第158話 月に照らされて
「…主さまにキモいって…キモいって言われたぁぁぁぁ…」
四つん這いになったままがっくりと項垂れた、楊美龍は、この世の終わりが来たかの様な深い深い絶望の念に囚われていた。
主と仰ぎ、敬愛してやまない祈の言葉の斬れ味は、美龍にとって正に聖剣の如しであったのだ。
「えー? だってさ、急にボンって胸が膨らんで来るとか、どう考えてもキモくない?」
「「あぁ~…確かに…」」
祈の指摘に、蒼も琥珀も大仰に頷いた。さっきまで硬い胸板だった所に、あり得ないまでの巨大な体積を持った脂肪の塊が、急に二つもぶら下がったのだ。これを怖いと言わず何と言えばいいのか。
確かに、身体の一部にコンプレックスを持つ者ならば、美龍の秘技は神の御技が如し天啓であるのだろう。だが、その変化の課程を目にした者はどう思うか…その一点が抜けているのだと、祈には言わざるを得ないのだ。
「あいやー…美美、そこは全然考慮してなかったーよ。しかし、それ抜きにしても、主さまは、おっぱいフェチでは、ない。っと…メモメモ…」
「オイコラ楊美龍。お待ちになりやがれ」
懐から筆と紙の束を出して何やら熱心に書き込む美龍の角の片方を、祈はがっしりと掴んで強引に引き寄せた。
「…で、そうやって何時でも好きなだけ豊胸できた癖に、何で今まで虚乳にしてたのさ?」
「ワタシの得手は、槍と弓ですから。どちらも胸に脂肪あったら動きに支障でますし? この胸のまま弓引いたらきっと、矢が飛ぶ前にワタシのおっぱいが飛ぶねっ! あははははははははは」
「怖い怖い怖い…」
「痛い痛い痛い…」
美龍の例え話から、思わずその状況を想像してしまった蒼と琥珀は胸を押さえて身悶えた。
「で、主さま? ホントーにおっぱいフェチではないのです?」
「無いと言ってるでしょ?」
確かにそんなモノにフェチ心を擽られる事なぞは決して無い。当然無い、勿論無い。だが、だからと言って、その様な恥ずかしき自分の観察記録を世に残されてはたまったものではない。祈は怪しげなメモが完成する前に、それを取り上げる事にした。
「ああん。主さま、それはあまりにもご無体過ぎますよー。主さまと美美の、『愛のメモリー(仮)』なんですからそれ」
「マジやめて。ホントにやめて。マジ勘弁」
冷静になって考えてみたら、出会いからずっと美龍には赤っ恥をかかされ続けているのだ。こんなものを後世に残されては、更に恥の上塗りとなってしまう。それだけは、祈も絶対に許容できない。
「…いいなぁ。わたしも祈さまにああやって力尽くに引っ張られたい…」
主である祈と美龍のじゃれ合い(?)を見て、琥珀は頬を赤くし、太股同士をすりあわせながら身をくねらせた。
「…琥珀、本当に祈が絡むんと、お前頭ばおかしゅうなるっちゃんな?」
”四聖獣の眷属”とやらはこんなポンコツばかりなのか? 蒼は何とも頭が痛くなる思いをしたのだが、そこで自分の一族が”朱雀の眷属”だったと思い出し、こいつらと同類なのかと盛大に顔を顰めた。
(…あ、そうだ祈。さっきのそこの青竜の眷属が使ったアレだけどよ。もしかしたら、そこの蒼ちゃんの問題、それで解決すっかも知れねぇ)
(え? それ本当? 何か嘘臭いんだけど?)
