第170話 その後始末的な話12
「うん、上手に書けてる。静はえらいねー」
「えへへ…」
艶のあるさらさらの黒髪を優しく撫でると、静は嬉しそうに目を細め、祈の手の感触をじっくりと噛み締めた。
帝国人の識字率は、この世界のこの時代において、何処にも類を見ない程に高い。文字が読めて当たり前、ある程度書けねば使い物にならぬ。それ程だ。
静は、尾噛祈の養女として、今後は帝国貴族の一人に列せられる以上、その程度ではお話にならない。
貴族である以上、文を綴り、書を順序立てて整理し、詩を編纂できて漸く…のレベルが、最低限求められる。出来ねば恥、どころの話では無い。それこそ、存在から否定される程だ。だから、祈は心を鬼にして静を教育せねばならない。最初のスタート地点が他家の子弟よりも遙かに遅かったからだ。
試しに筆を持たせてみたら、どうやら静には才能がある様だ。教える端から、次々に文字を覚えていく。今では簡単な文章なら、空で書ける程になっていた。
”自我”を失いながらも、八幡の街で祈に庇護を求めてきた少女、静。
ボロ布を纏い、垢にまみれ土色にくすんだ肌。潤い無くひび割れた唇、骨が浮き出る程に痩せこけ今にも死にそうになっていた少女の、その面影はもう何処にも残っておらず、今では人類種の見た目からも完全にかけ離れていた。
『この娘、幾つもの死病をその身に飼っておったわ。我がこうして手を出さなんだら、如何にお前があの娘の魂を癒やしてやった所で、どのみち長くは無かったであろうの』
(へぇ。趣味でやったんじゃなかったんだ…)
まず語りかけてくる事の無い邪竜の言葉に、祈は今までの邪竜への評価を少しだけ改める事にした。
祈の内に在る尾噛家頭領の証…”証の太刀”。その本性こそが、過去に尾噛初代駆流の手に討ち取られた”災厄の化身”とも呼ばれた邪竜である。
邪竜には、人間で云う所の”善悪”という価値観は存在しない。
だが、この超越者が何かしらの合力を行う場合、本人にそのつもりが無くとも、それは全て邪竜の善意だ。ただ一つだけ問題があった。一切の手抜き手加減が無いという、唯一の、最大の欠点であり、長所でもある。
『まぁ、趣味については我も否定せんがな。じゃが、今後娘の身に何事も無くば、間違い無く150年は生きるであろ』
静の寿命に対し、邪竜は100年以上の太鼓判を押した。邪竜に身体を弄られた人間は、人類種の軽く倍以上の寿命を得るという、トンデモ事実だった。
…もしかしなくとも、自分も同じくらいの刻を生きる羽目になるのだろうか?
祈は目眩を覚えた。
どうせ死ぬなら、できれば畳の上で。そして沢山の孫、曾孫に囲まれて安らかに死にたい。
祈は常々そう思っていたのだが、思いも掛けない人生の大幅な時間延長に当初の予定が狂ったのだという事実を、嫌が応にも突きつけられてしまった。それだけは理解できた。
下手をしなくとも、枕元に玄孫や、来孫、果ては昆孫にまで囲まれてしまうだろう未来予想図が、祈の脳裏に過ぎる。
自身の臨終の際を想像し、未だ出来上がっていないのを良い事に、邸宅の見取り図の手直しが早急に必要かな…等と思ったのは一瞬だけ。まだまだ100年以上未来の話だ。その時のまだ見ぬ祈の孫…いや、曾孫の代の当主が考える筈だろう。
何で今から自分が死ぬ時の心配なんぞせにゃならんのだ? 祈はあまりの馬鹿馬鹿しさに、妄想と云う名の未来予想を止めた。
(あのさぁ…)
『うむ、何だ?』
(そろそろ『加減』っていう言葉の意味、覚えて?)
