した。
「…タスケ…テ…」
その次の言葉では、声が出なかったが、口だけは確かに動かした。
『私はまだ生きている』
誤字脱字があったらごめんなさい。
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