『肉体なんぞ、所詮精神の器にしか過ぎぬ。いくらでも弄れます』
…確かにそう美龍は言った。だが、それは外見だけの話ではないのか? 危険は無いのか? 祈はいかにそれが俊明の言であっても、そのまま信じる事はどうしてもできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…船斗、後はお願いね」
「御意」
今日一日の事務仕事のノルマを終えた祈は後の処理を船斗に任せ、宿舎に戻る事にした。
「…そろそろ、この身体の生命力が尽きてしまうけれど、それまでに戻ってくるんだろうか…?」
長い廊下を歩きながら、祈は独り言を漏らした。その言葉には不穏な内容が含まれていたのだが、周囲に誰も居ない事を確認しての言だ。
未だ祈の”尾噛邸”造成中である。その間とはいえ、仮の住まいとして魔導局にある宿舎の奥座敷の一部を、祈は間借りしていた。
「ただいま…」
夕刻もとうに過ぎ、すでに辺りは夕闇の帳が降り始めている。開け放たれた襖の奥の座敷は、薄暗き闇の支配下にあった。
昼間の熱気がそのまま籠もっている座敷の中央に、祈は灯りを点す事もなく、ただ一人座す。祈の側に居る筈の琥珀の姿が、今はない。蒼の修行に付き添っているからだ。
いよいよ闇の気配が濃くなった部屋で、無言のままの孤独の時間を過ごす。目を瞑り、ここ最近の状況を頭の中で整理しながら、祈は、ただ何かを待ち続けた。
「…ごめん。遅くなった」
そこに勢いよく現れたのは、祈だった。
「遅いよ、もう。あとちょっと遅かったら、私消えてたよ?」
そんな慌てた様子の祈の姿を確かめ、座した姿勢のままで、祈は口を尖らせて責め立てた。
「ホントごめんね。今から生命力を継ぎ足すから…」
「それ終わったら、記憶の引き継ぎね? 本当に事務仕事が忙しくて嫌ンなっちゃうよ…」
二人の祈は、互いの肩に手をのせ、額を合わせた。
圧縮された情報のやりとりが、急速に相互間で行われた。互いの記憶を参照し、互いの記憶野に全く同じ様に保存される。
「そっかー、やっぱり蒼ちゃんの生命力が足りないかー」
「うん。だけれど、とっしーが何とかなるかもって…」
「そこは、私達の知らない”技術”だから、何とも言えないネー?」
「ねー?」
「魔導局の方は、順調みたいだね。これなら、もしかしなくても増員計画が来ちゃうかなぁ?」
「多分ね。蛮族を迎え撃つ作戦が帝と鳳様から打診されているかんね…」
それを聞いた祈は、嫌そうに顔を顰めた。
「ああ、嫌だ嫌だ。戦なんか無くなっちゃえば良いのにね」
「…それを言う立場に無いのは、解っている筈でしょ、私?」
「解っているからこそ、でしょ? だから今私が動いているんだし…」
帝国軍に所属する魔導士達は、祈が手塩にかけて育て上げた弟子だ。そんな下らないものの為に、命の危険に曝されるかと思うと、いてもたってもいられなくなるのが本音である。
いかに戦場を駆ける事を想定して鍛えているとはいえ、不測の事態が訪れてしまえば、どうなるかは解らないのだ。所詮、人の命とはその程度のものでしかない。それを弁えているからこそ、祈は絶対に戦を回避せねばと奔走しているのだ。
「…だね。それまで私は、貴女の”複製品”でいるから、頑張ってね、私?」
「うん。お願いね。私…」
祈は”複製品”の祈に手を振って、座敷から滑る様に出て行った。
「…冷静に考えたらさ、これってば本当に、気持ち悪いと思うんだよなぁ…向こうも”私”。そして、こちらも”私”。ね、とっしー? 絶対に私ってば、全部の技術を教えて貰ってないよね、これ…」
自分は尾噛祈の複製品、祈を模した”式”である。
その自覚があるからこそ、自分を律し、日々の生活を勤勉に、また慎ましく生きている。だが、ふとこれは誰かの夢、もしくは妄想の類い、幻想ではないか? そう思ってしまう時が、どうしてもあるのだ。
「でも、私一人が我慢すれば、全て上手く行く。そう思わなきゃ、絶対にこんなの、やってらんないよね?」
祈本人との情報の引き継ぎ…記憶の共有は、共にその時の記憶と、当時の感情、情景全てを共有する。そのため、回数を重ねれば重ねる程に、更に本人と複製品との境界が、徐々に曖昧になっていく。
「…これさ、どう考えても一度私を初期化した方が良くね? このままだと絶対に、私は反乱起こしちゃいそうだよ…」
月明かりだけが射す座敷に一人、祈の”複製品”はただ静かに、そのまま月の光によって溶け出してしまうかの様な、淡き光を伴い儚く佇んでいた。
誤字脱字があったらごめんなさい。




