第153話 最後の一人は何処に?
異界…人が人として生の営みを続ける現世とは、隔絶した異空間の事を指す。
その境界は、饅頭の皮の様なものだと表現する者がいる。
中には、饅頭の皮と餡子の境と同じ様なものだと云う者もいる…どちらが餡子側になるのか、それは解らないのだが。
人の営みに合わない存在、もしくは人の営みから弾かれた存在…その様な”まつろわぬ民”が、現世と袂を分かち暮らす様になった世界。それが異界の有様だった。
その小さな異界の一つに、とある上位霊とその眷属達で形成された集落があった。
清廉なる水の煌めきと、肥沃なる大地。そして荘厳なる気に充ち満ちた美しい土地に、突如暴風が吹き荒れた。
『おい。お前、我の代わりにあのちっせぇ島国に行ってこい』
『はぁ? 何十年と放置しときながら、今更ノコノコ現れて何ボケた事ぬかしてやがんだテメェ。殺すぞ?』
『出来もしねぇ事をほざくンじゃねぇぞ。ガキは親の言う事を黙って聞きゃあ良いんだよ。ガタガタぬかしやがんなら殺すぞ?』
『上等だ、テメェ。だったら殺してもらおうじゃねーか、クソ親父がっ!』
『おし、決めた。殺すっ!』
簡単に言ってしまえば、これはただの、極々ありふれた普通の親子喧嘩だ。
だが、ただ一点だけを除いて、それは”普通”とは違った。”幻想種”の中でも最強と云われる、竜による親子喧嘩だった事だ。
強大な力を誇る竜種は、ほんの少し身動ぎするだけでも周囲に多大な影響を及ぼす。ましてや、この二頭の竜は全力で喧嘩をしているのだ。周囲の被害は尋常なものではなかった。
大地は抉れ、水は蒸発し、大気は大いに荒れ、そして植物は枯れた。
どれだけの時間が経っただろうか。
『はぁ、はぁ…ちっ、しぶてぇな。殺すつもりでやったってのに…』
『ぜぇ、ぜぇ…けっ、今すぐくたばりやがれ。こんクソ親父が…』
親の手で、子は打ちのめされた。本当に僅差であったのだが、子にとって、その差は未だ超えられぬ大きな壁となって立ちはだかった。
『だが、我の勝ちだ。である以上、テメェは我に従わにゃならん。それ位は、いくらガキでも弁えてるよな?』
『そンくれぇ解ってるよ、クソが。いつか絶対殺す…』
『可可。吠えるでないわ。だが、此はテメェにも悪い話じゃねぇ筈だ。テメェはそこで、自分が生まれてきた意味を知るだろうぜ?』
『あン? 何言ってやがんだ? いよいよ耄碌したか、クソ親父よ』
『ふん。今はそれで良い…とにかく行ってこい』
『わぁったよ。行ってくりゃ良いんだろ。行ってくりゃ…』
若い竜は、飛翔した。中央大陸から東にある、列島へ向けて…
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『竜の娘よ、すまぬが後は頼んだ』
「はい、任されました」
三聖獣の”策”とは、大魔王の本拠地全てを覆い尽くす大規模な<破邪聖光印>を用いた奇襲だ。
その為に必要な人員は、豊富な生命力を持った強者。術者の祈と、雪琥珀、鳳蒼、斎王愛茉が決定している。
祈は愛茉に協力を要請し、承諾を得る事ができた。すぐに帝都へと戻り、琥珀と蒼には事情を説明してこうして合流したのだが、残りの一人が決まっていないままだ。
最後の一人が決まっていない以上、これ以上計画を進める事ができない。
なれば、その間に面子の中で能力がやや劣る蒼と愛茉に修行をつける話になったのだが、立場上愛茉は基本的に斎宮から動く事ができない。決行の日まで、愛茉は斎宮で別行動となる。
「…祈、アタシが足引っ張ってるごたって、ごめんな?」
「ううん、謝るのは私の方だよー。蒼ちゃん、巻き込んじゃってごめんね」
いつも自信に満ちあふれている蒼の様子が少しだけおかしい。そう祈の眼には映った。帝国の守り神でもある朱雀から『生命力が低過ぎる。これが使えるか、本当にギリギリの所だの』と面当向かって言われてしまえば、仕方が無いのかも知れないが。
修行の為に、かつては”魔の森”と呼ばれた地に三人は来ていた。
生命力とは、大雑把に言ってしまえば”生きる欲”だ。
人里から離れ、様々な不便を背負い込む事によって、生きる上で必要な”欲”を呼び起こす事が、今回の修行の主な目的である。
あとは呪術の基本的な知識と実践。特に蒼は座学の集中力に関してとにかく悪い。これを強制する事で、彼女の”欲”は更に増す筈だ。
「ま、難しく考える必要は無いかんね? お腹が空いた。眠たい。ムラムラする…そういった欲求をストレートに出す。そんだけ」