愛娘の頭を優しく撫でる手を止めず、祈は自身の内に棲む邪竜を相手に、脳内で盛大な親子(?)喧嘩を始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…まさか、祈クンの話が本当だったとは…ねぇ?」
「どうして、君はそこに? …なんて聞いても、どうせ無駄なんだろうなぁ。あの娘、本当に底が見えないや」
奥御所にて、陽帝光輝と鳳翔が、詳細に、緻密に描き込まれた列島の地図を眺めながら頭を抱えていた。
事の始まりは、斎王愛茉の神託からだった。
『”獣の王国”に巣くう闇が、大いなる光によって討ち払われた』
二人とも最初は何の事かよく解らなかったし、どうせこれは他国の事だ。そこまで重要視してもいなかった。
だが、その後に東の国境砦の牙狼からの伝書によって、彼の蛮族の国に異常が発生したのだとそこで漸く認識したのだ。
対応に追われ大慌てしている翔の姿に、祈がポツリと『先日蛮族の首都に行って、そこで娘を一人拾ってきました。養女にしたいので手続きよろ』等といきなり言うのだから更に大慌て。
現場だけで無く、指揮の頭すら大混乱している最中に、守護神の朱雀が国の頂点でもある帝の枕元に立ったのだから、更に更に現場は大混乱。関係各者大慌てとなったという大波乱に満ちた数日間であったのだ。
「まぁ、とにかく蛮族の脅威が去ったのは目出度い。目出度いんだけれど…流石に、不気味過ぎるよね。ボクらなぁんもしてないのに…」
「だねぇ。まぁ、今の内に空白となった土地を出来る限り削り取っておかないと。これは安全保障に関わる事だからね」
蛮族はその版図を広げるべく、多くの国をその欲望の胃袋の内に収めてきた。
だが、その蛮族を束ねていた一族の全員が、忽然と姿を消したのだという。支配者無き国…蛮族が支配していた広大な土地の大半が、今や空白の地となったのだ。
当然、この事態を把握した周辺国も、突然に降って湧いた棚牡丹の出来事に最大限便乗してくる筈だ。蛮族の脅威が去り、列島各所の東西南北に伸びる街道の要である八幡の街を手にする事ができれば、多くの富が確約されるのだから。
八幡の土地を巡り、大きな争いが起こる事は火を見るより明らかだろう。
帝国と国境を接する地に蛮族の脅威が去ったといえども、空白地をそのままにしていては、結局は要らぬ争いに巻き込まれるだけで何の得にもならない。
では、どうするか?
今の内になるだけ多くの空白地をせしめて、力を付けていくに他はないのだ。
…色々と尤もらしい理屈を捏ねてはいるが、結局は棚牡丹に便乗してやろう。それだけの話でしかない。
「欲を言えば、明石辺りまでは抑えてしまいたいなぁ…」
「現実的な所で言えば、良くて倉敷じゃないかな、光クン?」
どうしても情報の伝達までに、物理的な距離が横たわる問題である以上、事態の着手に大きく差が出てしまうのは否めない。
帝国は、八幡の街からあまりにも遠く離れすぎていた。恐らく周辺の国は、もうすでに動いている筈だ。欲をかき過ぎて無駄な争いを招いては本末転倒だろう。
「…その辺りが妥協点、かな。それじゃ、すぐに取りかかって翔ちゃん」
「承ったよ。ああ、これから忙しくなるなぁ」
この棚牡丹は、早い者勝ちレースだ。
なるだけ早く、そして周到に準備をし、素早く取りかかった者だけが一方的に利益を得る。そんなボーナスゲームだ。
帝国は出遅れこそしたが、今からでも挽回できる。なるだけ多くの土地を得よう。
帝国に領土的野心は無い。前にそう言ったが、あれは嘘だ。
兵の血が無駄に流れる事が無いのであれば、これに便乗せねば勿体ない。
背に翼持つおっさん二人は、列島の地図を顔を寄せ眺めながら、シシシと下品に笑い合った。
誤字脱字があったらごめんなさい。
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