第174話 記憶の旅
「ええか? 我らは今から記憶を辿る旅に出る。この娘が、この世に生を受けてから順を追って…じゃ」
邪竜の言葉に祈は頷く。
祈は今や、肉の器を離れ剥き出しとなった魂魄だ。
その霊格が高ければ高い程、魂の形はより真球に限りなく近くなる。二人の今の姿はまさしく光の玉であり、人間の形を成してはいなかった。
「じゃが、忘れるな。今から我らが目にするは娘の”過去の出来事”じゃ。我らは視るだけしか出来ぬ。お前は絶望に嘆き、無力感に苛まれよう。じゃが、忘れるな…あくまでも”過去の出来事”にしか過ぎぬ…」
邪竜の後を、祈は無言で付いていく。
精神世界。人の内に棲む邪竜にとっては、庭みたいなものなのかも知れない。だが、いくら静が身内であるとはいえ、”尾噛祈”という存在は、他人の精神世界に迷い込んだ”異邦者”である事に変わりは無い。
霊界に通ずる異能を持つとはいえ、魂の内の世界になると祈には完全に未知の領域だ。今は邪竜に付いて行く他は無かった。
原始の海。
全ての生命の起源であり、この世に生をうけし魂の容れ物となる肉体の還る場所だ。
同じく”原始の海”と形容される事もある母胎。リラックスしている時の心臓の鼓動は、さざ波の周期と一致するとも言われている。
母胎に護られし新たな命は、常に母の鼓動を耳にして生きているのだ。
「人とは面白いものでな? 母の胎内におった頃の記憶を、実はちゃんと持っておる。この時、如何に愛されておったか…人としての”形”、この時すでに定められておるのじゃ」
暗闇の中。波の音にかかる様に微かに歌声が祈の耳に入ってきた。
「…これは、子守歌かな?」
「じゃな。うむ、喜べ。静は愛されて、望まれて生まれた命じゃ」
はやく、はやく、産まれておいで。
母は、あなたが出て来る日を…待っていますよ。
名も無き頃の”記憶”は、母の鼓動と子守歌。この子は望まれて、祝福されて生まれ出でたのだ。
どうやら静は商家の娘だったらしい。
問われてすぐ年の頃を言えたのだから、少なくとも何かしらの教育は受けていたとみて間違いは無い筈だ。これが何も教育を受けていない者であれば、答えられる訳なぞ無いのだから。
父親と、残りは奉公人であろうか? 4人程の男の人影の記憶がうっすらとあった。さすがに他人の顔を憶えている訳はない。その表情は朧気であった。
対して、母親の記憶はしっかりとあった。いつも柔らかな笑みを浮かべた優しげな女性ではあったが、祈とは顔立ちが全然違って見えた。邪竜は、記憶の母親の顔と、祈の顔を何度も見比べてはしきりに首を捻った。
「…ふむ。どうにもお前とは印象が全然合わぬの。何故あれほどあの娘は、お前に執着したのであろう?」
(…そういうお前だって私と同じ顔、同じ背格好じゃないかっ!)
そうは思っても、その言葉はブーメランとなって、結局の所、祈に再度痛烈に突き刺さるだけだ。何も言わない方が身の為である。その代わり、祈は一つの推察を口にする。
「私をかあさまと呼ぶのは、多分”もう一人の私”の影響なんだと思う。今回面倒な事になっているのは、多分そのせいじゃないかなぁ?」
存在自体がイレギュラーだった祈’の”自我”を虚だらけの魂に植え込んだせいで、影響がより強く出てしまったのだろう。今の所、原因として考えられるのはその一点だけだ。
「赤子とより長い時を過ごすのは、”母”だからの。そりゃ、記憶に残るは母のみ…か」
”記憶”の時間を、6年ほど進める。
その母親が、床に伏せっていた。
浅く早い呼吸をしてはいたが、苦しげな表情を一切表に出す事は無く、伸ばされた娘の小さな手を優しく握り返していた。
「…死病じゃの。気丈に振る舞ってはおるが、これは…長くない」
娘に要らぬ心配をかけぬ為とはいえ、いくら表情を内に隠したとて土気色の肌でその状態は窺い知れる。
邪竜の見立て通り、母の命は長くなかった。
それから半年程で、母はこの世を去った。
「記憶の中で、父親の顔が一切出てこぬのは、このせいか…」
母親がこの世を去ってから、急に”記憶”の景色に、黒くモヤがかかる様になった。娘にとって”忘れてしまいたい”記憶なのだろう。
端的に言ってしまえば、父親は酒に溺れ生活が一変した。
父親は、生業でもある商いの一切を放棄し、奉公人の姿がなくなった。ひょっとしたら店の金を持ち逃げされてしまったのかも知れない。娘の記憶に在る父親は、何も無い部屋の真ん中に座り込み、常に娘に背を向け酒を浴びる様に呑んでいた。