「…はぁ。そげん当たり前ん事でよかね?」
「これがね、意外と難しいんだよ。まぁ、ちょっとやってみよう。琥珀は、呪術の基礎知識から始めよっか?」
「…ごめん、ちょっと席を外すね?」
不意に来た尿意を晴らす為に、祈は二人に一言告げて、茂みの中に入っていく。
今更遠慮する間柄でもないのだが、やはり排泄に関しては色々憚られる事があるのもまた事実で。
守護霊達も同様だ。特に俊明と武蔵は男性である。いかに育ての親であるといえど、年頃の乙女には色々辛いものがある。当然、その間の俊明達は、祈の手による結界術で閉じ込められる。
外での排泄をする場合、常に認識阻害結界術、意思妨害結界術、物理障壁結界術…三重に仕掛けて、ようやく祈は屈む。これでも足りない位だと思っている程だ。
「…ふぅ。本当に、何で我慢ができないんだろうねぇ…」
「いや、全くそうだね…その気持ち、解るよ。うんうん」
背後からの突然の声に、祈の思考は一瞬停止した。三重の結界を布いて油断していたのもある。だが、あの強固な結界を抜ける奴がいるとは誰も思わないだろう。まさに、これは不意打ちだった。
「…へ?」
「…やぁ」
祈が声のした方へゆっくりと振り向くと、すらりとした痩身の人物が立っていた。艶やかな黒髪を後ろで束ね、真っ白な光沢を放つ独特の装束は、帝国の人民が着る様な着物ではない。そこまでは祈も知覚した。
「き…」
「き?」
だが、そこまでが羞恥の限界だった。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
祈の声に驚いた人物は、大きく後ろに跳躍する。祈は未だ続くソレを止める事もできず。ただただ泣き叫ぶ事しかできない。
「どげんしたと、祈。なにがあった?」
「祈さまっ! 琥珀が今参りますっ!」
祈の悲鳴を聞きつけて、蒼と琥珀が現場に駆けつける。ばったりと痩身の人物と眼が合い、三人とも動きが一瞬だけ停まる。
すぐさま状況を把握した琥珀が、拳を幾度も繰り出した。
「死ね。脳漿をぶち撒け、今すぐ死ねっ!」
「わわわっ、あぶなっ」
「なっ?!」
奇妙な動きで必殺の拳は全て躱されてしまい、琥珀は驚愕に眼を剥いた。
琥珀から一瞬だけ出遅れた蒼が、その動きをフォローする様に手裏剣を投げるが、これも全て躱される。
「っぶないなぁ。君達の顔すんごい怖いから、ここは退散するとしよう。じゃーねー」
自信を持って放った攻撃の悉くをあっさりと躱された二人は、ただ呆然と逃げる人影を見送る事しかできなかった。
「…ううっ、見られた。見られちゃった…もうお嫁に行けない…こんな事なら、しかぶった方が、いくらかマシだったよぉ…」
あの体勢のまま、祈は泣き崩れていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『よぉ。テメェら元気でやってっか?』
『…青竜か。今まで我らの呼び掛けに応じなかった貴様が、今頃何用だ?』
『まぁそう言うな。我も主様の気を”観測”したからこそ、こうしてテメェらに応えたのよ。状況は大体視て解ったつもりだ』
『なれば話は早い。手を貸せ』
『そっちに我の眷属を一人送った。その霊力は我が保証する。精々コキ使ってやってくれ。これで観測上、最悪の道筋からは逸れた筈だ』
『うむ、観測した。これで今まで観測できた”未来”は、ほぼ不確定の海に没した。この混沌は、世界に福音をもたらすのか、それは我らも解らぬが…』
『これで、この世界の管理官へ最低限の義理は果たした。我はもう二度と関わらん』
『貴様らしいの。だが感謝しよう。これで我らも主様に滅されずに済むて』
『テメェらもほどほどにしとけよ? 情が移っちまったら苦しむ事になる』
『それはできぬ相談だ。もう我らは、この世界に愛着も情も移っておるわ』
『然り。我が腹を痛めた子達の行く末、我は永劫、見守ってゆくつもりだ』
『おおう。これだから女って奴ぁ…まぁ、良いさ。主様にもよろしくな?』
四聖獣達の邂逅は、ほんの僅かでしかなかった。時間の概念で言えば、瞬きにも満たないものだったが、上位霊にとって濃密なものだった。
『…これで、足りぬ欠片は揃った。後は決行するのみよ』
『…少し待て。最後の一人が急に観測出来なくなったのだが…これは、どういう事だ?』
『む。竜の娘と何かあった様だ……これは、些か、不味いのでは、ないか…の?』
”未来”を閉ざす出来事に、三聖獣は頭を抱えた。
※1 おしっこ漏らした
誤字脱字があったらごめんなさい。




