第136話 新たなる人事
「…しかし、適当な空き家が帝都内に無かったとはいえ、これはどうなんだ?」
高い塀に囲まれた屋敷の門を潜り、その威容を目の当たりにした望は、大きく頭を振って帝国の沙汰に異を唱えた。
帝の意向により、新たに充てられる事となった尾噛の屋敷は、今ではその名を帝国史から完全に抹消された旧伊武家の家屋であった。
先祖代々帝の側で重職にあり、当代は”近衛将”としてその権勢を振るってきた家の、勢を凝らした大屋敷である。当然、焼け落ちてしまった以前の屋敷の規模、その内装とは比ぶるべくもない。
「…ですが、他の空き家は…」
望の言いたい事は、空も充分に解っている。尾噛の持つ”家の格”が、屋敷の規模と華美な内装に全然合わないのだ。恐らくは、その維持費だけで何時か息切れをおこすだろう事は明白である。
帝都の貴族の屋敷は、他にも空き家は5件ある。取り潰しにあった旧大林、牛島、金子、日高、堀の屋敷だ。
だが、どれもこれも屋敷の内部には、多くの血溜まりが未だべっとりと残っているのだという。その様な不吉極まる”事故物件”に住まう事なぞできる訳が無い。元より武家は験を担ぐのだから。
「だけれど流石にこれは無いな。ウチの懐事情じゃ、この半分でも大き過ぎるくらいだよ」
地方領主が帝都に滞在する期間は、どんなに長くても三ヶ月を超えない程度だ。地方の豪族が、帝国の政に参画するのは、本当にその程度でしかない。
とはいえ、継承の報告の為に帝都に訪れた際、今後その様な出仕で帝都に赴いた時宿暮らしでは不便であるからと、後に邸宅を整えはしたのだが、結局望は一度も屋敷に滞在する事は無かった。家を継いだ初年度から、様々な無理難題を抱える事となった望は、今までその責を免除されていたからである。
帝都内に屋敷を構えるのであれば、常駐する家人、女房衆の俸禄と合わせたその維持費を、宿で過ごした場合で想定した経費を超えない程度の範囲内で収めねばならない。貴族である以上、外見を斯様に繕う事は当然必要であるが、過剰にする必要は全く無い。見栄は過ぎれば負担となり、逆にみっともない行いになるからだ。
「だばってん、帝がここば指定したっちゃ理由も考えんと。それに、望様をずっと帝都に住ませるつもりやけん、ここなんやとアタシは思うとね?」
確かに蒼の言う通り、一年中旅籠住まいでいると想定すれば、ここの維持費も充分出るだろう。だが、それはそれだ。そもそも望は鳳翔が打診してきた”四天王入り”に応えるつもりなぞ一切無いからだ。
「つーか、そもそも土地が残ってるんだから、再建で良いんじゃねーの? まぁ、最初の出費がデカくなるんだがな…」
紋奈の言う様に、屋敷の再建も望は考慮の内に入れていた。また一から屋敷を建てる事になる為に初期投資が嵩むのが難点ではあるが、維持費が今まで通りで済むというのは、確かに魅力的である。
だが、前の屋敷が放火によって焼け落ちたという現実は、やはり縁起からいえば、それを選択肢に載せたくないというのが望の本音だ。どこまでも武家の頭領というは、験を担ぐ生き物なのだから。
「ですが、おひい様の一件もありますし、わたくし達”尾噛”は、名を帝都に知らしめる必要がございます。その意味でもここは、正にうってつけかと思いますが?」
空の言う通り、家名を世に知らしめ権勢を見せつけるには、この位の威容は必要なのだろう。いかに大貴族といえど、何の意味も無く屋敷を大きく華美にしている訳では無いのだ。
「うん。確かに空の言う通りなんだろうね。だけれど…」
あまりにも屋敷の規模が勝ちすぎる。そう望は続けようとした。この前の祈の件を出されてしまえば、望はこれ以上言葉を重ねられなくなる。
だが、その屋敷の維持費はどこから出るのか? 当然尾噛の領民の血税からだ。だからこそ望は、容易に頷く訳にはいかなかった。
「っあぁぁぁぁぁぁっ! 煮え切らん奴ばい、もーっ! こげなと男らしゅうさっさと決めてみんしゃいっ!」
何かにつけ、ここがダメな理由を探し続ける望の態度に、ついに蒼がキレた。体裁を繕う為には、それなりの出費くらい覚悟しろ。家内の安全を守る為には、対外的にも家の権力を世にはっきりと見せつけねばならないのだということを理解しろ。家の維持費の問題だけならば、父である翔からある程度の援助をもぎ取ってきてやるから、さっさとここで決めちまえ。そう言うのである。
「お…おう。蒼の言う…通りだ…ね?」
蒼の吐いた理屈は、一々全てが正論である。あったが為に、望は二の句が継げないでいた。その前に、突然の蒼のキレ具合に呆気にとられただけなのだが。
「ほれ、空姉も何か言ってやりんしゃい。『今日からここが二人の愛ん巣なんやぞ』とかさぁ!」
「ふぇ…な、何を言うのだ、この愚妹めっ!」
妹のいきなりの爆弾発言に、空は顔を真っ赤にして声を荒げた。ニヤけた表情とその声が全く一致していなかった点については、誰もツッコミを入れる事はなかった。
「ん、まぁそれでも良いんじゃね。どうせ姫さんも当分帝都に居るんだろ? ちょっとくらい大きい家に住んでもよぉ」
在庫少ない飴ちゃんをガリゴリと噛み砕き、紋菜はつまらなそうに蒼の意見を支持した。