酒が無くなればその場で正体無く眠り、目覚めて娘の顔を見ては暴行を加えた。それに飽きたら酒を買いに行かせ、また浴びる様に呑む。娘にとって、父親とは今や恐怖の象徴となっていた。
そんな日々が1年以上続いた。
その後、ついに家の金が尽きたのか、娘は娼館に売られた。
そこからの先の”記憶”は、祈が何度も目を背ける様な悲惨なものだった。
娼館の中は、完全に女の世界だ。
この世界の現代に伝わる『吉原』の様な、洗練された”芸”を売りにした華やかな世界では決してない。ただ、男に性を売るだけの、生々しくも醜き世界だ。
今はまだ身体が出来上がっておらず、小間使いとして入ったとはいえ、娘が成長し”おんな”となれば、何れ上客を奪われ、地位を奪われる。
絶対に逆らわぬ様、今の内に徹底的に凹ませようとするのは、娼婦としての本能だったのかも知れない。
娘は、陰湿な苛め、折檻の数々を常日頃から受けた。
他に売られてきた同じ年頃の娘達も、娼婦達から標的にされぬ様にと、出し抜き、裏切りは日常茶飯事だった。
更に、なまじ娘の容姿が他より美しく優れていたが為、積極的に、かつ執拗に狙われた。
そんな日々を生きていては、娘が”他人は全て敵”と認識するのは、無理もない事だろう。
”客”の中には、まだ身体のできていない小間使いにまで手を出そうとする不届き者がいる。
娼館も商売である以上、”売り物”になる前の原石を壊されてはたまったものではない。当然断るが、しかし相手が不味かった。
娘を見初めたのは、この地を支配する蛮族の上級兵の一人だったからだ。
まだそうなる様に出来てはいない幼女の身体が、それに耐えられる訳は無い。結果、娘の身体と心は壊れた。
そして、身体に刻まれた無数の傷から死病の素が入り、娘の身体を内から徐々に腐らせた。
娼館の主は、使い物にならなくなった娘を”廃棄”した。
「…良く在る話だと言ってしまえば、それまでなのだがのぉ…」
「…人間ってさ、一体なんなんだろうね…」
嫉み、妬み、怒り、裏切り…人の持つ”悪意”とは、人をどこまで醜く歪めてしまうというのか。
娘の”記憶”を外から眺めていただけの祈ですら、人の持つ”悪意”に精神がまいってしまいそうになる。それをまともに浴びた娘が歪むのも、仕方が無い様に思えてならないのだ。
「それを定義するは、貴様ら人間の”仕業”であろ? 決して我ではない」
「そりゃそうなんだろうけれどさ…」
人間の常識の物差しで図れはしない邪竜にとって、人間の世の事なぞ厭くまでも他人事でしかないのは確かだ。だが、だからと言ってそこまで突き放した物言いをする邪竜の態度に、祈は少しだけ苛立ちを覚えた。
「それに、本番はここから…我らの目的は、ここからじゃて…」
娘の”記憶”にかかっていた黒いモヤは、何時しか娘の魂の内側の全体を覆い尽くす様に、濃密に絡み合い、そして果てなき昏き闇の塊と化していた。
「げに恐ろしきは、人の持つ”悪意”よの。こうして、内に溜まり、淀み…何時しかこの様な、強大な化け物をも創り出すのじゃから、の」
昏き闇の塊は、やがて不定形の汚泥となり、周囲に悪臭を放ちながらも、ゆっくりと祈達の方へ差し迫ってきていた。
「…これじゃまるで、あの時の”大魔王”そのものじゃないか…」
魔の森に在った、社の後ろの要石に封ぜられていたかつての大魔王の姿と、それはあまりにも酷似していた。
そして、そこから放たれる”悪意”をも超えた人への”呪詛”は、正にあの時に感じたそれと比較しても、何ら遜色無く迫るものだった。
「静よ、我が娘よ…お前はここまで人の”悪意”を浴びて尚、外に出すまいとその一身にそれを閉じ込めておったというのか…」
邪竜は這い出てきた不定形の汚泥が放つ”呪詛”の意味を知り、苦しげに呻く。
「魔王の魂に触れ、そのかたちを、内に封じた”悪意”が覚えた…か…」
娘の中に入り込んだ魔王は<破邪聖光印>によって浄化四散した。
だが、一度、魔王の魂に触れた”悪意”は虚を補う様に融合したもう一人の祈の魂の力を用い、それを娘の内で再現してみせた。それこそが、今祈達の目の前に在る不定形の汚泥の正体だろう。
「お前なんか、私が何度だって討ち滅ぼしてやるよ。私の娘、返して貰うかんねっ!」
祈は光の玉から人のかたちへと姿を変える。
両手を大きく振り、複雑な手順を要求する呪の印を正確に結び、かの大魔王に対峙した。
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