身内である紋菜の眼から見ても、弟の猛が絶対に尾噛を裏切る事は無いだろう。牛田領との境に、今後兵を置く必要が無いと考えれば、充分にここの維持費が出る筈だ。
定期的に送られてくる文で、祈が帝都で何らかの役に就いているという事は周知の事実だ。当然、帝都に屋敷を構えるならば、一緒に暮らす事になるだろう。ならば多少屋敷が広くて何の不都合があるというのか。そう紋菜は望に問うのだ。
「なぁなぁ、尾噛の殿様。惚れた女をちゃんと繋ぎ止めておくためにゃ、しっかりと男の甲斐性ってモンを見せてやんなきゃダメだぜぇ? ま、それでもウチの旦那様にゃ勝てねーだろうがなぁ」
その一言がトドメの殺し文句になったかは勿論定かではないが、望は分不相応に感じる旧伊武家屋敷に住まう決断を、即日の内に行う事となった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ご明察。まぁ、ぶっちゃけその認識で合ってるよ」
鳳翔は、望の問いにそう応え、屈託無く笑った。紋菜の推察という名の邪推は、正鵠を射ていた様だ。翔のあまりの軽さに望は一瞬で脱力し尽くした。
「ホント、嫌になっちゃうよねぇ。自分に何の関わりの無い者の事であっても、その出世には徒党を組んで全力で足を引っ張ってくる。嫉み。妬み。実に卑しい事だ。これで”貴人”と自称するんだから…何ともねぇ」
湯飲みから立ち上る湯気で顎を湿らせながら、翔は深く深く溜息を吐いた。今日は緑茶ではなく焙じ茶だ。独特の香ばしき茶の香りは、ともすれば殺伐としかねない話題の最中、翔の執務室の空気を落ち着かせる一助となっていた。
自分が損をする事にはギリギリ我慢ができても、他人が得をする所を目の当たりにする事は絶対に我慢ができない。門閥貴族という者達は、そんな卑しい精神を持つ餓鬼なのだ。だからこそ度し難くやりにくい。そう翔は漏らした。
「まぁそんな訳でさ、どちらかと言うとこの人事は、対外的な意味合いが大きい。とは言ってもね、君は充分にその能力と資格を持っていると、ボクは思っているんだ。だからこそ、引き受けて欲しい」
断って貰っても全然構わない。先月の放火の件への備えというのは、その口実であって、望の四天王入りへの要請は元々予定していた事なのだと翔は言う。
先代垰と、牛頭豪亡き後、未だ四天王は2つも空席のまま宙に浮いていた。
地続きに領土が隣接する蛮族、”獣の王国”の出方によっては、その内の一人である牙狼鋼は、このままずっと最前線に貼り付けになってしまうだろう。これでは帝国の政は立ち行かない。
「捕虜交換の一件以降、こちらに対して大きな動きは無いんだけれどね。蛮族の頭は、自らを”大魔王”と称して、東の小国を次々に呑み込んでいる。また近い内に、こちらに侵攻してくる可能性は充分にあり得る」
妹の守護霊達から聞いた<魔王>の概念は、正に衝撃であったが、まさか全く関係の無い翔の口から同じ単語が出て来るとは…望は思ってもみなかった。
単なる符号の一致なのだと思ってしまいたいが、一瞬脳裏に過ぎった不安は、尾噛の若き頭首の精神世界に染みの様な消せない痕跡をつける。尾噛の頭として、帝国に列せられる貴族として、自分はどうあるべきか…こうなっては、覚悟を決める他は無い。
「…尾噛が頭、望。そのお話、有り難くお引き受けいたします。我が力、存分にお使い下さい」
翔の前に跪き、望は自身の力の及ぶ限り、帝国に尽くす事を誓約した。
望の理想像は先代垰が基準であるが為、その自己評価は限りなく低く、そんな自分が末席に加わった所で何が変わるというのかという気持ちは少なからずある。だが、何かを成し得る為には動かねばならぬのだという事を望は知っている。なれば、やるしかないのだと。
望の価値基準は、尾噛領に関する事柄が最上にある。それは今でも変わらない事だ。だが、尾噛の里が平穏でいられるのは、帝国の政治基盤が安定していればこその話である。
蛮族が他国を我欲の胃袋に呑み込んだ後、その国に生きる者の生活は、地獄と変わらないという話も聞く。そんなのは決して赦される事ではない。
帝国を護る事は、そのまま尾噛の里に生くる者達を護る事に繋がるのであれば、自身の持つ力以上の力を絞り出せる。そう望は確信している。
何時かの国境域での攻防は、双方の痛み分けに終わった。
だが、今まで快進撃を続けてきた蛮族は、思わぬ帝国の激しい抵抗に、その意志を挫かれた。
次に蛮族が侵攻の意思を示す時は、恐らくその陣容の規模は、今までの比ではないだろう。だからこそ、帝国は備えねばならない。そのために、帝は、翔は、望の力を欲したのだ。
「望クン、頭を上げておくれ。これからボクらは同僚だ。仲間だ。そこに上下は無いんだから…ね?」
翌日、帝国は以下の人事を発表した。
尾噛家頭領の望を、帝国四天王の一席に。
帝直属機関として新たに帝国魔導局を設置。魔導士部隊は帝国軍からその支配を完全に移行。そして初代局長は、鳳翔の名代として部隊長を務めていた尾噛祈にする。
帝国の重要機関の役職に女性が就く。これは永く続く帝国史の中でも、今までに無い画期的な人事であった。
その波紋は、かつて無い程に大きく、そして反響も凄まじいものとなったのは言うまでも無い。
誤字脱字があったらごめんなさい。




